さまざまな死者たちに向けて/ICANOFという名のスナップショット

さまざまな死者たちに向けて/ICANOFという名のスナップショット

豊島重之(ICANOFキュレーター)

(1)郊外感覚と口内感覚(SUBURBS感覚とLARYNX感覚)

私たちの食生活は10年前、20年前に比べてドラスティックに変化した。朝夕の食材を車で郊外に買い求めにいくし、休日に限らず一家で食事を郊外で済ませてしまうことも、ごくありふれた日常になっている。私たちの食文化は今や、郊外=サバーブズなくして成り立たないとさえ言える。

それに呼応して、中心街の空洞化は、いわば口内感覚=ラリンクス感覚、つまり味覚・嗅覚・触覚という深部知覚の衰退を如実に物語っている。私たちの口内感覚は、20年前やそれ以前の繊細さ多様さを失い、視覚聴覚優位の合理的なシステムに席を譲った。このことが、実は「こころ」の異変にまで影を落としていると誰もがうすうす気づいてはいても、もはや流れは押しとどめようがない。

その具体例として、神戸大震災後のPTSD、とりわけ「サカキバラ事件」「オウム事件」「池田小事件」、ひいては3S(suicide-site・sleeping-pills・sealing)3C(car・charcoal・coating)という三種の神器(じんぎ)で知られる「ネット心中」など、枚挙にいとまがないだろう。

(2)拒食症と自己臭症

拒食症は10代の少女に多く見られ、自己臭症は10代の少年に多く見られる「こころ」の異変である。拒食症や思春期やせ症など摂食障害は、過食・嘔吐を繰返し、極度の栄養失調に突き進んでいく極めて深刻な「食行動=食文化の異常」である。なぜ女子に多いのか。成熟した女性の大人になりたくないという成熟拒否は、大人の女性が豊かに暮らすことのできない社会への抗議を暗示する一方、父母「の」関係と父母「との」関係の危機そのものの表れでもあり、付け加えて言えば「食うか食われるか」社会から「食うや食わず」社会に立ち返って。そこからもう一度始めてみようではないか、という絶望的なメッセージとも思われる。

その背景に適応障害・社会不安障害・うつ病が容易に想定されよう。うつ症状の一つ、食べても味がしないという無味症。それと並行して、ものを言う気力も薄れる無口から緘黙(かんもく)へ。そこからこの拒食症へは一歩である。視覚聴覚優位のサバーバン=suburban感覚に圧倒された、ラリンジャル=laryngeal感覚の残骸をそこにも見てとれる。

一方、自己臭症は、自分の体からイヤな匂いが発散してしまい、そのため周囲の人が顔を背けたり、鼻をつまんだりするという体臭不安であり、その不安が妄想にまでエスカレートする、これまた深刻なケースだ。少年としては、ガスは自然に自分の肛門から洩れて、臭くてたまらない、だから周囲の人もイヤな顔をするのだと信じて疑わない。教室で椅子に座っているのが大変な苦痛であり、それに耐えていると肛門が熱くなってくる、とさえ思う。

これも、関係が希薄化かつ冷却化した郊外感覚に対するイントラ・オーラル=intra-oral感覚の危機のサインだと、即ち自己臭妄想によって失われた関係を回復しようとしている、のだと考えることができる。干涸びた口内を「肛内」に短絡させる絶妙な回路を通して、「こころ」の非情な現在を見事に象徴しているのではないだろうか。

そんな関係の相対性に、関係の絶対性を差し向けること。それが私たちICANOFの願いである。

(3)離人症と「セット/リセット社会」

口内感覚のうち味覚・嗅覚に続いて触覚の症例の一つに、離人症=depersonalizationがある。これは少年少女どちらにも見られる。自分の体をいくら手で触っても触った感じがせず、どうも自分の体だという気がしない。町中を歩いていても、自分が歩いている実感がない。それどころか、周りの世界がよそよそしく感じられて周囲の人がみんな演技をしているようだ、というもの。これこそ、文字通りsuburban感覚に震盪(しんとう)されたlaryngeal感覚の液状化を意味している。

この八戸でも上映された「トゥルーマン・ショウ」という映画の中にも、離人症的なシーンが登場する。主人公truemanの名は「本物」という意味で、この「Trueman Show」という完全実況生中継のリアルタイムドラマの中で、truemanだけが24時間、TVカメラに盗撮盗聴されているのを知らない。彼以外の全ての人が、これがTV番組だと知っているという設定。どこかしら日本という島国を匂わせなくもない、周りを海に囲まれた町の悉(ことごと)くがTVドラマのためのセットである。夜の海辺を照らす遥か遠方の月、それがsatellite eye=operation room、そこにtruemanが生まれた時から番組をプログラムしてきた「神にも似たディレクター」がいる。

立派な社会人に成長した主人公に気づかれることなく番組は30年も続けられる。まさにこのtruemanの住む町=世界こそ「郊外」そのものであろう。彼は何故、この町から海を越えて、別の世界に行こうとしなかったのか。Satellite-eyeであるディレクターが、truemanが小さい時に海で嵐に会い、父を失ったという「Trauma」を彼に植え付けたからだ。言い換えれば、トゥルーマンとはトラウマンの別名に他ならなかった。

(4)テロルの政治と日常の中のテロル

ある日彼は、何か変だと気づく。いつもの町の人々がどこか、よそよそしい、何かに操作されている、プログラム通りに動いている感じがすると疑いを持ち、その疑いを晴らすために、いつもと違った行動を取り始める。この件(くだり)は、離人症から分裂症=統合失調症へとエスカレートする症候によく似ている。この映画で私が特に不気味に思ったのは、彼に問い詰められた彼の妻が「恐怖」を感じながらもプログラム通りに、番組のスポンサー企業の商品名を口走ってしまうシーンだ。

この「恐怖」が何に、誰に、どういう事態に対する反応なのか、どういう質を持つ情動なのか。そのことをよく考えてみよう、というのが私たちICANOFの出発点である。従ってICANOFは、絵画・工芸・彫刻のジャンルよりも写真・映像・メディアアートの領域への志向性を強める。「9.11.」以後、失速するどころか加速して止まない「グローカリズム社会」の只中にあって、人々はどういう異貌を見せるだろうか。大人たちの薄笑い、子供たちの無表情。滅多なことでは人前に明かされることのない、顔の裏面に潜むテロルの貌(カオ)。ICANOFの関心はそこにある。

もう一つ、この映画の中に「Trueman Show」というTVドラマに熱中している、このセットの外の世界に住む視聴者が登場する。なぜ人気ドラマなのか。トゥルーマン=本物、演じているのではない人物が登場するドラマだから。その本物が「演じ」始めた時、彼ら視聴者は愛想を尽かし、TVチャンネルをさっさと変えてしまう。こっちのほうが、不気味さの最たるものかも知れない。

G8に照準を合わせた同時多発テロのロンドンで、アフリカの飢餓と内戦を即時廃絶しようというLIVE8も開催されていた。スティングやU2やブラピやマドンナの呼び掛けにもかかわらず、G8は決してアフリカから飢餓も内戦も廃絶しようとはしないだろう。もしグローカリズム国家が、内戦を輸出する地域を失ったら8日どころか8秒も持たずに内部崩壊しかねないから。その証拠にG8の一つ、このくにの、最もローカルな、このエリアでさえも、日常の中のテロルは粛々と人々の情動を侵しつつある。ICANOFはそのことから少なくとも目を逸らさないだろう。

(5)「シックス・センス」に転生する、深部知覚の悲鳴

ある平凡な精神科医と一人の超能力少年をめぐる、いかにもハリウッド的「癒し」の映画「シックス・センス=The Sixth Sense」を取り上げてみたい。この「第六感」とは①視覚②聴覚③嗅覚④味覚⑤触覚⑥意識覚の6番目のことだが、洋の東西では通念に振幅がある。仏教圏では、さらに7番目の(自己意識や社会意識を超越した)超越覚(西欧の現象学では所謂「超越論的還元」なる概念に相当)のほうを第六感と称する。しかし欧米では、sub-consciousもun-consciousもtrans-consciousも全部含めて第六感なのだ。

いずれにしても確かなことは、「こころ」の病いを私たちは、視覚聴覚優位の思考システムの異変と捉えがちだが、実は普段、思考に上りにくい深部知覚の異変、つまり嗅覚・味覚・触覚といった「からだ」の異変だということではないだろうか。

少年に「シックス・センス」が到来する時「おなかがギュッと締め付けられ、口の中が乾き、背中に悪寒が走る」と言う。端的に少年は、口内=イントラ・オーラル感覚の悲鳴を体現している。少年の第六感が糾弾するのは、精神科医の内面に潜むsuburban senseであり、様々な死者たちを襲った郊外感覚なのだ。救いがたいほどに私たちは、視聴覚より下位に措いてしまいがちなlaryngeal senseを干涸びさせて来たという事実に、目が眩む気がしてならない。

(6)口にすること(食べる/喋る)をめぐる女性たちの内戦

主人公の精神科医と超能力少年に目を奪われていると見過ごしてしまうのだが、実は、この「シックス・センス」は、三人の女性(三様の母)を描いた映画でもあった。①精神科医の妻(というより、子のない母) ②少年の母 ③拒食症で死んだ少女の母。——

①は、夫が少年の治療に夢中になって家庭を顧りみないうちに、母になりそこねた妻は孤独を強いられ、独りで食事を摂らなくてはならなくなり、抗うつ剤を常用することになる。拒食・過食の根っこには、食うか食わないか、食えば何かを誰かを傷つけてしまう、食わなければ自分が死ぬ、という二者択一の問題ではなく、むしろ「誰と共に食べるか」「どういう文化のもとで食べるのか」という、新しい生き方があるはずなのに。

②は、離婚という負い目に輪をかけて「child assault=児童虐待」の疑いを持たれる少年の母。ラストで少年から、不和のまま死んだ祖母の霊が、生前、決して口にしなかった母への愛を聞かされて、全てが涙と共に氷解する。死者を幻視する少年の恐怖と戦慄の「affect=情動」は、精神科医のささいな(けれども、ここが肝腎なのだが)ユーモラスな口ぶりを契機に「癒しの力」へと昇華していく。それこそ超能力と言うべきかも知れない。(—いやはや。)

③は、拒食症で死んだと思われていた少女の真相が、少年が見つけ出したヴィデオ・テープで明らかになる。母が、娘の食事を作って、せっせと運び、まるで日常のタスク=業務のように、何の躊躇(ためら)いもなく洗剤を混入し、さりげなく娘に食べさせる。どんな思いで娘は嘔吐を繰返し、どんな思いで「さあ、これを食べて早く元気になるのよ」という母の心優しい声に従い、そしてどんな思いで死んでいったのか。②で打ち消された苛酷な「child assaultの現実」がここに甦っている。

(7)様々な死者たちに向けて/ICANOFという名のスナップ・ショット

慄然としたのは、映画を見ている私たちだけではない。この三人目の母親自身が、映画の中の、親族や知人たちが集う喪の場で、事実を彼女の夫(少女の父)から指摘されて、初めて慄然とした表情を浮かべる。要するに彼女は、自分のしていることがどういう営為なのか知らなかったのだ。

おそらく、娘を救急病院に連れて行って、九死に一生を得たのは母の機転によるものだと周囲から言葉を掛けられた。それが忘れられなくて、繰返し言葉を掛けられたくて、ただそのためだけに、せっせとタスクをこなしていたにすぎない。或いは喪の場で、みんなから、あれだけ懸命に看病したのにお気の毒でしたね、と言われて嗚咽(おえつ)してみせる、いわば悲劇のヒロインを演じるという無意識の「止みがたい=測り知れない」欲望。

そこには口内感覚を根こそぎ脱色した「郊外感覚の専制」とも呼ぶべきものが見え隠れしている。最初の一撃は少女たちを襲った。その少女たちもそのまま真直ぐ母親となり、今や立派なサイボーグとなった。そして自らのルーツに対する、最初の一撃に対する復習=復讐を開始した。

Suburbs=Larynx感覚の最も痛ましい殉難者は、世界中の女性たちであった。それに気づかないのは、世の男性たちである。

というのも、「夫が少年の治療に夢中になって家庭を顧みない」と前述したが、実は医師が初めて少年と出会った時、既に彼は死者であったことが、徐々に明かされていくからである。キャメラは、死者を幻視し、かつ死者と会話できる少年を介して、医師と少年の母との会話場面を巧妙に綴りあげる。妻とのレストラン場面でも、いかにも「こころ」の擦れ違い同然に仕立て上げている。

しかし、男は自らが死者であることを知らない。あのSatellite-Eyeに居座る「神にも似たディレクター」もまた幽霊的存在であったように。しかも主人公に「父の死」というフィクションを植え付け、さらには落魄(らくはく)した「父の生還」というドラマを演出したことから判るように、ディレクターこそ「死せる父」のアナロジー、いわばキャメラ・アイなのだ。

エンディング近くになって、男は自分が死者であることに漸く気づく。私たちもまた、医師と少年の物語が展ぜられる場所がどこであったのか、に気づかないわけにはいかない。そこはフィラデルフィア。即ちアメリカ建国の地、夥しい血が流された内戦の地なのだ。自らのルーツを忘却した北の帝国が、経済援助と称して今しも南の国々へ内戦を投下している。どうかしている、こんな反復強迫は。

生者である少年には夥しい死者が見える。死者である医師には生者しか見えない。ここにキャメラの秘密がある。ICANOFが写真・映像・メディアアートに拘泥する理由もそこにある。死者は過去にだけ住んでいるのではない。未来にも住んでいる。写真を見てみたらいい。そこには過去の死者のみならず未来の死者も映っている。その上、その写真を見ている人も映っているはずである。(2005. Aug. 13th)

(初出「MEGANEURA/ICANOF2005」/2005.09.17)