流刑地の秘書たち

流刑地の秘書たち

——メディア・テクノロジィと演劇

豊島重之

(1)

浦辺粂子さん。

ファーテメ・モオタメドアーリヤーさん。

これは呼びかけだろうか。その実、一方的に呼びかけられている、だけなのではないだろうか。「あの日」以来、私たちはいくぶんかメディアなのだから、正確に言えば、もはや避けがたくメディアである他ないのだから、私たちは二つの口を持つ。入口と出口のことでは勿論ない。「写真」という口と「上演」という口。あるいは「名」という口と「数」という口。あるいは・・・。

表に、浦辺粂子さん。裏に、ファーテメ・モオタメドアーリヤーさん。

あるいは、裏に、浦辺粂子さん、表に、ファーテメ・モオタメドアーリヤーさん。

二つの名が、この葉書の全容である。宛名と差出し人の名の他にいっさい伝えるべき内容を持たない「おかしなはがき」(後述)だと言うべきだろうか。しかし、メディアがどんなにスーパーハイウェイ化したとしても、それとともにサブリミナル操作もまた、どんなに明からさまな様相を呈することになったとしても、これほどまでに表と裏をザックリと体現しているメディアを、私は他に知らない。

浦辺粂子さんとは誰か。

それはファーテメ・モオタメドアーリヤーさんなしには喚起されることのなかった名だ。では、ファーテメ・モオタメドアーリヤーさんの名を私はどうして知ることになったのか。

——ファテメは化繊のズボンを履き、石油ランプをつけようとしていた。石油が彼女にかかり‥‥火がついた‥‥。隣人たちが必死に火を消そうとしたが、遅すぎた‥‥。たった一分間のことだった。

——これは‥‥。どう言ったらいい? 燃えたマッチ棒を見て、その代わりに人間を想像してみてくれ。(中略)化繊の服は最悪だ‥‥。化繊の服は火がつくと肌に張りつき、燃やしてしまうのだ。(市山尚三訳)

「サイクリスト」や「パンと植木鉢」で知られるイランの映画監督モフセン・マフマルバフは、ハミッド・ダバシのインタヴュウに答えて、革命の同志でもあり映画制作の共同者でもあった最初の妻の、まさにやりきれない事故死のディテールを口重く語っている(「批評空間」Ⅲ・4所収)。そのパートナーの名が、南テヘラン生まれの、ファーテメ・モオタメドアーリヤーであった。そしてその事故が1992年、はからずも湾岸戦争と重なるのだとすれば、なおのこと、化繊が石油製品であり、油産国イラン・イラクが世界経済の火薬庫でもあるという事実のピンポイントを、それ以上に、あの累々たる視えない屍体の山を、この名が一身に担ってしまったと言っていいのではないか。

「9・11」そして「対テロ戦争」と詐称されたアフガン空爆にいたる「高温熱傷性」のメディア的現実に、マフマルバフとその映画「カンダハール」が振りまわされた格好にはなったが、彼自身は世界中のメディアの前で決してその名を口走ることはなかった。ファーテメ・モオタメドアーリヤー。その「名」は、高温熱傷のピンポイントであり、どんなチャドルもブルカも受けつけぬ、ましてやテューリン・シュラウド(聖骸布)など峻拒してやまぬ、黒焦げのひしゃげたマッチ棒なのだと。

近頃、原発のシュラウド(炉心隔壁)の亀裂がメディアを賑わしているが、シュラウド(経帷子)のごときヴェールは、本来、剥きだしの悲嘆を少しでも和らげ、できることなら忘却してしまうためのものではない。悲嘆によって曇りがちとなる現実を、たえず見せつけることによって視えなくされるメディア的現実を、ヴェールごしに明視するためのものであったはずだ。

そのヴェールが、浦辺粂子さんという名である。浦辺粂子さんは、1989年、低温熱傷が原因で帰幽と報じられたお婆さんだ。低温熱傷のせいで亡くなった方は大勢いるはずだが、私が知っている名は浦辺粂子さんだけである。訃報記事に載ったわけは、ファーテメと同じく、脇役として欠かせぬ映画女優だったからだ。けれども、どんな映画の、どんな場面の、どんな表情の、どんな佇まいの人だったか、私にはまるで思い出せない。ただ、その名を知るのみである。

言うまでもなく、「低温熱傷」とは、表皮は何のダメージも受けていないようだが、その皮下組織が深刻な壊死に見舞われている事態をさす。浦辺粂子さんという「名」は、その表皮のことである。吉増剛造さんなら、それを「かわ」と平仮名表記するかもしれない。

(2)

虚を突かれた。

「よだかは、実にみにくい鳥です。」という『よだかの星』の書き出し。どうして賢治は、醜いではなく「みにくい」と表記したのだろうか。第二回八戸芸術大学(02年6月・主催ICANOF)の講師である詩人の吉田文憲氏はこのように切り出した。読み進めばそれが美醜の醜であるのは誰の目にも明らかであり、醜ゆえにこそ満天の星となって今も私たちを照射し続ける、誰もがそういう物語を疑わない。私もそれで読んだ気になっていた。暗黙のうちに平仮名表記を、こどもにも分かる童話という枠に乗せられて読みとばしていたのだ。

文憲氏の指摘はこうだ。「みにくい」とは元々「見えにくい」という意味であって、そこにこそ賢治の含意を読みとるべきではないのか。一同唖然として次の瞬間、一斉に身を乗り出す気配が走った。そうなのだ。見えていても見出したことにはならない、内容が分かったとしても読んだことにはならない、そういうことがままあるのだ。

『やまなし』を初めて読んだ時のこと。なぜか怖くて最後まで読み通せなかったのを覚えている。その恐怖感は、ひとえに「やまなし」という平仮名表記に起因する気がした。やまなしとは何者なのか。山を無しにしてしまうような、世界を一呑みする妖怪なのか。山を成して迫ってくる大津波か黒死病のような凶兆なのか。のちにそれが山梨の実だと分かって、表立った恐怖感が一掃されたあとも、名状しがたい小骨が体感として付いてまわった。

文憲氏の指摘が畳みこまれる。『どんぐりと山猫』に数箇所でてくる「りす」を、賢治は一箇所だけ「栗鼠」と漢字表記している。なぜ、どんぐりと山猫なのかという謎は、りすではサッパリ要領を得ないが、栗・鼠と書かれたなら、誰もがそこに食物連鎖的なトライアングルを、ひいては絶滅収容所的なコロニアリズムさえ見出すに違いないと。

「おかしなはがきが、ある土曜日の夕がた、‥‥」という書き出し。つい私たちは葉書の文面が異様だと思いこんでしまうのだが、当時は土曜の郵便配達がなかったという史実を知らされてみれば、土曜に届いたこと自体がすでに「おかしな」事態だったのであり、翌朝めざめた一郎もまた、夢から醒めたのではなく夢へと醒めた「おかしな」事態の渦中にあるのはごく当然の成行なのだ。ワクワクする夢が「七生報国」の悪夢でもあったのだから。甲乙丙丁の丁。丙種合格すら望めず丁種不合格の葉書を配達されたであろう賢治ならではの、配達のない土曜の夜の身悶えこそが「おかしなはがき」の正体だと言えば言い過ぎだろうか。確かに、よだかは「見えにくく」、よだかをめぐる物語は賢治なしには見出されなかった。しかし本当に「見出し難い」のは、なぜ賢治はそのように書いてしまったのかという、その書かれたエクリチュールにこめられた賢治の「殺意」なのではなかったか。

その「殺意」の物語の典型が『土神と狐』だろう。樺の木に求婚する土神と狐を、先住民と植民者/ゼノフォビアとゼノフィルの和解不能の物語とみれば、賢治は狐になりきれなかった土神その人に他ならない。「わしはいまなら誰のためにでも命をやる。みみずが死ななきゃならんのならそれにもわしはかわってやっていいのだ。」 これを「七生報国」の根本思想だとすれば、重苦しい吐息をついたり、サッと青くなって、また小さくプリプリ顫(ふる)えたりする樺の木こそ「ネーション=ステートの炉心」以外の何者でもあるまい。

「と思うと狐はもう土神にからだをねじられて口を尖らしてすこし笑ったようになったままぐんにゃりと土神の手の上に首を垂れていたのです。土神はいきなり狐を地べたに投げつけてぐちゃぐちゃ四、五へん踏みつけました。(中略)その泪は雨のように狐に降り狐はいよいよ首をぐんにゃりとしてうすら笑ったようになって死んでいたのです。」

賢治には『丁丁丁丁丁』と題された詩片がある。あの甲乙丙丁の丁、最低最悪の丁である。その一節「尊々殺々殺‥‥ゲニイめ たうたう本音を出した」。フラメンコのサパティアードとえんぶりの反閇(へんばい)を同時に想起してみよう。ゲニィとはドゥエンデ、即ち、地霊のことだ。賢治の思考と身体に棲みついてきた「透明な幽霊の複合体」と言い換えてもよい。その地霊が今まさに賢治に辞令を突きつけている。尊とは生殺与奪の「法」のことだが、今や賢治自身に対する「殺意」が行使されようとしている。この詩を読む限り、賢治が自らの死を静かに享受したというのは神話にすぎない。死に瀕し、熱に浮かされながらも、法の殺意にも等しいゲニィとの絶望的な格闘を惜しまない。「殺意」ばかりに翻弄された生涯を想えば、賢治渾身のユーモアのなんという残酷なユーモア!

(3)

『戦争とプロパガンダ』(みすず書房刊)などエドワード・W・サイードの著書を訳出している中野真紀子さんから毎回メールが届く。サイードがアラブ語圏のネット(エジプトの英字ウィークリー紙のオンライン)に定期的に書いたコラムをそのつど邦訳したものだ。02年8月第二週号「Punishment by detail 細目にわたる懲罰」は早くも8月17日に、第三週号「Disunity and fractionalism 不統一と党派対立」は8月22日に、立て続けに私のもとへも配信された。

このこと自体に私は、メディアと演劇をめぐる問題系を串刺しにする特異点を見出す。唐突だろうか。私はメディアの迅速さや利便性のことを言っているのでは無論ない。これは別に新しい事態では全くないし、どだい「新しい」という形容はクリシェ化・死語化したものに冠せられるだけなのだから。現状は、メディアも演劇もどんどん退行するばかりであり、しかもその退行の質と規模がこれほど似通っているものも他に見当たらないのではなかろうか。ひとり「サイード/中野」のみが、メディアの演劇性と演劇のメディア性を根底から批判しつつ、不等価交換と翻訳不能性のただ中にいくつもの間道を伐り拓いていると私には思えるのだ。

——それでも、イスラエルが発明した「テロリスト」と「暴力」は存在する。これはイスラエルがみずからのノイローゼをパレスチナ人の身体に刺青し、それに対する実効性のある抗議がイスラエルのぐずな哲学者や知識人や芸術家や平和活動家などの大多数から出ないようにするための発明だ。

——パレスチナ人がじわじわと死んでいかねばならない理由は、イスラエルの安全という、ほんの目と鼻の先にあるのだが、この国の特別な「不安感」のために決して実現しないものを、獲得できるようにしてやるためなのだ。世界中がこれに思いやりを示すことが求められ、その一方でパレスチナの孤児、病気の老女、犠牲を出した地域共同体、拷問された囚人の声は、耳に届くことも、記録されることもないままに放置される。このようなおぞましい行為も、ただのサディスト的な残虐行為ではなく、もっと大きな目的に奉仕しているはずだと告げられる。なんと言っても、「二つの陣営」がはまり込んでいる「暴力の連鎖」は、いつか、どこかで、阻止されねばならないのだから。(中野真紀子訳)

断るまでもなく、サイードによる括弧付きのテロリスト・暴力・不安感がアリエル・シャロンたちの狡猾な創作であるように、末尾の「二つの陣営」と「暴力の連鎖」もまた、躍起となってそれを阻止しようと思う者たちの、つまりは「この」国のメディアと演劇を担っている者たちの、迂闊な創作であるに等しい。サイードはこう言っている。二つの陣営も暴力の連鎖も、現実には存在しない。あるのは唯一の陣営と、そこから一方的に繰り出される暴力の自己増殖だけなのだと。

ところで、「サイード/中野」イッシューを読み慣れた日本中の受信者たちは、刺青・囚人・拷問・犠牲・発明、とりわけ、細目的な遂行が実は「もっと大きな目的に奉仕している」といった、いつもとはやや色合いを異にするサイードの語法に気づくだろう。そうしてタイトルが「細目にわたる懲罰」であったことを思い返すだろう。そう、カフカの短篇『流刑地にて』のあのエッゲ(馬鍬)装置、「製図屋」と呼ばれる処刑機械の博物誌。三ヶ月間ベッド上に横臥を強いられたサイードの眼前には、有形無形のエッゲが今にも襲いかからんばかりに微動を繰り返していたのだから。

——唇は堅く押しあわされ、目は見ひらいたままで、生きているような表情を浮かべ、まなざしは安らかで、確信に満ちており、額には大きな鉄の錐の先端が突き刺さっていた。(柏原兵三訳)

この将校の死顔に、土神に殺されたあの狐の死顔を重ね合わせることができるだろうか。カフカが『流刑地にて』を出版した1919年、賢治は盛んに童話を創り、じきに妹トシとともに「法華文学」構想を実現しようとしていた。その妹の死を「炉心」として、賢治が『春と修羅』や『注文の多い料理店』を出版することができた1924年、カフカは、ともにパレスチナへの移住を誓った東方ユダヤ人の娘ド−ラ・ディアマントに看とられながら、その誓いも果たせず他界している。仮に、将校を狐に見立てたとして、では、旧司令官=装置が土神で、旅行者は樺の木に相当することになるのだろうか。それとも、旧司令官=装置が樺の木で、旅行者・囚人・兵士のトライアッド(三つ組み)を土神とみなすべきだろうか。

この小説の末尾で、ボートに飛び乗った旅行者が舫(もや)い綱を振りまわして、あとを追って来た囚人・兵士のツインを追い払う。そこに一つの解がある。

(4)

『流刑地にて』がフェリーツェ・バウアーとの交信の所産であることはよく知られている。一方、モレキュラーシアターの始動が、フランツ・カフカによる「フェリーツェへの手紙」に基づく上演『f/F・パラサイト』であったことは、今ではあまり知られていない。この上演は、書簡の演劇化ではなく、演劇の書簡化をモチーフとしており、フランツのfとフェリーツェのF、ここでも二つの名が、フォルテ(強度)とファルテ(襞)を成して、手紙と演劇というメディアの「誤配」を画策していた。

「誤配」の中身はこうだ。舞台上には三人のFと、その手と口に寄生した三匹の郵便脚夫。fからFへと飛来する何百通もの手紙を今まさに書きつつあるのは、f自身ではなく三体のFであり、三連の、いや、仮に脚夫の「脚」で数えることができるとしたら、三脚のパラサイトである。つまり、手紙が書かれつつある現場に決して存在してはならない「宛先」と「運び手」がこの場を占めている。すでに時空の誤配は明らかだ。

この事態を、葉書の「表と裏」が並列的に可視化されているとみてもいいし、擬似餌(ぎじえ)のごとくFには抹消のバツ印しが付いていると考えてもいい。もとより抹消とは、消した跡が分からないように消すことのはずだが、ここではその痕跡が過剰なまでに露呈しているのだ。過剰なのは、手紙の文字とそれを書く身体ばかりではなく、文字そのもの、身体そのものであったことに改めて気づかされる。ここにも二重三重に誤配が折り畳まれているに違いない。そうして最悪の誤配がやってくる。

fの召喚である。手紙の書き手であり、差出し人でもあったf。いわば手紙のオリジンが空位を埋め戻すべく到着した。遅配はいつものことであり、少なくとも誤配ではない、と言いたげである。しかし、様相は一変している。手は書こうとしているが「書痙」を呈し、口は凍えて声とはならない。もはやfの再帰どころか、四人目のFとすら言えない。それなら、文字を奪われた文字性、身体をもがれた身体性、端的に、あのバツ印しが炙り出されたとでも言おうか。「名」から「名」へ手紙が往還する、その折り返し点で「名」を読み違え、「名」を書き換えさえしてしまう四脚目のポストマン=パラサイト。黙字のサイレントP、早い話が、秘書たちとでも言おうか。

『流刑地にて』で、将校が旅行者の鼻先に二度、判読不能の「秘書」を突きつけたことを想い起こしてほしい。将校に言わせれば、一枚目は「装置」の炉心部の図面、二枚目は「正しくあれ」という判決文、いずれも旧司令官の手書きらしいのだが、旅行者にはどうしてもヒエログリフめいた秘書にしか見えない。ではなぜ、三度目、その旅行者に旧司令官の墓碑銘が判読できたのだろうか。おそらく、その判読自体が、前二枚の秘書が秘書であることを忘却させ、その忘却さえも盲却させてしまうためである。

はっきり言おう。墓碑銘は写真のネガであり、そして、二枚の秘書はそのプリントなのだ。決して、その逆ではない。写真がイレジブルな秘書であり、時として薄気味の悪さを漂わせることがあったとしても、ネガを直視することの「おぞましさ」の比ではない。このネガが、このコロニーのみならず「世界というもの」を、今も粛々と複製しているのだと思い知るなら。これが誤配でなくて何だろうか。

もはや、ここがどこであるか、多言は無用だろう。ここは、メディアの流刑地であり、そう言ってよければ、「ポスト」メディアの生地=死地である。そこには見渡す限り、朽ちた籐椅子の小さな山があるだけで、あとは荒涼としたものだ。きっと、どこかの油産国の王家が付き人三千人と六百台のベンツを連ねてバカンスにでも来た時の残骸なのだろう。その滞在記録にはプエルトバヌス村という「地名」が窺えるけれども、今となってはどんな詳細な地図にも見当たらないし、その記録自体もだいぶ疑わしい。

だが、ひょっとして誰かが、そこから籐椅子を四脚だけ取り出して、たとえば「低温熱傷性演劇」とでも銘打って、「名」の演劇=ナノ・シアターを着想しないとも限らない。

演劇が「言語」によるメディアだとすれば、写真は「名」というメディアである。浦辺粂子さん、ファーテメ・モオタメドア−リヤーさん、この「二つの名」で私が示唆したかったのは、このことであり、このことをおいて他にはない。

(5)

「あの日」以来とは、どの日のことか。

プエルトバヌスという地名を覚えている人はもはや誰もいないが、グアンタナモ、この地名だけは忘れないでおこう。

その日、グアンタナモの検屍解剖室から、百体もの脳が持ち去られるという事件が発覚した。そこで明らかになったのは、他でもない、脳が携行可能だという事実である。この単純きわまりない事実の前では、犯人が誰なのか誰の脳だったのか、管理の杜撰さ・手口の巧妙さから倫理上の顛末まで、いっさいが霞んでしまったと言わざるを得ない。

Mobile Brain ——言われてみれば確かに、ヒトはみな、脳を携帯して出歩く存在であった。そこでは、脳を身体から取りはずすか否かは問題ではない。眠る身体、夢みる身体、退きこもる身体、燃え尽きた身体、無為不能の身体、褥(じょく)の身体・・・。

KE-IT-AI演劇が始まる。

脳はいつでも外出する身支度ができている。(了)

(初出「舞台芸術」誌/2002年)