美術館の地下室の肉体

連載・ダンスの記譜法を求めて・4

美術館の地下室の肉体

有森静

モレキュラー・シアター

SCHLOSS/SCHRIFT

作・演出 豊島重之

振付・主演 大久保一恵

1990年3月10日/埼玉県立近代美術館

沈黙の中で白コート、黒コート姿の複数の女たち。女優たちによって演じられるというほか、性差は大して意味をもたない。サングラスとコート、セーターとスカートひとつで「秘書たち」と「城の娘たち」は巧みにいれ替わる。2が4に増殖する畳語のような動きが、Kを巻き込んで3×3に分裂生成し、ひとつの中心的な塊をつくっている。この塊は、絶えず分裂と連結を繰り返しては、類型化[*1]された一連の動きの連鎖を創っていく。

声<ミレナ、この十字砲火のような手紙のやりとりは止めないとなりません、二人とも気が変に・・・><あなたのチェッコ語><笑い声さえ><ただ一つの言葉しか><私の本質><すなわち、不安>。

同時に奇妙なアリア。K、一対の女たちに片腕を支えられ、羽根ペンを握らされ、ゆっくりと宙に持ち上げる。その瞬間、KはKになったのだ。対の女たちは退いて、Kの大きな影だけが上手横の壁際一杯に。言表と対位法的に表現行為のレベルにおいて不安を増殖する。

「城の娘たち」と覚しき5人の女たちとK。娘たちは、頭に電話交換手風のレシーバーを付けていて、外部との接触を暗示させる(事実、暗示にとどまっており、形態による暗示は〝外の力〟[*2]ではない)。片方の靴を脱ぎ、宙に掲げるスローモーな動きの六つの影たち。一連の動作を反復する。女たちは理解不能の単語を早口に、床で片足を踏み鳴らす。ノイズは徐々に大きくさらに強く。

声<あらゆる不幸は、手紙から、もしくは手紙を書くという可能性から生じている><手紙は常に私を欺いて><他人の手紙ではなく、私自身の手紙が私を欺いたのです>。

女のひとりに噛みつくK。「城の娘たち」は相互に噛みついたり、倒れたり、Kの動作を反復する。<これは亡霊どもとの交際に他ならず><書く人の手もとで、書かれる手紙の中に書くそばから発育し・・・><書かれたキスは><途中で亡霊たちに飲みつくされてしまうのです>。

ブラインドの正面(客席にて)。一列にパイプ椅子に座った3人の女たち。<いけませんミレナ、手紙を出せる別な方法を>口々に電信文が書かれた書類を、前席の女に手渡す動作を繰り返す。コンピューターが文書を打ち出す不気味な電子音。

奥の後景でうごめく二つの大きな影絵。争っている。顔と顔の間にはガラスが存在し、片方の顔に押し付けて、それを羽根ペンでひっかく。交互にいれ替わって執拗に反復される。歪んだ顔と顔。鼠の歌姫ヨゼフィーネの声のように、キィーキィー響く羽根ペンの物理音。

あざやかな薄いブルーの布地の、カフカのペン先から生まれた奇妙な生きもの「オドラデク」? 頭部の真中から漏斗状の棒[*3]が突き出している。対峙するK。オドラデク、Kの動きを反復する。1が2に、素早く赤いオドラデクが現われ、青2と赤2に増殖する。奇妙なアリア、増幅されたノイズ。一連の不連続な動き。ペンを宙にかざしたり、はいずり回ったりするK。床に倒れる。2×2のオドラデク、自らの尾を噛む蛇のように、相互に漏斗の先を他の尻につける。首と半身をゆっくり右回転させる奇妙なダンス。上手の壁際に背をもたせかけて床にずり落ちてゆく、K。

ベッドの上でかすかにうごめくKの姿。手に羽根ペン。声<昨日あなたの夢をみました><始終相手に成り変わり、私があなたになったり、あなたが私になったり><最後にあなたに火がつくことになり><ところが・・・燃えているのは、この私のほう><あなたは前とはうって変って、幽霊のよう、暗闇の中に・・・>。

ベッドの傍の二つの影絵。1×1、「城」の娘フリーダとミレナ? <まだ変身が続いて定まりがつかず、誰かの腕の中に倒れたのは、どうも私らしいのでした>。溶暗。

秘められたテクストは「城」、明るみに差出された言葉は「ミレナへの手紙」。幕の代わりに巨大なブラインドが上下に走る。ブラインドの間隙から数個の耳、口、双眼鏡が客席を覗いて一瞬不安に駆られると、同時に電子装置で増幅され、とぎれとぎれに寸断された声が聞こえてきて、それは「ミレナへの手紙」の断片である。声は登場人物の誰か(プロンプター的存在にすぎない)。そこは「城」の内部のようでも、どこか精神病棟の一室のようでもある。

相互に直接、科白が交わされることはない。マイム劇とも通常の言語劇とも異なっている。かろうじて人間的な形象と生の形式をなぞった、高度に抽象化され、誇張を伴ったある類型からなる形象と、分離された声と、テクストの構成との間には複雑な回路が張り巡らされ、コード[*4]で繋がっている。不安を増殖する独自のシステム、反抒情的構成の原理と力が作動し始める(〝精神分析的〟言語によって武装された視線[*5]のもとで)。

演出家=カフカにとってのただ一つの本質的な問題は、二つの作品世界との接触装置をいかに組み立て維持するか、一枚の鏡に囚われの現象学的知——彼らは何故ああも、既知を畏れるのだろう? 認識の革命から芸術の革命へ?——であるよりは、むしろ進む時計[*6]であること。分節的な加速または増殖の方法によって。

諸力によってスライドされた、不可逆的な出来事の空間に知覚され、水平に走る何本もの走査線の透き間ごしに生起する、可塑性の唯一の網目たる「物語」。それを保証する大きな機能へと導いてゆく、内的法則とそのメカニズム。景が景を増殖する寸劇の不連続な連続。明るい日差が注ぎこむ吹き抜けに隣接するフラットな地下室の空間で、初めて出会った未知の(既知の使い方が未知である)表現からは、系を異にする身体の動きと言語の、また諸要素の各々が世界と相互に齟齬する不協和な、運動性のリズムだけが伝わってくる。分節的異化の手法による奇妙なダンス、出口を求める不安のモンタージュと呼びうるものである。

自ら選んだ貧しさ——即ち既知たる流通するモードをいくらか速めたり、遅らせたりする、実験的であるとはそうしたものである——を用いながら、はるかに多くのことが言われようとしている。肉体と言語による表現領域で、そうした瞬間に出会うことはめったにない。それはなにものも暗示したりはしないが、より困難で至福な一瞬である。説明されずに残るもの。相互に同時に手渡されたもの。ちょうどカフカにとっての手紙が、女性たちを縛りつけておくと共に、寄せつけないものとして機能したように。双数的二項関係の拒否。

言表と実在的な形態とが一体となった連鎖は、不気味に触手を拡げてくる。虚が実の世界に侵入してくるように。それは現実的ではないが実在的、潜在的であるような力である。声はサンタグムの軸を主に形成され、形象の連鎖はパラディグムの軸を主に形成される。声の命題は形象の単なる指示ではないし、形象の造形は命題の図解ではない。齟齬はそこからやってくる。身体表現の無意識なものに対する言語の、言語表現の無意識的なものに対する身体の、二重の連接。現象学的知が求める肉体と言語の野生のように、身体に回帰されてしまうことはない。相互に無関係な力の関係。サンタグム(横軸)は描写を促す線、パラディグム(縦軸)は〝イメージなき思考〟 [*7]を促す線である。ひとつの連鎖は、それだけで十分社会的である。

とはいえ、可視的なものと言表可能なものとの隣接、生成される平面[*8]は平板なまま、象徴的なものの次元にとどまっている。闘争の関係でもエロスでもなく、相互に同一なる言語の存在に仕えている。不安のいくらかは情感的なものの痕跡に依存していることからくる。相互に還元不可能な力の関係は、独立した多様性の分離の展開に向かって、ノンセンス[*9]そのものにまで到達していない。

観察者たる観客の半ば強いられ、半ば自発的な沈黙。(<68年の世代>にとって)反演劇は反近代としての付加を欲望する型、反自然としてのテクノロジーの無垢を欲望する型に分離された。浮遊する動体としてのダンス。<退屈によく似た、感覚の「神聖状態」>とは今日、深さによる、または流れとなった動体との遭遇による、麻痺の体験だろうか? それともTVという巨大な電子装置の迷宮? 死へ到る沈黙、その一歩前のニーチェの言葉は、あるいはまだ生きている。異化を伴った(実験的)ノンセンスな出来事の流れとの一体化の方へ(前作「f/Fパラサイト」からは真の飛躍がある。そこには遂に権力となったメソッドとの同床異夢[*10]が色濃い)。

身体表現が限定された場で創造しうるものを、より大きな社会のメカニズム、集団的幻想の抑圧や排除と同一視し、再発見する誘惑には、慎重であらねばならないが、ある種の規定可能な形式的モデルとしてなら、無意識的なものの体系の次元において類推が許されるかもしれない(私たちのこのテクスト自体が、作家・NNに対するさる職能団体への審判と、それをめぐって展開された諸言表への訴訟[*11]として編まれようとしている)。

持続を要する粘り強い作業が、反演劇の<野生>の特異性を保持しながら「周縁」で展開されてある奇蹟に、まず驚かされる。来るべき時のために別の仕方で考えること(恐らくは、別の仕方で抵抗できるようになるために)。問いかけること、活気づけること、内部たる外部の諸領域に向かって。

キーアリングのサナトリウムで、喉頭結核の浸潤にベッドの上で沈黙を強いられていたカフカの姿。いまわのきわに声を奪われたカフカの生涯の皮肉(彼ほど書くこと、書かれた言葉への不信に苦しんだ書き手はいなかった)。死を目前にカフカの創造力は、無数の紙切れ、意味の断片を飛ばした。医者と看護婦、友人たちはメモの暗示には、推測でカフカ的世界と渡り合った。出来事としての世界、他者との交わりの形態、行きのびることは即、投錨または測量の実践だった。

こうして書くことを宿命づけられたメモの断章、沈黙の淵からやってくる伝言からは、<と>であることの不安、ある短編に描かれた「橋」の苦しみが共鳴しあっている(安易な共感は誘いはしない)。喉に覚えている苦痛だけが、それらの断片のリアリティを支えている。カフカにとって世界を薄く切りとることはまた、世界の出来事性そのものをスライドしスライドさせることであった(演劇の後に来るダンス、ダンス的なものは、こうした場所から生まれてくる)[*12]。

モレキュラー・シアターが教えるカフカの偉大と悲惨とは、パラディグムの軸でしか他者と交われなかった/他者として振舞った作家の運命といったものである。

(註:声の翻訳は、辻瑆訳・新潮社刊によっている)

■モレキュラーによるカフカ三部作の完結篇は「Locus Para-Solus=ロクス・パラソルス」[*13]と名付けられ、「フェリーツェへの手紙」による「f/F Parasite=f/Fパラサイト」、「ミレナへの手紙」による「Schloss/Schrift=シュロス/シュリフト」[*14]に続いて、音声素材として「Letters to Ottla=妹オットゥラへの手紙」がとり上げられるという。

芸術祭「カンタータ90」の一環として、来る7月29日・31日・8月1日の三日間、八戸市(WALK八戸)で上演される。東欧諸国の一連の変革に先立つ89年5月には、「f/Fパラサイト」がプラハの「カフカ演劇祭」に招かれている。同芸術祭は大文字によるアート(中央/国家)・小文字によるアート(個人/主体)、共にのり超えを謳っている。

(初出「季刊ダンスと批評et」No.4/1990年)

採録者註

上記テクストは、まだ、筆者有森氏から採録/再掲の承諾を得ておらず、豊島氏から転載承諾をいただいて掲載しているものです。もし何か問題等がありましたら、採録者根本までご連絡をお願いします。

転載承諾者による註[*]

[*1] 凡庸化を匂わせる、否定的な語用だが、文脈上いくばくかは、カフカ『万里の長城』めいた〈ブロック/セリーとしての類型化〉と解することもできなくはない。

[*2] 単に情報資本主義的な見かけや外圧のことではなく、可視的な形態が必ずしも〈外を吹き荒れる諸力〉の潜在を意味しないことが、ここでは批判的に述べられている。

[*3] メタリックなジョーゴの先端=「apex of funnel」を、ここで「棒」と記述しているのは、カフカ『家長の心配』に登場するオドラデクの描写に基づくようだ。

[*4] 不意に思いがけぬ相手に繋がったかと思うと、いかにも恣意的に回路を閉ざしてしまう電話線のコードだけでなく、声や身体の律動を分離・接合する〈上演の奏法〉としてのコードをも指している。

[*5] 筆者は、上演の無意識が〈言語のように〉構造化されている、所謂ラカニアン的〝精神分析〟の稀少な実践例と見立てて、そこに過剰な期待と批判を注いでいるようだ。

[*6] 一見、唐突に思える〝進む時計〟はカフカの言葉だが、哲学者粉川哲夫氏が新聞紙上で指摘したことで人口に膾炙した。おそらく筆者もそれを受けたのだろう。

[*7] 筆者が執拗に拘泥しているように、言表の主体と言表行為の主体とは必ずしも合致しない。そのことを私達は遅まきながらフーコー/ドゥルーズを通じて知ることになるが、言うまでもなく「私は---」「彼は---」や「雨は---」「外は---」を存立させている、日本近代文学史上、自明の事態なのだ。それが演劇やダンスにあっては、たちまち忘却されてしまうのは現象学的な「生ける身体」なるがゆえに、なかんずくラカニアン的な身体を基軸に据えてしまうがゆえに、というのが筆者の批判の一角であり、その批判の突破口として〝イメージなき思考〟が、ここに発動されている。

[*8] ドゥルーズによる「存立=構成平面/内在平面=plan de consistence/immanence」を想起されたい。

[*9] サンス=意味/方向/知覚の対極に、ナンセンス=無意味/無方向/無知覚を措定するとして、そのいずれとも異なる「ノンサンス=非意味/非方向/非知覚」のことを、筆者はここでノンセンスと称している。いわば前述の 〝イメージなき思考〟や〝内在平面〟に限りなく漸近するものと考えてよい。これに引き続く後段の論旨もまた、そのことを裏付けていよう。

[*10] これまた筆者固有の、肯否ないまぜの語用。前作「f/F」から真の飛躍があると言いながら、今作「S/S」は方法的にリファインされて、半ば堂々たる権力の座を占めるに到った、とでも言わんばかり。日本近代文学史と同様、たかが百年ほどの演劇史/ダンス史に権力/反権力を争っている暇などない。それが脳裡にあるなら「同床異夢」の一語を甘受しようではないか。

[*11] この上演の秘められたテクスト=秘書であるカフカ『城=シュロス』と同様の長篇小説『審判=プロツェス』の原義が、訴訟=プロセスであることを想起されたい。執筆中の筆者にとって「68年の連続射殺魔=永山則夫」の日本文藝家協会入会拒絶問題は、それに抗議して作家中上健次らが協会脱会を宣言するなどリアルタイムのトピックスであった。この段に引き続いて、反演劇の〈野生〉とも「周縁」とも綴られる脈絡から逆算しても、演出の豊島を同郷の永山と同じ68年世代に見立てたかったからに違いない。

[*12] うろ覚えで恐縮ながら演劇批評家の内野儀氏が、当時の「批評空間」誌にモレキュラーの豊島と絶対演劇などについて書いた際、有森評のここのパッセージを引用していた気がする。

(採録者註:採録者も未確認ながら、次の記事と思われる。季刊「批評空間」no.4, 1992.1 特集=湾岸戦争以後 小説の論理あるいはフェミニティとモダニティ:内野儀「<いま・ここ>に降り立つ:「絶対演劇」をめぐるノート」)

[*13] レーモン・ルーセル『ロクス・ソルス=孤絶の土地/単独者の場所』を部分的に参照しているばかりか、舞台にはカントレル博士と覚しき人物まで登場したことを報告しておこう。むろん、モレキュラー演劇のほうは『ロクス・パラソルス=孤絶から少しズレた土地/パラソルが差せる場所』。ソル=太陽でもあるから、パラソルとは日陰をつくるディスポジティフ=装置であり、それが次作『ファサード・ファーム=Facade Firm 』に繋がっていった。

[*14] 初演時は、文字通りドイツ語で『城/文書』。英語では『Castle/Epistle=カースル/エピスル=書簡・使徒』もしくは『Secretary/Secretory=セクレタリー/セクリートリー』つまり「秘書/分泌器」。各地で再演されるうちに『S/S=秘書たち』という呼称に定着していった。いくらでも改訂再演できそうだったが、その公演評は思い浮かぶ限り、なぜかこれ一つしかない。筆者の示唆する〈退屈によく似た〉反復に継ぐ反復の演劇は、それ以降の陸続する新作に持ち越されていくことになる。