《間奏——カルトポスタル026》

《間奏——カルトポスタル026》

前信の写真が「石棺」で今信の写真が「岩裂」なのは偶然だろうか。この地の満開のサクラも駆け足で跡を絶ったというのに、かの地では一面のニガヨモギやニゲモガキやヨモギモドキが青々と生い繁っている。その地から63年ぶりに一人の死者がこの地に帰還した。死者の名は石之助さん。その一角にニガヨモギの地名をもつ「かの地」と石之助さんの郷里にほど近い「この地」とは、歩けば63年もかかる抜け道で繋がっていた。あたかも「019」で触れたボルネオの通路型洞穴=ディアケイヴのように。

八戸の海岸沿いにも「地獄穴」と呼ばれる抜け道伝説がある。高さ10mにも及ぶ岩場の上から覗き込んでも切り立った岩肌の裂け目は底が知れない。おまけに海水が飛沫を挙げて逆巻いている。私の町内に隣接する地名「吹上げ」を奄美・沖縄では「フーチャ」と言う。急な坂を下ると湧き水の尽きない日溜まりの窪地に出る。その垣花「樋水=ヒージャー」はかつては聖なる馬の水場でもあった。ニライカナイを望む「斎場御嶽=セーファ・ウタキ」の石舞台には、真上から突き出した二つの鍾乳石の滴たりと、吉兆を占う馬形石が欠かせない。

地元紙コラム「天鐘」によると、地獄穴の別名は「馬捨て場」、北の暮らしを支えた馬の弔い窪=斎場だったらしい。わざわざこんな岩場に家族より大切な馬を葬るにはそれなりの理由があろう。その馬が疾病に罹ったか、厄祓いの供犠としてだったか。いやな想像が脳裏を駆け巡る。岩場から投げ落とされたのは馬ではなく、村八分の隣人か金目のありそうな旅人だったとしたら。それを後世「馬捨て場」と称したのだとしたら。

尾に松明を括り付けた子犬を地獄穴に放ったら数日後に岩手・宮古の「八戸穴」に姿を現したと口承は語る。もし今この地獄穴に生きた子馬を放ったら数ヶ月後に沖縄・宮古のウタキに忽然と生還するだろうか。イワノスケさんの生地岩手の由来は、岩に刻印された鬼の手形、すなわち「鬼封じ」である。言われてみれば今信の写真はそう見えなくもない。いくら封じられても封じられた分だけ何処にでも抜けていく鬼の吹出し笑い=フーチャが聴こえてはこないだろうか。(編者)

採録者註:編者=豊島重之氏

(初出「ISTHMUS/ICANOF2007」/2007.09.12)