寺山修司の風洞——「二度性の演劇」をめぐって

寺山修司の風洞——「二度性の演劇」をめぐって

豊島重之

1 方言性の思考

空気女のうだるような愉悦——肉体もまた確かに一つの形式であった。

荒縄で縛りあげられてピタリと鳴きやんだ柱時計——口にしてみれば「父の名/法=禁制の喩」といったクリシェでしかないものが、目には意外にも「無の贈与による空無の返礼」を切り返してくるように思えたのは何故か。そして何よりも短歌。あの独特なモサッとした古間木弁、古間木が八戸と青森のちょうど中間にあるように、八戸弁とも青森弁とも微妙に異なる「中間性の強度」でもって、針箱に針老ゆるなり——などと呟くごとに映画はページさながら、右から左へとめくられる。その「めくり」の中間、視界をタテに破瓜する「めくらみ」の正午。一首を詠む方言が束の間のタテ線となって、画面の空洞をしばし垣間見せては立ち消えていくのだ。

そこに私は寺山修司の演劇論的トポスを嗅ぎとる。この縦のトピック=topicとは語りの切っ尖であると同時に、極地という空間の切っ尖でもあった。彼はそこにトロピック=tropic、即ち何度でも回帰する喩法と向性を重ね合わせた。それが寺山文学にあっては短詩型であり、寺山演劇にあっては書簡演劇だったのではないか。

どうやら映画ほどの幸運な出会いを演劇では持てなかったようだ。私が実際に立ち会うことのできた寺山演劇は、初期の『毛皮のマリー』や中期つまり市街劇時代の『邪宗門』そして晩期の『奴婢訓』くらいである。この三つの上演から得た演劇論的モメントはと言えば、それぞれ多彩な主題を一つの二律背反へと濃縮的に追い込みながら、祝祭的な哄笑でもって唐突な破局をもたらす、いわばスペクタクル・アンチノミー・カタストロフィの三点セットなのだ。こうしたイディオムしか見出せなかったのは、生まれが目と鼻の先だったせいでも、挑発的なプロパガンダで塗りたくられた彼の背中が遠すぎたせいでもなく、単に私が中間性という思考をとり落としていたためであろう。

石畳の下は砂漠、地面一枚はがせば大空洞、劇場を捨て街へ出よ、街は大いなる開かれた劇場だ、地獄とは他人のこと、おまえはただの現在にすぎない——矢継ぎ早に繰り出される眩惑的な地口や方言をかきわけて、そこにポッカリと放置された「地の口」に聴き入り、彼固有の「方言性」の思考をさらに見定めなくてはならない。

2 半世界の方法

「不在」と「贈与」の間に「半世界」を君臨させながら、その一方で「非飽和」をそっと忍ばせておく寺山修司の周到な言語嗅覚には、改めて驚嘆しないわけにはいかない。その死の数ヶ月前に刊行された『臓器交換序説』は、不在の対話と題されたニューヨーク演劇ルポに始まり、喩の贈与と銘うたれた声高な演劇革命宣言に終わる。

序では、病的なまでにモノローグ化する都市と演劇にダイアローグの不在とその不在の延命を見すえ、次序の一文では、言語と肉体の私性と政治性を切り結ばせながら、その不在を延命ではなく強度として現前させる「肉体言語」を提起している。あとがきでは、当時としては最新の社会科学・文化人類学・構造主義的な知を目ざとく動員したスキャンダラスな都市論演劇=ペストの演劇が標榜され、演劇史に無の贈与ではなく「無媒介の贈与」を突きつけ、さらに呪術的媒介作用による社会転覆こそが急務だとまで言い放つ。

確かに、寺山一流の引用・書換・自家薬籠には腕ずくで人を説き伏せてしまうところがある。革命の表現は表現の革命と同義語だとか、方法のみを論ずる者は頽落するといった批判に、方法について無防備の者は主題においても破綻するとやり返す。あるいは、言語と肉体が切り結ぶ演劇とは言え、言語とは日本語に他ならず、その日本語に対比しうる日本肉体などというものはどこにもないのだ、と混ぜっ返してみせることも忘れない。

しかし、この「不在」の序から「贈与」の跋までを貫く過剰な身ぶりと直接性への苛だちはどこからくるのか。もはや六〇—七〇年代の熱く不穏なディスクールが届かぬまでに、私性と政治性が幾重にも媒介化され、透明なシステムとなって遠ざけられていく八〇年代の速度に鈍感ではありえなかった、と見る向きもいて不思議はない。もとより寺山自身がそうした事態の到来をいち早く見抜いていたからこそ、敢えて同行者の不在を埋めようとして、私性と政治性の無媒介な炸裂を挑発しなくてはならなかったのだと。そして、その明察こそが先行者の孤塁を一層苛だたせたに違いないと。

あるいはまた、それを同時代状況に限定されない「地の口」の文脈で考えることもできよう。即ち、他者にまで成熟した私性は、その口から方言を奪い、場所を抜きとり、演劇に世界を見出す。ところが、この世界こそ実は「口の遠ざかり」の別名なのであった。無の贈与に対する空無の返礼と言い換えてもよい。とすれば、どこまでも追いかける身ぶりしかないのではないか。さもなくば、場所と方言をとり戻すべく回帰を演ずる身ぶりしか。ここに彼の苛だちがあった。

全てを呑み尽くしてやまず、決して充溢することのない世界。そこに何を持ち込んでもそこから何を運び去っても変化の片鱗さえ知らない、残酷なまでに受容的なたたずまい。彼の前にはいつも「非飽和」が口をあけていた。この非飽和にトピック=トロピックを突き立てるにはどうすればいいのか。

寺山が編み出した「半世界」表現とは、観客と創造行為を分有することによって、いわば全体性の放置を顕在化させる方法である。たとえば、ただドアをノックするだけ、あとはドアの内外にいる者たちが演劇を完成させるはずである。あるいは、ただタバコの火を借りるためだけに、毎日その旨のハガキを送りつけ、いよいよその日、その通りの訪問が行われる。演劇の内実は明らかにハガキの受取人の側にある。

そしてついに、自分で自分宛ての任意の指示を書き送る。ハガキを受け取った「いま・ここ」で、指示通りにハガキをかざして、その面積の分だけ隠蔽された世界のたたずまいを記述する。果たして世界はほんの少し口をすぼめてみせた。非飽和に「口の近まり」=「場所のへり」の兆しがさした。とすれば、そこに私たちは、追う思考でも還る思考でもない「方言性」の思考を切り出すことができるかもしれない。

3 二度性の反復

——舞踊の肉体は沈黙へ向かって開かれ、

演劇の肉体は対話に向かって閉じられる。

こう記した寺山修司を演劇に駆り立てたものは実のところ何だったのだろうか。ラジオドラマの成功や新劇への戯曲提供の段階が嵩じて自ら現場を仕掛けるまでに到ったのか。時は叛乱の季節、現実こそがどんな虚構よりも虚構的に見えた時代、異形の肉体や偶然性で武装した集団的想像力の蜂起に赴くのは、出自の虚構をさらに虚構化する上でも不可避だったのか。折しもベケットやカフカ、アルトーやヴィトカッツィなどの実験劇・不条理劇が陸続と移入されたエポック、対他性と批判力の旺盛な寺山を刺激しなかったはずがない。その批判・反批判の応酬への楔として、寺山演劇が起動することになるのは当然の成行だったとも言える。

しかし最大の契機は、演劇もまた一つの短詩型に他ならない、という着想にあったのではないか。演劇の心臓部にあるものこそ実は、終始彼を囚えて離さなかった短詩型のアポリアそのものに他ならない、という着想。決して、短歌のモノローグ形式の頭打ちを演劇のダイアローグ形式で突破しようとしたのではなく、鼻につき始めた自己肯定性と神話的円環性に満ちた紙の上の上演から、むきだしの相互否定性と「いま・ここ」なる直接性が激突する観客を前にした上演へと、大がかりに変貌したわけでもないのだ。

私の考えでは、それは展開ではなく反復、それも無限反復ではなく、一回性=oncenessに対して二度性=twicenessの事態と呼ぶべきものである。彼の書簡演劇が、カフカの「事実—観察」の書法にも似た半世界表現を名のり、アルトーの全体演劇をさらに戦略化した「半分演劇」を自称しようとも、私にとって「二度性の演劇」の先駆形態なのだ。

周知のように、寺山文学はまず俳句に始まる。俳句はしかも、若き寺山が渇望した私性の捕獲どころか、技術的錬成をかえって無私性の方へと連れ出す、いわば「沈黙へ向かって開かれる」供犠の書法であった。すぐさま彼は短歌に乗り換える。座りがいい。飽和感がある。呼びかけが生じ、内なる他者との物語が編まれ、濃密な私性が起ちあがる。けれどまたしても技術的錬成は囁くのだ。ここには丸ごとの世界肯定と底なしの自己言及しかないと。いわば「対話に向かって閉じられる」去勢の書法ではないのかと。かと言って、俳句のあの切断的なまでにリジッドな非飽和にこのまま戻るわけにもいかない。

ここに到って初めて、寺山映画が切っ尖となってめくられたように、短詩型のクリュオテ=残酷なるものが不穏な風洞となって切迫してくる。この切迫こそが前方への反復を可能にするのだ。短歌のタテ穴と俳句のヨコ穴、これを演劇のテクストの形式としてではなく、あくまで上演の形式として反復すること。そして、穴という形式のへりに降り立つこと。そこに寺山演劇のトポスがあるはずであった。

4 椅子の奏法・数の奏法

モノローグ劇ならぬモノローグ形式の上演、つまりはダイアローグ劇批判に私が取りくみ始めたのは八三年、はからずも寺山修司が逝った年である。私としてはこの十年、彼の演劇的疾走が黙過せざるを得なかった特異なモノローグ形式だけを、それを極めて「方言的」な書法ばかりを狩りとってきたつもりであった。だが、それと知らずに彼の「半分演劇」を「二度性の演劇」として、いわばその「死後の生」をまっすぐに踏査してきたのかもしれない。

客席から舞台を望むタテ穴、それは対話に向かって閉ざされる短歌的なタテ穴であり、寺山的修辞の「死後」である。そのあちこちに掘り返されるヨコ穴、沈黙へ向かって開かれる俳句的なヨコ穴、それこそ演劇史の「死後の生」と呼ぶべきものではないか。

カフカの書簡、ヴィトカッツィの定款、ルーセルの推敲、ベンヤミンの脚注、ベケットの「5・9・5・6・4・6・7・7」や「6・6・6・5・6・5・7・7・7」、いわば畸型連歌とも散文的連句とも、ただの中間数の散逸ともつかぬ「散数」の書法。これは私のヨコ穴掘削機械である。ちなみに、この妙な数列はベケット『ことの次第=how it is』から恣意的に抽出されたパッセージの字数である旨を明かしておこう。

ルーセルを除けば、寺山が最も忌避するか敬遠した者ばかりである。中でもベケットのモノローグ劇は、半分演劇の体面をもつだけに圧倒的な攻撃対象となった。寺山にとって、短詩型に淵源する非飽和への半世界戦略はなまなかなものではなかったからだ。彼がベケットから「散」や「数」を抽き出せなかったとしても何一つ瑕瑾にはならない。さらにベンヤミンはブレヒト的異化演劇・複製演劇の権化として弾劾され、カフカはエディプス三角形に囲い込まれた主体回帰の演劇として断罪される。人物・芸術ともその軌跡が驚くほど寺山と相似したヴィトカッツィに到っては、非飽和の一語を貰い受けながら、カントールやシュルツに払った関心の大きさに比してほとんど無視に近い。にもかかわらず私は、まさに寺山経由のルーセル的言語機械を折り返し点として、奇しくも寺山演劇を「推敲」していたことになる。

書簡演劇と並んで彼の最も卓抜した発想による『観客席』は、ヨコ穴を欠くタテ穴だけの半分演劇として推敲に値するものだ。幕があがると幕がある、舞台上に何もない、暗転だけがある、異化すべき主体も物語もない、俳優は観客となり、観客は俳優となるだけ、あるいは観客を演ずる機械だけがある——。私の『観客席』はこれら全てを排除する。

言うまでもなく、ダイアローグ劇批判とはダイアローグの不在への批判であって、それは「いま・ここ」にいる観客にのみ差し向けられているわけではない。「いま・ここ」にいない観客、「いま・ここ」ならざる何物か、死後の生、もしくは未生の死に開かれて、初めてダイアローグと言えるからである。要するに、寺山の『観客席』は観客を主題化することに成功したが、当の「観客席」を捉えそこなったに等しい。

私に言わせれば、観客を第三項化してはならない以上に、第二項化は勿論、第一項化さえ禁じなくてはならない。観客は端然と椅子にあるのでなくては、舞台という穴の形式から方言性を切り出すことは難しい。椅子もまたもう一つの穴の形式であるからだ。寺山がしばしば参照したであろう「非知と無頭」の先行者バタイユによるファン・ゴッホの耳、刈り入れ、そして椅子。それは観客不在のトロピックではなく、観客の観客性を可視化するトピックなのだ。

人一人に椅子二脚/人二人に椅子一脚の演劇。文字が書かれては鉋で削られる椅子の演劇。ベンヤミンの脚注で配列され、ベケットの「・・・7・7・7」でシャッフルされる椅子の演劇——。寺山がやらなかったこと、やり残したこと、それをやるのはある意味でたやすい。むしろ彼が既にやり終えたこと、とことんやり尽くしたこと、その風洞に向かって陥入を試みること。それが二度性の奏法というものである。

(初出:青土社「ユリイカ」九三年一二月臨時増刊「総特集・寺山修司」。2006.02.15にれんが書房新社から刊行された「演出家の仕事 六〇年代・アングラ・演劇革命」に、著者による加筆校正が施された改訂版が転載された。)