ダンスと写真の狭間のイスムス

ダンスと写真の狭間のイスムス

高沢利栄

—ジャコメッティが描いた顔は、あまりに生命を蓄積したために、生きるべき時間がもう一秒も残っていないかのように、なすべき仕草がもう一つも残っていないかのようにみえる。そして、死んでしまったのではなく、とうとう死を知ってしまったかのように。(鵜飼哲・訳)

このジャン・ジュネの断章を、事あるごとに反芻(はんすう)する。単に動かないダンスではなく、動くことのできないダンス。死んだ演劇ではなく、死を知ってしまった演劇。写真もまた同じではないか。とくに昨年末の世田谷シアタートラム公演や沖縄公演以後、「未来の死者たち」にも開かれたダンスと写真との重奏が、私の思考をとらえて離さない。

9月12日よりICANOF(イカノフ)「イスムス=地峡」展が八戸市美術館で始まる。沖縄の比嘉豊光による膨大な写真、港千尋・高嶺剛・仲里効による沖縄映画の「マブイ=魂」と「マチブイ=混沌」に遭遇できる絶好のチャンスだ。そのオープニングに四作のダンスも上演される。ダンスと写真・映像とのイスムスこそが隠れた主題だからである。

まず三人のダンスアーティスト。大久保一恵の戦慄的な佇(たたず)まい。絶えず成熟や完成を拒否する過激にして精緻(せいち)なダンス的思考は、写真に撮られた死者たちの腐臭さえ驚くべき芳香に一変させてしまう。

苫米地真弓の皮下の野生は未知の金属の光沢を発する。もはや苫米地のダンスなしに、人は写真の光面に触れることは出来ない。カメラのレンズと並走する田島千征のダンスの痛快さ。痛快を通り越して「写真の残酷さ」に直行するかのようだ。

あくまで写真的な「正面性」を微動させる秋山容子、あたかも写真の光面を存在感に転ずる斉藤尚子、「untitled-0911」「監視カメラSUBWAY」で斬新な旋回をみせた四戸由香。六人ともソロ。その場に六人いてもソロ作品なのだ。

写真もダンスも実は目に見えないものである。目に見えると思っているとしたら、それは大きな誤解である。六人とも内に秘めた写真的野生を、いま八戸の小さなスタジオで地峡さながら潜行させている。私は欠かさずその場に居合わせているが、そこには胸騒ぐものやら、悦(よろこ)ばしきものやらが生起してやまない。

そう言葉にはできても、私には見えていないのがダンスと写真の光面なのだ。むしろ彼女らの孤絶した佇まいは「見ることのできない力」を見る者に問いただす。非力とか無力とかいうのでは全然ない。「見ることのできない力」—それこそが希望なのだから。(モレキュラーシアター代表)

(初出:「東奥日報」/2007年8月14日)