隣接に隣接する(II)

隣接に隣接する〔II〕──解読=上演から上演=翻訳へ──

豊島重之

(1)

'91年5月、はからずも二つの批評的グリッドが相ついで提起された。西堂行人による演劇─機械と、海上宏美による受苦性の空虚がそれである。一見してもともに硬質なタームであり、誤用・誤読の危険をかえりみず、現場・現実とのレファランスを思いきって切りつめた硬質な態度がみてとれる。ひとつには機械・受苦・空虚にしろ、たとえば幻想・強度・外部といったグリッドと同様、すでに了解され流布し、早くも安置され死語化してしまった印象があるからだ。しかし、ミュラーがそうであるように、意味として死に、喩として死んだ死語にのみ、語のもつ裸形の、いっそう過酷な運動が喚起されることを知っておいていい。もうひとつには後者の、いかにも現在や現場の衰弱への屍を鞭うつような照準が、いくばくか退行的ともみなされる適合とほとんど紙一重だからだし、逆に前者がそうした衰弱を無媒介に活性化してくれるような錯視を与えかねないからである。

こうした誘力の不用意さはたちまち不用意な斥力を招く。現に、新古典主義批判やメタシアター批判と同じレベルでマシーン批判が堂々と挙げつらわれている。〈いま・ここ〉なる偶然を必然に組織する力には、それこそが予 定調和の最たるものであり、共同性の無害な根拠にしか結実しない以上、あらゆる必然を偶然に変え、根拠を次々と根絶していく不用意さの戦略というものが読めないのだ。というより、批評=危機=臨界であることの苦闘をはなから読もうとしないだけのことではないか。これが〈いま・ここ〉なる演劇現場の衰弱でな くてなんであろうか。

言うまでもなく、〈いま・ここ〉から出でよ、その芯部において批評の現場性を起立させよ、と発したのは西堂行人である。演劇─機械とは、その彼がミュラーとの刺しちがえの渦中から切りだした最初のグリッドであり、もはや硬質というより鉱物質の、そしてあくまで自体の延命さえ許さない批評的グリッドなのだということを忘れるわけにはいかない。なおかつ、そこに不用意さがあるとすれば、それはミュラーであれば、どこか一部でも参照していれば、マシーンやマテリアルの名が冠されていれば、HMPのムーヴメントに合流できるという点だろう。事はミュラーと〈いま・ここ〉との刺しちがえ方にあるからだ。しかしそれとても上演自体が物語り、持続自体が明らかにしてくれるはずである。TATAという我々のムーヴメントにおいても同様だ。カ フカと〈場所・非場所〉との刺しちがえ方しだいで、いくつかの上演にもはや二度目はなかった。グリッドはもとよりムーヴメントとは、切り立つ意外に道のな いものなのだ。

(2)

ミュラーはメディアとイアソンの物語にどういうマテリアルを見いだしたのだろうか。谷川道子の二つのテクストから、本田雅也を参照しつつ、私なりのマシーニックな見いだし方を探ってみたい。とりもなおさずそれは、海上宏美が発した受苦性の空虚をいわば逆方向からいぶりだし、その命運を断とうとすることに等しい。

第一のセリー:これは兄と妹(姉と弟)が母に殺されるまでの物語である。空虚から受苦への航跡をめぐる時空間=テクストの起源譚と言いかえてもよい。

最初に失敗が、そして最後に達成がなければならず、最初に忘却が、そして最後に想起がなければならない。事は二度、行われるのだ。なぜ母は兄妹を殺そうと したか。空虚の能産性が耐えがたいものとなったからだ。それは近親姦が禁止されなくてはならない事態に立ち至ったことを示している。ではなぜ母は殺害に失敗したか。空虚はまだ忘却され得ず、母はまた妹でもあったのであり、そもそも禁止が無根拠だったからだ。その意味では、兄妹を救う金毛羊とは禁止の禁止、充溢せる空虚、恣意性のカオスの別名にほかならない。ここに最初のくさびが撃たれ、亀裂が走り、その走り方が贈与=起源に翻訳される。スケープゴートさながら金毛羊が金毛羊皮になり、海を渡って未開へ運ばれた、というより、すべてはこの羊皮を召喚するためにのみ動員されたのだ。

羊皮の傷痕、その線分に沿ってあらゆる分割と移動・欠如と過剰・交換と迂回・受苦と欲動が自生しはじめる。そのためにのみ母は事にしくじらなくてはならず、実はしくじることにおいてのみ、一方では母と受苦の対という外的内的な命名がなされ、事の迂回的な再行使における欲動の根拠が与えられたのであり、他方では羊皮を所有す る分だけ過剰な未開と所有しない分だけの欠如に裏づけられた文化が与えられ、従って羊皮=聖杯の奪還と交換をめぐる時空間の航海が根拠づけられたのである。そのことは未開の領分では兄妹の対が姉弟の対に位相を変え、文化の領分では欠如の称号たる王の交換をめぐって兄弟の対が父─息子の対に位相を変えることに、正確に相似している。すなわち、姉=メディアと息子=イアソンの登場である。

ここに至って、はじめてアルゴー船=物語が出航する。羊皮に刻まれた痕跡どおりに、羊皮が往還するその動線を内燃力として。姉と息子を婚姻させ、その姉=母に首尾よく事を遂げさせるべく、あらゆる生と性を命運づけながら、起源と有限は終焉と無限めざして曳航しつづけるのだ。繰り返しておくが、時空間が起始するということは、有性化の身体つまりは物語化の身体を生み だす距離のセクシズムが発動したということにほかならない。兄妹と姉弟はもちろん、姉妹と未分の母もまた有性化以前であった。羊皮の出現と同時に兄が妹= メディアの姉と対をなし、それがメディア=姉と弟の対と重なりあい、最初の妹と姉があたかも羊皮に包まれて姿を消すのは、まだ禁止の禁止が息をとめていないからであろう。ところがここに息子=求婚者が出現する。欠如ゆえに欲動し、受苦ゆえに迂回し、たえず根拠を求めてやまない婚姻=交換の主体。それが兄妹=姉弟と姉妹=母の対ではなく、能産・生殖を断たれた兄弟の対から来歴するのは強調するまでもないことだ。この主体の赴くところ、細部に至るまで性差化が完遂され、世界はみごとな性差の網状組織に変貌する。もとよりアルゴー船の奇略と強奪とは、未開の文化化・共同体の国家化ひいては情報資本主義化に至る政治経済行為であるばかりか、自己─非自己の距離のセクシズム化の謂ではなかったか。そこには、起源と終焉を両端にもち、有限と無限を内包する巨大な〈い ま・ここ〉という上演の無意識が渦まいているのである。

では、この物語に初めて登場した主体の、求婚=欲動の真の根拠とは何だったのか。言いかえれば、最初にし損じたのは本当のところ誰だったのか。

(3)

ウィルソンはミュラーのテクストの形式に感応した、という内野儀のテクストに私は感応する。あと二つある。にもかかわらず、ミュラーの絶望は希望もろとも中和され、モデルネの死は隠蔽された。そして、彼はミュラーとの交差において、空虚な表面をシニフィアン=テクストで埋め、ついには、それまでシニフィエなきシニフィアンであり得た空虚や表面をシニフィエに、つまり過剰や深層と対をなす欠如や表層へと退行させてしまったのではないか。この三滴の思考に私は感応した。詳しくは項ないし稿を改めなくてはならないが、ここでは、テクストの形式という語をよく検討してみる必要があろう。前節で私が試みてきたのは、 なにも記号論上の、あるいは精神分析や文化人類学上の諸説を放恣に動員したテクスト分析のつもりではない。あくまでテクストの形式を、テクストの身体が自壊する地点、身も世もなく取りみだし、ついには身体が裏返ってしまうと言うほかない極点に見すえたい、ただその一点にかかっている。

海上宏美もまた、谷川道子のいう上演=テクストの形式に感応したに違いない。一口にいえば、解読=上演ではなく上演=翻訳ということ。ミュラーのテクストを固有に読み直し、その能動的な構図を表現・実現していくのではなく、その瞬間々々に到来する言語も待ちうける身体もともに受苦としてあり、上演の逐語的な受苦の裂け目にこそ空虚をあぶりだしていくこと。

たとえば、イ・マガツィーニやカルボーヌ14世は明らかに前者である。全篇に空虚感を漂わせ、ひたすらポテトの皮剥きの受苦に耐えてみせるローザスの「メディア・マテリアル」もまた、後者のように見えてその実、前者の馬脚を露呈する。現代の氷河もしくは砂漠に漂着したアルゴーの船底に三人のクルー。父・母・子あるいは男・女・私生児。この自閉症児を殺され損なった兄妹=姉弟の両性具有の神の子とみてもよ い。いずれにしろケースマイケル演出は、ミュラーとメディアから家族の崩壊後の風景、いわばポスト・エディバリズムのエピソードを解読したに留まってい る。メディア役もイアソン役も能動的な表現意識をみじんも疑うことなく、欠如と過剰は、けっして空虚を喚起させることなく最後まで均衡を保つのだ。ミュラーの三幕をドレスとかつらの着替えで暗示した点に、女性の演出ならではの翻訳性を感じたのが救いと言えようか。

解読にはパラディグマティック な希望が兆されているが、翻訳行為にはシンタグマティックな絶望しか許されていないものなのだ。それは、上演=絶望にこそテクスト=希望が、つまり失敗にこそ達成があるという背理とは似て非なるものである。演劇を希望も絶望もしないという海上の現場性はそこに胚胎している。グリッドはふつう解読格子と翻訳されるが、ここではもはや翻訳装置と言うべきだろう。上演=翻訳とは批評=上演のメトニミーにほかならない。そこから切りだされたものとしてのみ、受苦性の空虚はグリッドたりうるのだ。

(4)

第二のセリー:これは兄と妹(姉と弟)が父を殺すまでの物語である。すなわち、受苦から空虚への航跡をめぐる永劫回帰の終焉=テクストの終焉譚である。

忘却は忘却された。禁止の禁止は禁止されなくてはならなかった。もはや起源の彼岸を探る者はいない。想起されるのは起源=贈与までである。もはや失敗はな い。あるのはさまざまな成就だけである。しかもすべて二次的な成就なのだ。否定であれ無化であれ、偶生であれば共生であれ、出来事のことごとくはたえず 後退し、陥凹してやまない起源=根拠に吊り支えられた同一性と差異性の反復にほかならない。終焉はきまって起源を模倣し、起源に再帰しつづけ、世界は無限の円環運動をなす終焉なき終焉の物語となる。

ここに至って、今まで巧妙に姿をくらましていた最初の失敗者、父の臆面もない登場が可能となったのだ。息子=主体=求婚者に反逆させ、迂回させ、ついには帰依させる起源=終焉の王として。要は息子に自分をころさせ、第二の父=王にしたてあげればよい。 それは果てしなく繰り返されるはずだ。めまぐるしく転変する永劫回帰を内蔵した〈いま・ここ〉のこうした二次性から、我々は果たして脱することができるのだろうか。

父が息子に金毛羊皮を与える二つの条件とは何だったか。火を噴く二頭の牛を飼うことと、それで野を耕し、竜の歯をまくことであった。ここに私は羊皮所有の形式のみならず、羊皮そのものの運動、ひいては上演=テクストの形式をかいまみることができるかもしれない。