地衣類の微光のその先へ

地衣類の微光のその先へ

豊島重之

(1)

私は50年前の豊島和子の舞台を観た。大勢の黒い影の頭ごしに。私はとても小さかったから。なんだか怖い気がして客席の後ろのほうで「爪先立ち」していた。ウロ覚えでしかないが。

2〜3年で消え去っていく舞踊家やカンパニーもあることを思えば、半世紀もの継続には、やはりそれなりの大きな意味があろう。半面、たった一つの舞台で人々の心を震撼させたまま、消え去り得た舞踊家こそが「真に幸い」なのだとすれば、半世紀もの間、欠かさずソロダンスの舞台を踏んできた豊島和子は「幸い薄き」舞踊家と言えるかも知れない。

——「ギンリョウソウ」「蚯蚓、丘を引く」「デンデラ野」「ここはどこの細道ぢゃ」「パンタナルの蚊柱」そして昨年「セラーン=天泣」今年「ピカイア」来年「お背戸に木の実が落ちる夜は」——。

生きてしある限り踊り続けなくてはならない。それは当人の選択や責任でもなく、ましてや自己表現に徹する願望や覚悟に基づくものでもない。選択や願望の余地もなく、容赦もない、ある環境ある条件下に避けがたく生じた。強いて言えば「単に息している」ことから発したとしか言いようがない。豊島和子にとって50周年は節目ではなく、在り得ないかも知れない51・52・53回目の舞台こそが「常に既に先送りされた」節目なのだから。

<彼女はただ、彼女自身のみを知ろうとしている。>

及川廣信さんの文末の一行は、ここにも響いている。

(2)

創設50周年の今、何が起きているか。

50年を振り返ることはもとより出来ない相談だから、振り返ることで必ずやフィクションが混信してくるものだから、振り返らずに、50年目の今を語ろう。

リセアンの一人、千葉馨くんが、埼玉全国舞踊コンクールでグランプリを受賞した。

馨くんは一昨年「DUO」で三位、昨年「うつし身」で二位、そして今年「室内劇」で堂々の一位。しかし私のみる限り、彼は年々、進化しているわけではない。彼の佇まい・正面性・表現力の基礎は「DUO」で完成していた。見る人が見抜くまでに三年かかっただけなのだ。だとすれば、今から三年後の馨くんを想像できない者に「見る資格」はないとも言える。それが50年目の今である。

リセエンヌの一人、四戸由香さんが同じ全国コンクールを欠場した。

由香さんは一昨年「樹根の声・樹冠の声」で奨励賞、昨年「untitled-0911」で東京新聞社賞、そして今年「監視カメラSUBWAY」。昨年を上回るスケール感は誰の目にも明らかだった。しかし出場直前の左膝関節靱帯断裂で欠場。その後、疼痛は緩和したものの、手術なしに完治とは言えず、手術を受ければリハビリで半年は舞台に立てない。彼女は装具を着けてでも舞台に出て、この作品を踊ろうとするだろうか。それとも、このタイトルは永遠に日の目を浴びないほうがいいだろうか。数年後に誰か、このタイトルに適わしいリセエンヌが出現するだろうか。誰にも分からない。それが50年目の今である。

(3)

1986年のリセ30周年の副産物として、リセを卒業してもダンスを続けたい「秘かな意志たち」のための受け皿として、モレキュラーシアターが発足した。バレエ教室を軸としたリセと、公演活動を軸としたカンパニー=劇団との二人三脚。お互いがお互いを反映しあう文字通りのカンパニー=伴侶。

見ることが動くことに転じ、することが黙することに転じ、静まりを聴くことがまた見ることに転ずるという、決して短くはない伴侶としての日々。それはまるで脇道から、追い分けから生えてきたみたいに。あるいは世界が寝しずまる夜闇に、仄かに光る菌糸を音もなく繁茂させていく、苔や黴のごとき、地衣類の微光のその先へ。

モレキュラーの苫米地真弓や田島千征らは、4月1日に新宿のphotographers' galleryで、7月末に八戸市美術館で、9月18日には記念公演「パンタナル」を公会堂で、10月末には世田谷パブリックシアターで、11月末には沖縄・那覇市の前島アートセンターで、「世界の夜」にヒビを走らせつつ、リセ50周年に巡りあった幸運と不運を想わないわけにはいかないだろう。

馨くんと由香さんのあいだに大勢のリセエンヌたちの息づかいがあることを。

馨くんと由香さんがじつは逆の配置であったかも知れないことを。

それが50年目の今である。

その時、私達がとりうる態度とは、なにげなく50周年を迎え、歓ぶべきは歓び、哀しむべきは哀しみ、すべきことを成し、そして、なにげなく50周年をやり過ごすこと以外にはない。

(初出:「PANTANAL 2006」)