方法主義宣言 04
方法主義宣言 04
豊島重之
(1)
この一文を私は一人で書いている。さまざまな他者の言葉に接触して加速と失速、蛇行と横転を繰り返しつつ書き継いでいる。そう言ってよければ、私は他者や死者とともに書いている。しかし、それを方法とは言わない。
(2)
誰も一人で書くほかなく、それがどんなに苛酷であっても、そしてその一人の内実がどんなに複数的であったとしても、それを方法とは言わない。
(4)
ある一文を二人で書くこと。それを方法と呼ぶ。
(5)
一人が「二人で」書き、もう一人もまた「二人で」書く。それは共作でもコラボレーションでもない。二人で手分けして書き、それを持ち寄って編集するという手合いとも違う。それは場の共有や面の分有とは異なる事態なのではないか。
(9)
言い換えれば「n—1」で書くこと。それを方法と呼ぶ。
(11)
方法の「方」の字形は、二艘の小舟を並べて舳先を繋いだフォルムに由来する。それゆえ「方」は、流れに抗して突き進む、今まさに割って入ろうとする、といった原義をもつ。そこから時間空間血縁地縁に絡むさまざまな意味が派
生する。たとえば、四方の気を村はずれの境界に迎える古来の祭祀を「方」と称するのも頷けるところであろう。「方」とは、気の衰えた時空を切開する刃物であり、人知の及ばぬ異界に陥入されるゾンデなのだ。
(12)
こうして、方は「2」として作動する。それは「2」であることによって、全ゆる次元に閃光のような亀裂を走らせ、「2」を刻印していくのである。
(13)
この刻印された「2」、それこそ方法の「法」にほかならない。法はもともと2という「数」を意味した。時空を二分する、割る数、除法の基数のことだった。ところが、除法の一語が示す通り、たちまち魔除けの意味合いが強化された。混沌を嫌って秩序に就き、非道を排して道理を通す、というように。けれども、法の原義が、単に2という絶対数であったことを忘れるわけにはいかない。
(21)
方は「2」として作動するが、それはある種、盲目的な作動であって、方そのものは2であることを知らないと言うべきだろう。それを知るのが法である。「方-法」、それが2であり、二人で書くことの方法性もまたそこにある。
(22)
「n—1」の1とは何か。言うまでもなく、それは正負の符号を縦横に張り巡らされた「法」を意味する。「1」とは文字通り、一人で書くことを吊り支えている統辞法、いわば内在と超越のシンタックスのことなのだ。
(24)
要するに主体性、それが差し引かれた中空にこそ「方-法」は作動する。そして、マイナスとハイフンの段違い平行棒めいた「主体制」の舳先を問うのだ。
(42)
「n—1」という数式が使い古されたタームだとしても臆することはない。「方-法」が見出されるのは、きまって掘り尽くされた定型の廃墟なのだから。
(44)
カフカの「事実-観察」の書法。ヴィトキェーヴィチの定款の書法。ルーセルの推敲の書法。ベンヤミンの脚註の書法。そしてべケットの「5・9・5・6・4・6・7・7」や「6・6・6・5・6・5・7・7・7」、即ち畸型連歌とも散文的連句とも、ただの中間数の散逸ともつかぬ「散数」の書法。
(41)
二人で、しかも「n—1」で書くこと。それを「方-法」と呼ぶ。
(初出:機関配信誌『方法』 第11号 2001年11月3日発行)