序論「ゆるい絶景・ゆらりの対景」

序論「ゆるい絶景・ゆらりの対景」

豊島重之

(1)「写真=ICANOF」のラティチュード(寛容度)とマルティチュード(群生度)

2004年版ICANOF図録は、A・B二冊組みスタイルとなった。

03年度企画展が開かれる04年3月と、04年度企画展が行われる04年9月とのインタヴァルが短すぎて、事実上、別刷りが困難だというのも一因だが、両展のテーマが「風景にメス」と「風景の頭部」という、風景論的思考の連続性を担ったものだという事が直接の契機である。

この図録Aは、両企画展のゲスト・アーティストの紹介と写真図版は勿論のこと、発足以来まる三年間の市民アートサポートICANOFの活動実績報告書としての意味合いも込められている。三つの扉辞「aーceーphale」以外、一切テクストを持たない「写真集スタイル」の図録Bとの違いは、明らかにテクスト中心という事なのだが、写真作品も豊富に掲載されているのは御覧の通りである。

こうした事を可能にするICANOFの情動=affectとは何か。それは、写真のaffect=情動を問う事とほぼ同然である。或いは、ブツとしてそこに「写真がある」という事からもたらされる情動と言った方がいいかも知れない。

写真は光がなければ感光しない。ゆるやかなassociation=連動体を謳うICANOFもまた同様で、そこに何か感応するものがなければ、忽ちブツ切りとなって、ゆるやかさを失い、公共性さえも失ってdissociation=解離してしまうだろう。カメラによっては、シャープな映像を求めるがゆえに、露光量の寛容度(これをラティチュード latitudeと言うが)を厳しく設定していて、光が弱ければシャッターが切れないものもある。

ICANOFの趣旨は、その反対に、ラティチュード=寛容度をなるべく広くしたユニットなので、微光でも無光でも、つまりシャープな映像でなくても、各々に何かしら横繋がりのマルティチュード multitude=群生度があれば誰でもが参加できる。人目を惹かずに葬られた写真にもこの群生度を見い出す事ができるなら、あくまで他者性が、ひいては公共性が(それがどんなに覚束ないものだとしても)そこに訴求されているとICANOFは考える。

(2)「写真=ICANOF」のインテンシティ(強度)とアフェクト(情動)

写真のラティチュードは、露光の許容範囲に留まらない。それは被写体の選択の寛容度にも拡張される。プリントを写真とするなら、それはどんなサイズでもありうる。極小のサイズでも、(見る人の視野を限りなく限定するなら)限りなく極大サイズのプロジェクションでも不可能ではない。「サイズがある」という事自体が忽(ゆるが)せに出来ない事実なのだ。それが人目に慣らされたサイズであればあるほど、写真に強度というものが求められるからである。

強度=intensityとは何か。その対語のextensityが、外延性・拡張性を意味するように、intensityは内包性・集中性を意味する。Extensityがサイズとしての空間性を規定するとしたら、intensityは、その空間を空間たらしめている所以・動因、一口に言えば、affect=情動である。

Affectが愛着という情動である以上、両価的である事を避けられない。Affectには影響という意味と疾病という意味がある。一方では本性(タチ)を、他方では虚飾(フリ)を示唆する。見かけ上、病むほどに心を奪われるなら、根っからそうだったのだと、フリをタチだと(或いはタチをフリだと)思い込む、それがaffectの、行き場のない、その分だけ強さをいや増す命運なのだ。

従って「ICANOF=写真」の情動を問う時、それが及ぶ領野を予め誰も画定できないという事を、外縁を持たない内包のみのaffectなのだという事を、つくづく思い知らされるだろう。早い話が、強度とは強さの事ではない。では、脆さの強度は、情けなさの強度というのは有りなのか。勿論、有りなのである。それを次に示そう。

(3)写真のスラック(ゆるさ)ラクシティ(たるみ)イナーシア(不活性)

ICANOFが、写真のlatitude=寛容度に応じた、寛(ゆる)やかなassociationである事を示す一例として、03年2月「食間の光景/廃景」展における苫米地真弓・濱道一枝・金沢理沙らを始め、今回もまた、春日紀子・田名部加織・半田晴子・花田悟美・佐藤安津子ら、20代30代女性の作品を挙げる事ができる。この五名の写真から、ラティチュード=緯度ならぬ、ロンジチュード=経度にも似た「タチ=裁ち」の強さを見る方もおられよう。

私はむしろ彼女らの、ダル=dullな写真の一面に注目したい。例えば、ここに掲載する春日の写真。弛(ゆる)い青ヴィニールの緩(ゆる)い穴に、ショボイと言えばショボイ、何の変哲もない草萌え。これのどこにaffectがあるのか。そう思われても不思議はない。しかしその時、ショーもないのは写真の方なのか、そう思った情動のショーもなさの方なのか、途端に分からなくなるのだ。

春日紀子の徘徊するダルな視線は、普段なら誰も目を向けない、むしろ人目をユルク拒んでいるかのような、ある種の絶景に踏み入っていく。エントリーされた50点全部がその手合いである。この徹底性をショーもないとは、もはや言わない。ショーもない棄景をショー懲りもなく慈しんでいるわけでもない。あくまでダルな視線の折り目正しさを、そこに読み取る以外にあるまい。

04年3月「風景にメス展」の招待作家北島敬三氏と、04年9月「風景の頭部展」の招待作家しりあがり寿氏に、どこか共通項めいたものがあるとすれば、それは、「ユルイ=slack」という事であり、「イナート=inert」という事である。両氏の制作姿勢の一端は、この図録上の発言から瞭然としてはいるが、それにしても、そのlaxity=ユルサ加減、そのintertia=不活性ぶりは只事(タダゴト)ではない。北島敬三の写真について、ICANOFの米内安芸代表が開口一番、これはノギスで測ったような写真ですね、と述べたのを改めて思い出す。

(4)佐藤安津子のギャグ写真/母娘・二頭立てのギグ写真

ICANOFアヴァン・ギャルズの中から、ここでは佐藤安津子作品に言及してみたい。まず最初の二点を見てほしい。雪の降りやんだ夜道にララ宇宙人もどきの人影。鼻唄混じりの砂浜ララ大掃除。時と所を「はき違えた」だけのギャグ写真。被写体は佐藤安津子本人である。とすると、誰がシャッターを切っているのか。自動かも知れないが、きっと彼女の母親であろう。郵送されて来た50点の写真の随処に母親が出没しているからだ。なぜか馬の首も多い。ひょっとしたら「ギャグ gag=猿ぐつわ/開口器」というよりは「ギグ gig=毛羽立て機/二頭立てレース」なのかも知れない。そこだけに限ればの話、「今村花子とその母親」による写真を、つい連想させられる。

次の二点。雪道の白に合わせ白布を広げて「虚しくユルーク」姿を消したつもりになっている。これも本人に違いない。化粧台の手鏡に映った笑顔、よく見ると雑誌か何かの切り抜き、その図柄のままに「ユルーク退いて」みせただけ。写真が撮影者の不在を明かしているのは周知の通りだが、佐藤は、不在を逆手(さかて)に取って、写真にギャグを噛ませている。不在の口をgagで半ば塞ぎながら、gagで半ばこじ開けてみせるのだ。いわば「写真とは開口器である」。もしそれが彼女の狙いなら、その狙い通りにこちらも呆気(あっけ)に取られてみせなくてはなるまい。

最後の二点も、ブランコ乗りが消えて、竹馬芸人に化けているかに見える。それとも収穫中の農家のおじさんなのか、電線に絡み付いた枝を刈り払っている電線工夫なのか。となると、最前のブランコの下の地面の影が、妙に気になってくる。そういう「二頭立ての写真=対(つい)景」の娯しみ方を彼女は我々に告えてくれる。佐藤のギャグ=ギグ写真は徹底してアナログである。着想だけでなく写真の体温がアナログなのだ。デジカメを使ってパソコンで画像処理すれば、もっと面白いギャグやもっとトリッキーなナンセンスが可能なはずだが、この人に限ってはゼッタイにそういう方向に行く事はなさそうだ。こういう変り種がいるのがICANOFの強みであり、ICANOF的なマルティチュードの証左である。

佐藤安津子の本領は、視線の関節を(ゴキリとではなく)ゆらりと脱臼させてしまう処にある。その外し方にもトロリとしたatitude=気品がある。当人は「演出写真」と称しているが、当人が言うほどソリッドな演出が施される風もないかに見える。しかし実は、どこまでもスラックな、人を食ったように蕩(とろ)いユーモアであるためには、そこにアイロニーが入り込まないようにと、絶えず怠(おこた)りのない演出が、それとなく織り込まれているに違いないのだ。今後、彼女の写真が、どんな絶景や対景の「gig=毛羽立ち」を見せてくれるか、ファンとしては目を離せない差しかかりだろう。

(初出:「風景にメス展/風景の頭部展」図録A(ICANOF/2004.03.10)