問題提起を受けて - 影のある形相こそ”唄”  誠実・純度と一つのコロ

問題提起を受けて - 影のある形相こそ”唄” 誠実・純度と一つのコロ

豊島重之(フォーク・シンガー)

しかし、失われつつある情感と風景に、いつの世も、蹴られ続けていたぼくらではなかったか。失われつつあるという現象にチョコマカとすることで、もっと根底に裏打ちされるべき〝潜象〟をも失いつつあったという死角。そこには盲いの亀がうやうやとしていて道行も手持ちぶさただ。果たして、争点は「あ」という発語の肉感(不意の、不意ゆえにだだっ広い空間)と、「あ・・・」という発語し続けようとする意念(理づくめで道行させられねばならぬ時間)との交錯にあった。件の情感と風景なるものは、実は、こののど仏のうねりぐあいと、前頭葉のくすぶりぐあいとに置換されよう。だから、現象と潜象のはざまに共振するゴムまりの如き分水嶺をこそ唄いたい。そして、ぼくの首の関節に深々と眠りこけている盲いの亀を、いつか浮上させる海に出逢いたいと思うのだ。

この立脚をまだ尻軽だという方に、前脈をフエンすれば、「直径1センチの円」であるという「あ・・・」と、ただ「円」であるという「あ」との臨界にぼくらは露わにされるということ、つまり、ぼくの唄うことはぼく(の世界)以上には拡がらないということと、ぼくが唄う前に、あるいは唄わないとにかかわらず、すべては拡がっているということの予兆、さらには、だから唄うべきだ、ではなくて、ふっと唄ってしまっている、という抒情と論理の奇妙なひとつがいの闇だかり。この視堡をもってしてもまだ弱腰というなら、さらに言おう。世界へのメ線は「相」の顕われ方にある。決して、こちら側の主体意識とか創造意識にあるのではない。即ち、ものを創るとか、何かを唄うとかを、文化に直結させるようなメ座はメじゃないということだ。繰り返して追い打ちをかければ、ぼくらのほんの短い、たかが新聞紙ほどの生涯に去来した万象を、唄ったことと観るか、唄わなかったことと観るかの決定的なバネが、ぼくは結局必要なのだ。

これでぼくの分水嶺はほぼ明確に首がすわった。重ねてこの分水嶺がどこに屹立するかといえば、言うまでもなく、それは、影なる世界だ。ぼくに視(み)えてくるものは、雑踏のいざこざだろうが、他人のつぶやきだろうが、空の質だろうが、海の量だろうが、見知らぬバサマのあくびも、気づかぬ愛嬌で傷つけあう善意も、光も影もぼく自身すら、影なのである。そして、この影なる世界において、影を影たらしめているものこそ、光とよびえてしかるべきだ。ぼくが唄おうとする時、唄おうとする営為は影だ。そして、そのことで開示されてくる影のある形相こそ、唄といい得よう。それはそのまま、のっけの発語の情況に由来している。

以上の拠点に佇み、さて、海だ。もはやわりとメリハリのない、平安な海だ。即ち、こと文化について言うなら、文化運動、対地方、対中央、原点回帰、脱文化、表現の枠など、一切、とりざたするにもはや及ばない。カルチュアも人間の内的荒野を耕やすというほどの意味あいでしかない。耕やすといえば、臍下丹田の腹脳文明ほど、いまに再起を痛感させられる田んぼはなかろう。モップスの唄ではないが、真っ暗田んぼ、マンダラアミダである。むろん〝集落〟としての刈り込みより〝孤落〟としてのそれの方が、より街の異貌を把握しているとも言えよう。風邪ひくのも承知で特記すれば、集落的事件として、メイル・アースがあげられる。これは日本列島の各地から郵送された諸諸の大地を中央の一角に集積し、そこから無名的に各地へと交感しあおうという、いわば安直のきらいある試みだった。ここ糠部在からも三角州の流木や、百石の木の実、カルラ山の空気や天ケ森射爆場の貝土等が送られた。反響はどうあれ、小中野在のイボ魚を公害運動的に棚上げするよりぼくには危うい歯ごたえとして、うなづきの気息を感じた。一方、孤落的事件として、小寺隆韶の「かげの砦」と豊島舞踊研究所の「あおねこ」が拾える。前者を、特殊教育問題へのメスとか、方言劇とか、地方から中央への逆放射とかで、うんぬんしているのではない。そこに精密なくらい誠実で純度のある、古典的典型ともいえる劇的構造を再認識させられたからである。後者は舞霊講荒けずりのそしりは免れないが、そこに世界の〈仕草〉を投げかけたことに、ぼくは一つのコロ(転子)を見届けたのだ。

こうして綴るのも影なら、紙数の尽きるのも影である。ぼくはぼくの眼球の海に、〝鏡〟も〝ガラス〟も鋏のメ座で切断できると言いきかせておこう。糠部在に伝わるはぐれ唄を、そしてぼくは唄おう。まんまい さま、まんまい さま、あがいぽっぽながら、すろいぽっぽけろじゃ〜と。人の世の流れをなぞるのもたまり唄なら、そしてぼくは唄おう。青空が傾いている、ふと みあげると傾いている、青空が地べたに落ちている、ふとみおろすと落ちている、不思議な明かるさが青空にはある、走っても走っても追いつけない、追いてけぼりがある〜と。

(初出:「デーリー東北」紙リレー討論地方文化考<4>より/1972.12.29)