<場所>と<交通>

<場所>と<交通>

浅田彰

<場所>の特異性について考える。

<場所>を均質空間の中の任意の一点に還元することはできない。

といって、その<場所>に固有の内在的本質とでもいうようなものが、<場所>に特異性を与えるわけではない。

<場所>とは多数多様な<交通>の接点なのであり、そこで一度限りの偶然として生起する遭遇こそが、<場所>のもつ還元不可能な特異性の内実なのである。

<場所>を<交通>において見るということは、中心と周縁というような二項間の<弁証法的関係>において見ることとは全く異なる。

ある<場所>が周縁であるとされるのは、言うまでもなく、予め前提された中心から見てのことである。そのような中心化されたパースペクティヴの中では、<場所>の特異性ははじめから抹消されている。

周縁の能産性が云々されるときでも、その能産性は中心の支配に対するリアクションとして、その意味において反動的な形で発揮されるものにすぎない。それが中心の再活性化のために利用=搾取(エクスプロイット)されるとしても、何ら驚くにはあたらないだろう。

周縁にあって中心に抑圧されたものたちのルサンチマンが時として噴出し、一時的な逆転をもたらす、しかし、それも結局は中心の支配を更新するためのものでしかない。これは徹頭徹尾おぞましい構図である。

<場所>はそもそもこのような構図の外にある。中心も周縁もしらぬ多数多様な<交通>のうみだす遭遇。それは純然たるアクションであり、能動的な生産である。それこそが<場所>に強度を与え、特異点として炸裂させるのだということは、改めて繰り返すまでもない。

身体についても同じことがいえる。

言語の分節構造によって抑圧されている身体のカオスが時として噴出し、ハイアラーキーの逆転をもたらすのだとすれば、そこに見出されるのはまたしてもあのおぞましいルサンチマンの構図でしかない。

言うまでもなく、身体はそのようなカオスであるどころか、微分=差異化しかしらない精妙な多数多様体なのであり、受苦に対するリアクションといった鈍重な構図に先立つ軽やかで微細なアクションに満ちた運動体なのである。

<場所>はそのような身体にむかって開かれている。多数多様な<交通>のもたらす遭遇において、さまざまな身体が交錯し、互いに横切り、やがて、微細なリズムで振動する関係の織物をおりなしていくとき、<場所>は演劇の舞台となる。

(初出「TATA」Vol.3/1983。「TATA86 非場所連弾」/1986に再録)