見ること、聞くこと、感じること、考えること、そして想像すること ----三つの『彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも』

見ること、聞くこと、感じること、考えること、そして想像すること

———三つの『彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも』

北山研二(フランス文学)

デュシャンは、1912年にルーセルの『アフリカの印象』の上演を見て衝撃を受けた。そして彼自身が言うには、大ガラスはルーセルの世界から着想した。ところで、どうしてデュシャンはルーセルから影響を受けたのだろうか、あるいは受けることを望 んだのだろうか。その当時デュシャンは、なぜ『階段を降りる裸体』がスキャンダルになってしまうのか、なぜ絵画にはモティーフがあり、背景がなければならないか・・・等々の問題に苦しんでいた。そして彼の前に当然のように居座るこうした絵画・美術制度から逃れようとしているところで、ルーセルに出会い、ルーセルが文学史・文学の制度から断絶することによって革命的な転回をなしえたことを知り、今すぐにでも、制度から切断しなければ何もできなくなってしまう、と思ったのである。この断絶は、制度や時代的文脈が課す問題系との断絶でもあり、たとえば、美術グループや何々派あるいは日常的風景や心象風景の二次元的絵画空間内での色彩的構成的探求との絶縁ということになる。これは一種の起源消去と言ってもよい。つまり制作・作 品をそれ以外の何か、出自・環境・性格とか、美術的歴史・文脈とかの何かで説明することの拒否であり、嫌悪である。言うまでもなく、広く緩い意味で制度や時代的文脈が完全になくなってしまっては制作・作品は成立しないのだから、そこまでの徹底性は留保されている。問題は、すでに公認されている基準や趣味という制度や自明とされる時代的文脈の拒否なのである。

では、こうした断絶や起源消去によってデュシャンは何をしたのだろうか。まず、具体的制作としての『彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも』を考えることにしよう。それ以前の制作そしてそれ以後の制作はそれぞれ固有の問題とあり方があって、それらはそれらで系譜として論じるべきでなく、固有に論じなければならないのだが、今日のところはそれらはこの『彼女の独身者たちによって裸にされた花 嫁、さえも』の部分的な生成とその異質的ヴァリエーションであると、つまり『彼女 の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも』とは密接に関係がありながら、それら固有の隔たりをつねに確認できると言うに留めておきたい。実は、こうしたヴァリエーションこそ固有の意味生成とそれらの生成の「遅れ」を保証するのである。さも なければ、既成の文脈や解読表によってすべて回収されてしまうからだ。 さて、『彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも』にあっても、『階段を降りる裸体』で発見した現象としての、行為としてのエロティスムがやはり継続される。このエロティスムには、機械へのフェティシスムのニュアンスが強いフュチュリスムとは質的に異なる動き、時間を内包した動きというものがある。『階段を降りる裸体』は、この動くエロティスムの二次元的定着ではない。三次元さらに四次元を同時に現前させようとする移動の動きの瞬間的切り取りの連続的提示と見なせるからである。時間の問題も同時に提示されているのである。時間は見ることはできない。 それゆえ、見ることの限界、あるいは見ることの限界を見ることで時間の問題が提示されていると言ってもよい。そうであれば、そこでは既成の概念や思想は問題にされていないことが分かろう。『彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも』では、エロティスムが総体としてはやはり問題であるにせよ、制作方法は一変する。従来の絵画制作とは全く異なる。『彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも 』は一つの作品ではない。それは、同じタイトルを持つ三つの現前からなる。<大ガラス>、<グリーン・ボックス>、<音楽的誤植>である。そして、いずれも未完成のままであり、後年それぞれを未完成のまま発表してしまう。これは、進行中の制作プロセスの提示であって、それまでの作品概念からすれば作品ではない。展示を(あるいは商品価値を)前提にした近代絵画からすれば言語道断なことだ。しかも、見ようによってはエロティスムの戯画化とも見えてスキャンダラスでもあるからなおのことだろう。こうした見方が日本で流行してしまったのはなぜだろうか。どこかで狂ってしまった。たしかにデュシャンの友人ピカビアはそうすることもあったが、デュシャンが少し冷酷とも言えるユーモアを入れることはあっても、戯画化はしなかった。 この種のユーモアこそ、デュシャンの言葉遊びの重要な作用である。デュシャンは笑いの破壊作用と笑うために用いた言葉のずらしとを肯定し続けるのである。 <大ガラス>『彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも』は、そう呼ばれるように、ガラス上に油絵具・ニス・鉛線・鉛箔・ほこりなどによって諸形象を定着したものである。これは構成的に見るならば、上下二枚のガラスに、上半分のガラ スには「花嫁」が、下半分のガラスには「独身者たち」が表示されている。下半分は、透視図法にしたがって幾何学的に表示されている。つまり三次元の形象の二次元的 表示(投影)である。上半分は、たぶんガストン・パウロウスキーとかいう四次元に 詳しい(?)数学者に吹き込まれたらしい(あるいは吹き込まれたふりをした)ものだが、四次元の三次元表示の、さらにその三次元表示の二次元化(投影)なのである。そして、上下の「花嫁」と「独身者たち」によってタイトルの「彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも」つまり「花嫁はその独身者たちによって裸にされて、さえも」が文字どおりその過程として表示される。 では、なぜそう分かるのだろうか。<グリーン・ボックス>という断片的なメモ類を読むとそうらしい。これは、随時書きとったメモを順序も配列も関係なく箱に入れたものである。細部については若干のヴァリアントがあるが、ともあれ、同じタイトルをもつ<グリーン・ボックス>は実に戦略的であることが分かる。美術の制度や時代的文脈からこの<大ガラス>が見られ解釈されることを拒否するということなので ある。これはちょうど、レーモン・ルーセルが自分の作品の死後の開花を願って、文学的遺書ともいうべき『いかにして私は自分の本のいくつかを書いたか』を残して彼のテクストの創作手法の秘密を明かしたのとよく似ている。デュシャンの場合、自作のメモを公表するとはどういうことだろうか。それは、美術の制度や時代的文脈とは異なるところに、テクストなり制作なりが成立しうることのマニフェストであり(歴史という誘惑とその補強の拒否でもあり)、またそうした既成のジャンルとは無縁の創作のあり方の証明でもあろう。<グリーン・ボックス>は、「花嫁」と「独身者たち」がつくるタイトルのような物語として読めることは読めるのであるが、細部とな ると実に多様な逸話と方法的探求に満ちていて、これらのメモの実現をそっくり<大ガラス>に発見するのは難しい。実際デュシャンは<大ガラス>を完成せずに展示したからなおのことそうである。実は、この未完成ということが極めて重要なのである。完成してしまえば、この『彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも』が 一つの物語として完成してしまうし、完成した物語があれば、デュシャンが嫌悪したはずの制度ができあがってしまうのである。デュシャンの未完成とは、新しい制作という完結的物語の罠に陥らないための戦略なのである。これは、近代主義が陥り続ける罠でもある。

最後に、<音楽的誤植>のことだが、これは作曲を偶然に委ねる方法を指示する。 音符一つ一つを偶然に任せて五線譜に配置する。こうすれば、作曲は偶然しか関与しない。演奏については、デュシャンは自動ピアノや自動オルガンがよいとする。<音楽的誤植>は、『彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも』という前二者と同じタイトルを持つが、どうしてそうなのだろうか。二つのことが考えられる。偶然と音・声の問題だ。まず、偶然はデュシャン的制作に深く関与する。たとえば、『三つの停止原基』は偶然がつくった定規であり、これは<大ガラス>に組織的に使用される。あるいは、おもちゃのピストルでつくった「九つの射撃痕」も同様である。 デュシャンが偶然を用いて巧妙に回避したかったのは、手作業の馬鹿さ加減や無意識 的表現の関与なのである。偶然によって、個人の趣味や無意識な美意識から切断できるからである。ここでは近代的な表現の二分法、表現主体と表現内容の分割の回避が試みられているともいえる。つぎに、音・声への関心は、デュシャンが地口を愛好していたことから証明される。声・音は、発語されると同時にしかじかの対象をイメージさせるが、それと同時にまた地口・類似音によって別なイメージもつくってしまうため、声・音はつねに生成=ずらし=生成、あるいは生成=破壊=生成の過程におかれる。また、<グリーン・ボックス>は書いたメモであるが、これもまた言語であるのだから声・音なのである。声・音が生成=破壊=生成の過程にあるからには、<グリーン・ボックス>の決定的最終的意味も確定しないし、したがって声・音を見せるという<大ガラス>も同じことになる。見ることの特権化は失効する。デュシャン以前の絵画は見ることの特権化そのものだった。あえてこれに対抗するには、見ること、聞くこと、感じること、考えること、そして想像することを同列におくなければらない(考えること、想像することについていえば、言うまでもなく<グリーン・ボッ クス>は果てしない思考と想像の過程の提示である)。 さて、三つの『彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも』を通じて横断 的に提起してくる問題がある。見ること、聞くこと、感じること、考えること、そして想像することである。これらは、もちろんルーセルのテクスト群が提起するものでもあるが、それだけでなくデュシャンがルーセルの影響下に入ると決断してから研究 にいそしんだ遠近法の問題とも切り放せない。実際、<大ガラス>の下半分は線遠近法(透視図法)で制作されている。それでは、透視図法はどのようにして構成されたのだろうか(『マルセル・デュシャン全著作』ミシェル・サヌイエ編、未知谷。「訳者あとがき」pp466-467参照)。

透視図法的なものを絵画に最初に導入したのは、ジオットーである。それは二点透視であった。見るものは、タブローの両端の二点の方向に同時に引っぱられるような感覚が引き起こされ、無重力のような状態におかれるが、それでも確かに、聖書や逸 話の語る情景が現にそこで進行していることの目撃者になった。そして、ブルネレスキは消失点を発見した。消失点の発見は、全てが見える神の目ではなく、一個人が見えるものだけを見ることの発見でもあった。描く者=見る者は今世界の中心にいて、話し聞かされていた俯瞰的な世界が一転して原寸大の風景画となり眼前に広がるのを見たのである。ブルネレスキは鏡を使ってそれを発見=構成したようだ。少し誇張かもしれないが、絵画によって二次元的世界から三次元的世界へ移行できるようにしたのである。そして、線遠近法(透視図法)の本格的絵を描いたのはマザッチョであり、さらに消失点の研究に心血を注いだのがウッチェルロである。神の声を(つまり聖職者の声を通して)聞き、世界のありようを想像しながら、目で見ている世界を忘れるという時代から、神の声を、あるいは人々の記憶の声を視覚世界に現出する時代に移ったのである。そこでは眼前に広がる世界を視覚的に把握し同時に精神世界をそこに展開しながら、この精神世界を検討するという精神世界自体の変貌のための大胆な企てがあったのではなかろうか。少なくとも、二次元平面への遠近法の利用は、たとえそれが仮象空間であっても、ある種の無限の広がりを表現できる契機となりえたのであり、その三次元を表わす仮象空間にいろいろな形象を想像的に配置する創造性があったのではないだろうか(たとえば、ウッチュルロは、『ジョン・ホークウッドの騎馬像』では透視図法の消失点を上下二つ設けることによって幻想的で自由な絵画空間をつくったし、---おそらく<大ガラス>の上下の構成方法との類似性がここに確認できるだろう---、『大洪水とその鎮静』ではノアの物語を用いながら時代の社会や宗教情勢に対する見方を巧妙に表現しているし、『サン・ロマーノの戦い』ではレアリティーよりは構成上の問題を全面に押し出し、プレデッラ『聖餅の奇跡』に至っては色彩効果の妙を表現構成に結びつけることができたのである。現代絵画の問題のいくつかはすでに先取りされているかのようだ)。アルベルティは当時『絵画論』(1435年)で線遠近法を詳しく解説した。それはいわば視覚の科学の宣言でもあった。 デュシャンは、当時の線遠近法(透視図法)の歴史を知りその役割の偉大さに驚いたにちがいない。それは単に絵を枠組みに入れる方法とか絵を単に描く手段とかではなかったのである。世界を多次元化する方法であり、単なる視覚優位の絵画ではなく声を現前させる絵画であり、イタリア美術研究とくにルネッサンス研究の大家バーナード・ベレンソンによれば、透視図法とは二次元平面内の三次元感覚そのものの実現であり、触覚と筋肉の運動感覚による想像力があって初めて理解されるものなのである(ウッチュルロの『大洪水とその鎮静』はそれを絵画としているように思えるが)。 したがって、遠近法には、見ること、聞くこと、感じること、考えること、そして想像することが同時的に展開していることが分かる。しかし、とくに絵画の問題から言えば、二つの特徴が重要である。一つは対象の「写実的」再現性であり、もう一つは遠近法空間内でのストーリアの展開可能性である。 まず対象の「写実的」再現性であるが、これは対象のある種の取り込み法である。 辻茂によれば、「中世の壁画では、物語が展開する壁の中の空間は、鑑賞者のいる壁のこちら側の現実の空間とは隔絶して、それ自体で独立した異次元の世界のものとして存在した。それにともない鑑賞者の「視点」は、壁のこちら側では決してなく、壁の絵の内部にあって、対象物につれて画面と平行して移動した。一五世紀に、画家たちが、画面空間の奥行きを意図して、透視図法を模索しはじめたとき、「視点」は、 画面から手前の現実空間に出て、しかるべき位置を占めることになる」(『遠近法の誕生』p58、朝日新聞社)。こうして、対象全体を一個人がその目で把握できることになった。それ以後、一九世紀の近代絵画では、対象再現主義が優先される。つまり対象世界を固定した世界として把握しようとする強い欲求が積極的に肯定される。さらには、タブロー内の世界の合目的な秩序やその自立性を願うあまりそれ自体の存立性をも失っていく。抽象性と色彩主義のゆえに、再現すべき対象を失ってしまうので ある。要するに、視覚空間の純化は、絵画空間の閉塞性をもたらしてしまったのであ る。近代・現代絵画の袋小路の一因はここにある。さて、デュシャンはこの問題をどう考えるのだろうか。透視図法は確かに二次元から三次元へ(三次元から二次元へ) の移行を可能にする優れた方法である。そしてこの方法によって原理的には、三次元から四次元へ(四次元から三次元へ)の移行に応用できる。しかし、平面を透視図法に従って描けば必ず対象再現性の問題がついて回る。これを逃れることはできない。どうすればよいのか。彼は、完成を延期し続ける。そしてついには未完成の状態におくことで、この問題を宙づりにするのである。こうすれば、近代絵画の貧血的袋小路に陥らなくてすむし、対象再現のパラドクスを避けられるのである。デュシャンがこのパラドクスを避けた好例としてレディー・メイドを挙げるべきだろう。日常世界の現物を用いれば、対象再現性の問題は生起しない。しかし、それだけでは現物でしかない。ならば、それにタイトル(あるいはメモ)をつければどうなるだろうか。たとえば、男性用の便器を仰向けに置きこれを「泉」と名づけるとき、それは便器でも自然の泉でもなくなる。しかも、タイトルの意味作用もいわば宙吊りにされてしまう。ここでは、現物でありながらそれではないというズレによってめまいを起こす認識論的な新展開が起きる。デュシャン的な戦略の典型的一例である。デュシャンにとって、言語の果たす役割あるいはそれによる地滑り的波及効果は小さくないのである。次に、遠近法空間内でのストーリアの展開可能性であるが、古典主義やロマン主義ではストーリアとして神話や伝説を用いた。構成される絵画世界に物語=潜在的動きを導入すると、見ることは、構成された対象群の表象性・表現性を見るのでも、物語の媒体を見るのでもなく、構成された対象群と物語との間のたえずずれながら進行する状態そのものの体験となる。この絵画世界に、過去と現在の隔たりの時間そのものを想像的に保証するともいえる。しかし、物語の導入はそれの表示空間の透明化、あるいは物語による表示空間の乗っ取りになりかねない危ういものでもある。デュシャンはそれゆえ、三つの『彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも』を完成せず、生成途中での放棄により物語の強制力から逃れようとしたのである。 最後に、これはアルベルティが意識していたかどうか分からないが、遠近法は自明ではなく、一定の訓練が必要なのである。遠近法の特殊性は、子供の絵やヨーロッパ文化とは接触のない文化の絵画空間から反証されるだろう。遠近法を自由にできるには、ベレンソンがいう「触覚と筋肉の運動感覚による想像力」が、二次元を三次元として認識する想像力が必要なのである。ここでも、身体的な問題系も関わるのである。透視図法は、絵画空間を「見ること、聞くこと、感じること、考えること、そして 想像すること」の問題として捉え直す蝶番になりうる。それは、用い方次第で、近代現代絵画の貧血的袋小路に陥るし、また新しい対象把握・認識法にして新しい対象創出法にもなりうるからである。このような視点に立てば、デュシャンが『彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも』にエロティスムを織り込むことに少しの不思議もないだろう。エロティスムは不可視でありながら、方法の工夫によって見る・ 聞く・想像する・感じる身体的反応で受け取れるのだから、優れて四次元的なものの 三次元的出現なのである。

では、「方法の工夫」とはどういうことだろうか。デュシャンは、<グリーン・ボックス>や<ホワイト・ボックス>で発表したメモ以外にかなりな量のメモを発表せずに死んでしまった。死後遺族によって発表されたメモのなかには、「アンフラマンスinframince」に関するメモが相当量ある。「アンフラマンス」とは、アンフラinfraが「下の、以下の、下位の」の接頭辞であり、マンスminceが「薄い」という形容詞 なので、形容できないほど薄い状態や現象を指す形容詞なのだろう。「極薄な」か「 超薄な」くらいの日本語だろうか。「決して実詞にしないこと」というメモがあるので、もちろんいままでの語彙や概念では名指すことはできないことをデュシャンは承知していた。一般に感覚は、制度的に承認された、あるいは意味づけされた範囲の対象しか感知しないが、この感覚の限界を越えたところにこそリテラルな世界、四次元があり、それは「アンフラマンス」の切断によって一瞬感知できると、デュシャンは言う。この切断は、数学で言う次元決定の「切断」に似る。では、「アンフラマンス」とはどのようにして見いだされるのだろうか。「ビロードのズボン・・・(歩いて いるときの)二本の足のこすれ合いでできる軽い口笛のような音は、音が示すアンフラマンスな分離である」(聴覚的アンフラマンス)。あるいは「(非常に近いところで)銃の発射音と標的上の弾痕の出現との間にアンフラマンスな分離」がある(聴覚的・視覚的アンフラマンス)。アンフラマンスは分離の極限で見いだされる。あるいは「(人が立ったばかりの)座席のぬくもりはアンフラマンスである」(視覚的・触覚的アンフラマンス)。すでに明らかだろうが、ここには強いエロティックなニュアンスがある。エロティックな境位にこそアンフラマンスな分離が働くからである。言うまでもなく、デュシャンはエロティスムこそ遍在しうるのであり、四次元に通じうるものだと言う。「タバコの煙がそれを吐き出す口と同じように匂うとき、二つの匂いはアンフラマンスによって結ばれる」(嗅覚的アンフラマンス)。ここでは「結ばれる」という言い方をするが、それは「分離する」と同義である。アンフラマンスは 分離と結合の境界のありようであり、分離と結合の蝶番をなしているからである。(「分離は雄と雌の意味を持つ」)見ることの、聞くことの、感じることの、つまり知 覚のちょっとしたずれ、既定の知覚からの一種の逸脱によって感じとられる、想像される、知られる世界がありうるということである。見ることだけが特権化される理由は少しもなく、知覚の相乗性によってまったく想像的な可能な世界の現前がありうること近代までの美術制度は凝視が特権化したが、これはすべてを三次元に(実際は二次元に)封印してしまう。それに対して、アンフラマンスによる多様で多次元的な知覚が展開されうるのである。これは図解ではない。直接的体験であり、新しい対象知覚法あるいはさらには対象の新しい定立法にして認識法の例示でなかろうか。もっとも、言語による思考がなければ、こうした展開もありえないことは言うまでもないが。 『彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも』は確かに芸術のありようと方向を根源的に変えた。それは、美術史の一時期固有の問題として片づけてはならな い。たえず問い直されてよい問題をわれわれに提出し続けているのである。

(本稿は、1995年11月12日のアート・コンフェランスで行ったレクチャーに若干手を入れたものである)

(初出「Art Conference」Vol.2/1996)