《タータずまい '83》

《タータずまい '83》

TATAic - Titanic:tight fine days '83

豊島重之

(1)

私にとって1983年はすこぶるスキゾデリック(分水麗装的)な一年であった。私のタータ(多数多様)感覚のたたずまいが「n−1(エヌひくイチ)」様に奔騰(ほんとう)した一年であった。

まず一月のパフォーマンス、白山敦子公演『ようらん=揺籃』と金沢緑公演『べや=部屋』をプロデュースし、舞台構成上のツボをいくつかカゲで演出した。収穫は、白山のデコンストラクティヴ=脱構築的なデフォルメ=歪形力と、それに波長を響応させえた吉井直竹の音楽であり、そして『部屋(べや)』に共演した鳥屋部(と・やべ)文夫の転倒的呈示、ハレ・ケ・ケガレをモメントとする三極構造の体現であった。

(2)

ケとケガレを混同してはならない。ハレを聖なる非日常とすれば、ケは聖俗/清濁、併せのんだ「この」日常をさす。では、ケガレ=「ケが涸れる」とは? 日常から駆逐され、非日常への架橋も断たれて、幽冥の境によるべなく漂うケガレ=穢れ。

裸身に白い腰巻きと、両手に掬った水は、ケともハレとも看做しうるが、水が零(こぼ)れ落ちないよう歩行してくるその態(さま)は、どうみてもケガレ、もしくはサクリファイス=供犠(くぎ)である。鳥屋部の歩行がハレに赴くものか、それともケに根ざしたものなのか、そこが分水嶺なのだ。

そうして金沢の「鳥辺野=トリベノ」が焙りだされる。街外れの朽ちかけたアパートの一室が「鳥葬の地」であったとは。では、室内の女は「捕りを待つ」捕らわれの一羽の鳥類なのか。「捕りを待つ」とは、死者を葬る「屠=ホフリ」を待っているのか、それとも死者の「身代わり=鳥・屋部(やべ)」を待っているのか、ここにも分水嶺がある。

(3)

二月の劇作家山崎哲「二作一挙上演」を、我々「千一年」旗挙げ以来の盟友「どらまぐるーぷ川」とのクロス公演という、東北でも稀な二重形態で企画し、千一年による『うお傅説』では水道橋伝説に興じる役者を、川による『異族の歌』では「正座劇/星座の演劇」なる演出を踏破し、企画・舞台成果ともに圧倒的な支持を得た。

収穫は「うお」のアニマと「異族」の老女を演じわけた木村栄子を筆頭に、「異族」のモトコ役の泉仁美と妹役の西野忍、「うお」のミホ役の高沢利栄とトシオ役の鳥屋部文夫による生々しい入水(じゅすい)の壮麗なるエピローグ、そして二作の原色を精緻に聴きわけた吉井直竹の音楽は、やはり今も耳に染みて離れない。

このクロス公演は、来たる八月「東北演劇祭=TATA(タータ)」のプレヴュウ的エレメントをも担っていた。川は健闘したが、これをきっかけに内紛が生じ、八月タータに不参加を表明、私の mokuro-mi はmoroku-mo 崩れさった。「企画・舞台成果ともに圧倒的な支持を得た」などと書いてしまった罰である。あまりの力の違いに畏れをなした、などとは断じて言うまい。

(4)

三月の吉井/鳥屋部『動展1』もさることながら、四月の『動展2』弘前公演は貴重な体験であった。美術の村上善男・詩人の泉谷明・演劇の長谷川孝治・詩論の泉谷栄ら弘前の、否、東北の起爆剤との接線をもてたからだ。吉井/鳥屋部のパフォーマティヴは、パリだろうがプラハだろうが世界に通用する(まもなく二人とも私のもとを去っていったけれども)という感触をもてたからだ。

六月はパリ公演の契約や会場の下見のためにパリに12日間滞在。忘れもしないオテル・モンタヴォー。あれやこれやで結局、20日間八戸を不在にせざるをえなかった。その前後二ヶ月、演出に集中できず、主演「ヘノキオ=鯨架(くじらか)丸」に抜擢した大川久美子が離脱してキャスティングも思うにまかせず、芝居を〈うつ/ウツ〉状態のまま、八月の「東北演劇祭」に突入と相成った。

(5)

札幌の「極」、仙台の「十月劇場」、盛岡の「赤い風」、東京の「スコーピオ」、地元八戸の「千一年王国」、なかんずく新堂耕二率いる「八戸小劇場」は、自分らの舞台はもとより、この演劇祭の全面にわたる実働部隊としても、特筆に値する活躍をみせた。満場の客席には、都内の演劇批評家や演出家をはじめ、名古屋の海上宏美率いる先鋭的な劇団「オスト・オルガン」の面々など、この手のものとしては初めて八戸で開催された演劇祭への関心をうかがわせるものだった。

これまたスキゾデリックにはちがいないが、私的にはタータ感覚の去勢された「タータ」と言わなければならない。場の励起を誤ると、その場がブレーキとなって、各人がタータ感覚を発しえぬまま、場を腫れ物のように慰撫するしかなくなる。

たとえば鳥屋部が「千一年」に参加せず、ソロ・パフォーマティヴに徹したことも、千一年による『戒厳へのへのもへじ——縄文鯨組』にとっては、戦力上の痛手となったことは否めない。

収穫といえるものは、タータ的な接線が東北・北海道・関の東西に生起したことくらいか。勿論、実質的な成果は、自作の詩劇、木村・泉・高沢・横川の四人によるパフォーマティヴ『写真展にて』(筆者によるこのテクストは本サイトに採録)である。

(6)

九月は仙台「ポスト・タータ・シンポジウム」に蘇生する。詩人の秋亜綺羅をはじめ墨象作家の斉藤文春・美術の高山登・演劇の十月劇場や劇垂舎とのスキゾデリックな接線をトリガーに、十月は新作『あさ一ばん早いのは』を呈示、タータの共同母体であった新堂耕二「八戸小劇場」との実質的な交響である。「カバシラ! シラバカ! バシラカ!」で幕をあけるこの舞台は、筆者の劇作のなかでも「バシリカ/バシリスク=異類」に属するテクストのひとつであろう。

この軽躁状態のまま、十一月の『阿弖流為=アテルイ』パリ公演へと旋回し、鈍重で閉環(舞踊批評家市川雅の76年発言)した豊島和子からビ・タ・ミン(微分・他性・冬眠発作)感覚への契機を抽きだし、八小劇の荒谷勝彦(役者)新堂耕二(美術)のタータ感覚とともに、鳥屋部文夫・木村栄子・吉井直竹のセーセーセー感覚(精悍・静謐・生成の三極感覚)を現出させたといえそうだ。

(7)

勿論、このパリ公演でセーセーしたわけではなく、まさにこの軽躁は翌84年の二月の鳥屋部・白山らのパフォーマティヴや新堂・荒谷らの八小劇アトリエ II や、三月三日の『アテルイ・ド・パリ』再演へと繋走(けいそう)し、私自身、うっ躁!と思っちゃうほどの奔騰(ほんとう)=ハイパー・ラニングであった。

オルターナティヴ(二者択一)の自己規定からオールタラティヴ(自己変成)へとオールタネイト(交通=横断)すること。これがこの一年、多数多様な出会いと毛細管的浸透力の只中に実感した私のラニング法、言い換えれば、法をラニングさせるザル法なのだ。

Say Say Say! パラリコSay!

相言葉はスキゾデリック

タータかタッタ

タータっていいとも

みんなでタータればこわくない

タータばりのすすめ

骨までタータして

知の果て非情のタータ

知ー床(チベット)のカンタータ

(初出:仮装社刊「季刊装置1」/1984.02.01/2009.03に若干の加筆)