HO-TIED OPERA(繃帯のオペラ)

HO-TIED OPERA(繃帯のオペラ)——吉増剛造の/と演劇

豊島重之 TOSHIMA Shigeyuki(モレキュラーシアター演出家)

(1)

 「おまえだ」という声がかかる。その「おまえ」が他の誰でもなく、他ならぬ自分のことだと気付くまでにやや間を要するのだが、気付いた途端、青年は意外なことに赤面する。ひたすら歩かされる無口の群れの中から自分が「選ばれた」ことを恥じている。それもデタラメに選ばれたことを恥じている。指名が何を意味するのか先刻承知だ。無口の群れに先を急がせる、ただそのためだけに宣告が慌ただしく成される。では今の今まで額に汗して生き延びてきたことを恥じているのか。指名の声とともに牛歩の群れが僅かに足早となる、そのことを恥じているのか。どんな不条理も斥けられてしまうほどに、「その私」が折しも絶命しつつある「この私」を恥じているのか。その赤面は「長い年月を飛び越えて私達のもとに到達し、彼のために証言する、言葉のない頓呼法=APOSTROPHE」だとアガンベンは言う。「限界が一瞬触れられた」のだと。

言語/身体を書く/欠くことで存立する、詩と演劇の遭遇。その前にどうしても写真と絵画の遭遇に触れないわけにはいかない。ある絵の前に釘付けとなった、としよう。何層にも色面が重ねられ何層にも色面が抉り取られていたが、その絵は単に主体化と脱主体化の二重の運動を描いたものではなかった。そのダブルスパイラルにあってはギルティゆえに恥じたりイノセントゆえに恥じたりするなど、もとより赦されてはいない。なのに、私は赤面した。「おまえだ」と声がかかったのだろうか。絵の前の「その私」も、その私について書く「この私」も欠いた、絵のほうが赤面する、そんな事態に人は遭遇しうるのか。剥き出しの深淵もしくは盲者の裸体に。

—— 一つの物を孤立させ、そのなかへ、それ固有の、それだけが持つ意味の数々を流入させるあの能力は、見る者の歴史的廃棄によってしか可能にならない。おのれをどんな歴史からももぎはなすため、見る者は例外的な努力をしなくてはならない。永遠の現在のようなものにではなく、むしろ、ある過去からある未来への、めくるめくような、不断の疾走に、一つの極限から他の極限への、休息を阻止する振動になるように。

—— それはまた、その数えきれない死者たちの群れが、彼らが生きていたときには、骨で立っていたときには見ることのできなかったものを、ついに見るためにという意味でもある。/不正は——そして、私たちの苦しみは——とても大きくなるだろう、この死者の群れのうちのただ一人でも、私たちのうちのただ一人のことを知ることができなかったとしたら。そして、私たちの勝利はとても貧しくなるだろう、死者たちの群れが、私たちに、未来の栄光しか得させてくれないとしたら。(ジュネ『ジャコメッティのアトリエ』鵜飼哲訳)

しばしば私達は写真を撮ることで恥じ、写真を見ることで恥じたりするが、それは写真の「赤裸々な盲面」に直面していないだけなのだ。写真は赤面することはないし、むしろ赤面を禁じる。写真を撮ること/見ること/読むことには「限界が触れてくる」ことがないからだ。言い換えよう。絵画は容赦なき主体化と脱主体化の坩堝である。裸体性の強度もあれば盲目性の罠もある。そうしたことは写真には通らない。脱主体化/盲目性が写真のアプリオリであり、主体化/裸体性は容赦なく駆除されるか、さもなくば果てしなく底が抜けていく。絵画が怖れる罠に写真は自ら嵌まる他はない。そこに写真の限界があり、写真=限界がある。繰り返そう。あくまでも限界は触れてくるのであって、限界に触れることは誰にもできない。ソレが一人の詩人に触れる。火と灰の空隙を飛ぶ「白きもの/白く濁れるもの」に。

(2)

—— もう、一本の樹木(き)もいらない/

—— 木ガナイトコロニ木ガオチタ/

この二行は「不思議な並木道(ヽ)」だ。一九九八年十月刊『「雪の島」あるいは「エミリーの幽霊」』と二〇〇六年三月刊『何処にもない木』が「不思議な並木道(ヽ)」を成している。さらに遡れば『大病院脇に聳えたつ一本の巨樹への手紙』と、NYソーホーの稲妻に聳えたつジョナス・メカスの神樹(き)への手紙とがオヒルギとメヒルギのDOUBLETREEを実(な)している。それに巨大産廃処理場と化した奥多摩の日の出の森と、泥炭層=PEATBOG(三内丸山/是川中居)アヲモリの巨大産廃処理場とが、一本の痩せた木しかもたないベケットの舞台と、デュシャン風の横並びならぬ「縦並び/コロン(:)状」の覗き穴しかもたないモレキュラーシアターのベケット劇「とが」。「不思議な並木道(ヽ)」自体にも並のミと道のミが、不思議のギと並木道のキがコロン状に連音しているばかりか、「盲亀、浮木に遇う」がごとく奄美でデリダの訃(フ)報に接した詩人は、(モーキにしかミエ)ナイ木と(グラッとグラッの間に)オチタ木に「デ離(ヽヽ)ダ」と恐るべき二重傍点を下(フ)ル/斑(フ)ル。メカスやデリダの離散・亡命・移植・撒種・混淆・単独的な群落に対して/夢の裏(うしろ)の若木を静かに倒し/そのディアスポラの真芯にめり込んでいく「もう、一本の樹木(き)もいらない」。この逆風を突く二行はメカスやデリダ、カフカやベケットなくして生じ得ない、吉増剛造なくして。

—— 人には幻想の道を辿る力があったから、動物たちは、人に道をあけたのではないだろうか/

—— 真夏の中庭の鳥は、濃淡を啄ンでいて、それが“鳥のゆめ”であったのかも知れなかった/

鳥という「名の動物性」こそ通り(トゥーリ)という夢の航跡に他ならず、それを人は「啄まれた濃淡」としてしか視ることはできない。詩人はそれを「人に道をあけた」と解き明かす。この酷薄な痛苦とも壮絶な愉快とも言える「開け」を演劇もまた分有できるのか。鵜飼哲に倣って言い換えれば、デリダ『名を救う/SAUF LE NOM』のソフが、ともにSANS(サン)=除外・否認を含意しながら、SALUT (サリュ)=会釈・救済・歓待のほうへと帯電する。サリュの詩人とサリュの演劇は、受苦の時熟(じじゅく)からしか到来し得ない。モレキュラーシアターにとって「カフカ〜ベケット〜ジュネ/デリダに基づく二十年」は一九八六年に駆動する。奇しくもその年、『打ち震えていく時間』所収の詩篇「Watts、最終歩行」において、—— 枕木の/ない/鉄路の/ない/Watts、/夢の跡、/(十二歳のとき、故国イタリアからアメリカに来て/石切り場や鉄道敷設現場で働いていたサム、/サイモン・ロディアよ、あなたが、ひとりで、三十年? 四十年? 建てた、塔を、訪ねる、のが、わたしは、すきだ)—— 仮にワッツをワットたちと読み替えられるとしても、無論サミュエルでもアイリッシュでもなくマグレブでもイディッシュでもありはしない。にもかかわらず吉増が、ベケット『ワット』の奇天烈きわまる全方位歩行にメカス・カフカ・ジュネ・デリダまでも同行させていたのは明らかである。

(3)

一本の樹木(き)。それは古代から未来までの全ゆる/在りうる言語資料=コーパスを収蔵した巨大図書館=アルシーヴ/アーカイヴであり、神話樹・系統樹・世界軸=コズモロジーを編纂した宇宙大の「コトバの木」である。詩人・歴史家・作家・博物学者であれ、今しも新たに書き終えたばかりのどの一章、どの一巻もそのビブリオテーク/メディアテークの奥処に秘蔵された「古書・奇書・偽書・死書」に既に叙述されたものなのだ。吉増はそれは要らない、と言っている。シュブジェクティル=基底材を猛り狂わせるほどの読み手であると同時に、判読不能なプロジェクティル=投光体の凶暴な書き手でもある詩人が、それは要らない、と言っている。

よく吉増は蓼科(たでしな)に出かける。折口・芭蕉・道元やエミリー・イェイツ・ボルヘスとともに。なぜタデシナか。そこにはアルシーヴ/アーカイヴの「シ」と「カイ」が「しな=出会いがしら」に吹いているからだ。吉増は鉛筆の原材シナノキの芳香に、しな織りの風合いにインクと「モオク=墨/喪憶」の音階を聴き分ける。喪憶とは、詩人固有の異音「泥墨(ニーモ)=MNEMO 」即ち死者たちの記憶から飛来した(私の/私以外の誰かの)造語である。しかし科(しな)が姿態を、科(とが)が禍根を意味するのには誰もが首肯するだろう。地名タデシナが喚起するものは草むす佇まい=旅姿である一方、償いのアルケオロジー(鵜飼哲の書名)とMAL D’ARCHIVE=マル・ダルシーヴ(デリダの書名)であるのを忘れてはならない。鵜飼によればデリダの書名は「文書熱」という奇病であり、また「文書悪」とも訳しうる、歴代の権力によって書き換え/書き違いの可能なものなのだ。バタイユ『ドキュマン』に収録された鴨の頭部をもつ執政官アルコーンを想起するまでもあるまい。

同じ危うさがカイノキにも言える。それは大言海を渡る「水を掻く櫂」であり、楷書の木と看做されて学芸の象徴となる一方、縄文八戸=是川中居に高度な生活技術をもたらした「漆(ウル・シ/ここにもミル・クが)を掻く木」でもあった。それどころか風雪よけの板柵のことを風垣=カッチョと呼ぶ地域もあれば、屋敷の周囲に植えられた防風雪林をカイニョの木と称する地域もある。楷書の木があるなら草書の木や風書の木、焚書の木や空書の木だってあるはずだ。カイニョの灰は畑に撒くと良質の作柄が得られるので、灰書の木とも裏書きされただろう。一九八四年刊『オシリス、石ノ神』所収の詩篇「予感と灰の木」。二十室はある二階建ての木造アパートを解体する大型重機(キ)に、拝島(ハイジマ)の庭の蛇の声を聴き、「よし/その家に行く」。そうして詩人は灰書の木の深部を分け入って行く。それがどんな悪路なのか、身の程知らずの演劇はただもう「よし/その庭に行く」と。

(4)

冒頭の二行に引き返そう。一行目は一九九六年七月、詩人がモレキュラー八戸公演を初めて観て書き下ろした詩篇「不思議な並木道(ヽ)、----」の第一連。その第二連「もう泳(ヽ)ぐことのない魚の、勇魚(いさな)の裏地/肌(キ)?」。木の内界にも肌(キ)があって、「とても“薄(うす)い/薄(にご)った”」(三連)「皺(シハ)、シ/ハ」(四連)がみるみる生い繁り、幾重にも平(なだ)らかな「小(コ)高いイメージの丘」(六連)が「髪形(カミガタ)」(五連)となって一面に匂い立つ。もはや「七千年? 八千年の“もの/かたち”が消えて行く」(五連)。だから「一本の樹木(き)もいらない」のだ。確かに私が三内丸山にお連れした時、六本柱は復元調査のため封印されていて、空調管理された六つの穴と両壁の断層をもつ盛土(モリド)道を巡覧したくらいであった。その後、六本柱は吉野ケ里に倣って聖域然と復元され、美術館や資料館などが続々と建造されて二〇〇六年、今や巨大観光テーマパークと成り果てたかにみえる。詩人は二度と足を運ぶまい。ここには「人に道をあけた」動物たちのユメは棲めないから。とは言え冒頭の二行目は、一九八七年十二月九日の日付けをもつ「何処にもない木が、わたしをはこぶ」から書き出されていて、しかも(隠れた樹=柱のようにして、日付けを立てて行く。)という補註に半ば(SAUF=ソフ)足元を掬われ、半ば(SALUT=サリュ)救われる心地がする。モレキュラーシアター第一作が一九八六年の、フランツ・カフカ「フェリーツェへの手紙」に基づく書簡の演劇化ならぬ演劇の書簡化『f /Fパラサイト』だったからだ。

不眠の夜々に認(したた)められた何百通もの手紙は、しばしば恋人の許に届かぬ盲信=ブラインド・ブリーフとなり、誤配どころか廃棄されてしまう死信=デッド・ブリーフと化す。フランツ(f)とフェリーツェ(F)を隔てる距離を差配する郵便脚夫は距離そのものに等しい。この不眠の亡霊はいつもカフカの背後から手紙の文面を盗み見ており、ブリーフ=作戦指令書さながら、書くそばから書き換えを促しさえする。そのためK と亡霊は不眠の深さを競わざるを得ない。千尋の谷底に横倒しに渡された丸太の橋は、断崖に立つKに渡れと命じている。無論、渡れば柱はグラッと回転してKは真っ逆さまに落下するだろう。モラヴィアの森で道に迷ったKは地面に落ちている縄の切れ端を目にする。足元を掬うように張り渡されたものではなく、一見どんな仕掛けも見当たらぬただの縄の切れ端。だからこそ必ずや蹴躓いてしまう罠なのだ。カフカにとって手紙を書き送ることは常にそうした「ある戦いの記録」であり、単にダブルバインド=二重拘束などではなく、忍び寄る「視えないファシズム」に対する喪のカタチ/抵抗のカタチに他ならない。

(5)

一九九六年三月アデレード・フェスティバル公演を終えて帰国した私達は、すぐさまベケット後期の散文テクスト『Worstward Ho =ワーストワード・ホー』に基づく新作に取り組み始めた。計測器の触針・古代人の尖筆・ツェランの花柱・流儀・書法を意味するSTYLE=スティル/静止・不動・蒸留・滴下・写真を意味するSTILL=スティルを主題とする暗室内劇。前作のスティルをさらに「最悪の針路」へと操舵したこの八戸初演に、吉増剛造ほど相応しい立会い人はまたとあるまい。

アデレードで上演された前作は、ザコパネの画家・劇作家・写真家・哲学者でもあったスタニスワフ・イグナツイ・ヴィトキェーヴィチ「肖像画商会の規約=定款」に基づく『FACADE FIRM =ファサード・ファーム』。俳優達が観客達と正対する、文字通りファサディティ=正面性の演劇である。但し、ツイン・ラティス構造の舞台前面を覆う(中上健次が詩人を案内した赤壁にも似た)赤面が、発光ダイオード製「サイファ=ゼロ記号」の透明タブローに変換された時だけ正対可能な様相を呈する。いわゆる「非在の第四面」ごしに俳優達は観客達を相手に舞台上で一幅の肖像画を素描する。一体どのようにして? 顔面に装着された漏斗(じょうご)の先端部に穿たれた単孔から辛うじて垣間見える観客の頭部・肩口・首回り・耳朶の輪郭。視界を極度に狭められた俳優達の手にはよく撓(しな)る長竿とその先端に赤いフェルトペン。いくら描線を定めようとしてもペン先は微動をやめない。透明な矩形に素描されるのはフレ・ブレ・フルエから成るPHRENIC=フレニックな痕跡。とてもエミリーの草稿に頻出するハイフンやダッシュ、アルトーのゴッホ論に言及されるコンマや踊り字(ゝ)やアポストロフ、ましてやサイ・トゥオンブリばりの全暗制作とは似ても似つかぬ代物ではあるが、それこそがこの演劇が産出する肖像画なのだ。終演直後に私達はこのタブローを劇場ロビーに手早く展示して、帰りゆく観客達に一瞥させることができた。ゲネプロ含めて九ステージ分の九点。『ファサード・ファーム=F/F』はいわば書く/描く/引っ掻く演劇であり、十年後の『f/Fパラサイト』であったと言えるだろう。

それに対して一九九六年七月から連弾する『HO-TIED OPERA =繃帯のオペラ』は、写真を撮る/焼く/灰にする演劇である。商会=FIRMが写真=FILMに、R=右/読みがL=左/聴き、に取って代わっただけ、文字通りカイ音がシ音に裏返されただけだろうか。人は夢を視る。そのことは即ち“鳥のゆめ”どころか人は人の夢を視ることはできない、という明らさまな事実を突き付けている。その点で「この私」が視ている夢は鳥や獣のユメとなんら変わりがない。そこにあるのは翻訳不可能性同然の絶対的な非対称だ。全暗のうちに素描したと思ったトゥオンブリは耳を塞ぐのを忘れていた。ゴッホが削ぎ落としたのが耳であって目ではなかった理由をアルトー/吉増だけが知っている。鏡は映り込むが、写真は移り住む。鏡は視ないが、写真は視る。フィルムには皮膜のみならず「薄い・曇った・濁った・掠れた」という意味合いがあって、しかも韓国語でフリムとも訳される。二〇〇一年五月刊『燃えあがる映画小屋』所収の詩篇「不揃いの、フリム、光が」は、ベケット唯一の映画『フィルム』のリール音から演算された「無言の口の瞳」や「木馬(きんま)、“OO(ウー)”二つ」にも飛び火する。ならばモレキュラーにとって吉増やベケット/デリダへの近まりは、カフカやヴィトキェーヴィチからの遠ざかりを折り返した、否、遠近も深浅も知らない、もはや詩篇「道路(ミチ)の遠近を忘れたり」における「呆=HO」の空域に差しかかっている。

(6)

—— 神の眼が、神に眼があって、この宇宙を覗いているとは思わないが、その神の眼に、斧(おの)が不図、置き忘れられているのが見えた、----。

「MEMBRANE=メンブラン/皮膜の演劇」では、撮影者の視覚でもカメラの視覚でもなく写真の視覚が問われている。そう言ってよければデリダ由来の「写真/ここになき、灰=FOTEU LA CENDRE (フォトゥ・ラ・サンドル)」が。写真が発明されたのは一八五十年代。それ以前の特に一六〜一八世紀に盲者の素描がこれだけ多産されるのはなぜか。写真が一般に流布する一九世紀末から盲者のデッサン/デセーニョが急速に姿を消すのはどうしてか。画家が描こうとすれば、そこに描かれるのは決まって盲者である他はない。盲者が描かれるのは、盲者が描くからである。「カイアズム/シアスム=CHIASM(語順転倒の交差法)」のようでいて、実はそのものずばり自画像、正確には自/画/像なのだ。盲者とは間違っても無知の知のことではなく、裸体性の次元を(一つの極限からもう一つの極限まで)振戦する営為であるのは(1)で述べた通りだ。バタイユ「非-知の思考」のその先をデリダ/吉増は渉猟する。そう言い換えたほうが通りが早いかも知れない。

二〇〇二年七月刊『The Other Voice』に鳴り響く「無言の口の瞳に倣(ヽ)へ」の異様なリフレイン。二〇〇四年七月刊『ごろごろ』に頻出する手々(ティティ)。徳之島言葉で「今にも崩れそうな危ない崖」を意味する手々(ティティ)。詩を書く/読むことの火急のみならず、写真を介して詩を書かない/読まないことの不可能性をこそ、演劇は取り乱して沈思しなくてはならない。無言の口とは視ずにケス/キエルことであり、口の瞳とは聴かずにカグ/カゲルことである。詩人は視る/聴くことの自己言及的な暴力に抗い難く抗う。メカス・カフカ・ベケット・ヴィトキェーヴィチ・ディキンスンの「k(ヽ)たち」がそうであったように。冒頭引用三行目の詩篇「木浦(モッポ)、—— 本當は、木浦(Mokpo)までも歩いて行きたかった」における「k(ヽ)」。詩人は木のウラに達しながらアレッポ同様モッポへは自分の足で歩いて行くことができない。なぜなら浦は水位を上げており、浦を渡るべき木の舟(ベー)も大海亀の白い腹(ベー)も悉く水裏/紙裏/眼裏(マナウラ)に沈めてしまったから。木の浦「ヲ」歩く「Watts、最終歩行」。平々(びょうびょう)とした「“わたしの眼は斧(ヲノ)だ”/海はハ(ヽ)、平らかなり、」。

ここでベーコンの「ゴッホの肖像画のためのエチュードⅡ」を「ベー」に重奏させるのは唐突だろうか。麦畑か跳ね橋を描きに赴くゴッホの歩行は、火掻き棒のように熱せられた右手の杖なしでは今にも崩落寸前である。二〇〇五年六月刊『天上ノ蛇、紫のハナ』所収の、写真家高梨豊の一脚カメラと傷痍軍人さんの白い杖との雁行。動物たちが人に道をあけたように、前方はどのようにして盲者に道をあけるのだろうか。全暗の手が空を切るならば木の杖は前方に挿し込まれた「DESIGNATOR=探査子/ゾンデ」となる。デザイン/デセーニョに来歴するこの方向舵は、クリプキにとって単に図示ではなく「名指し」の鍵概念だ。ベーコンにとって写真を参照した絵画は写真に「名指された」絵画に等しい。そこでは片足の繃帯を「名指す」矢印=ディジグネーターは様々に変奏・歪形される。蛍光灯やブラインドの吊り紐と裸電球、壁伝いの配線とコンセント、日除けの傘の柄や野良を耕す鍬、洗面台の蛇口や配水管、壁の写真や鏡像や画布に描かれた人体にまで撃ち込まれた鋲(ビョウ)と釘(クギ)。ドアの鍵穴に差し込まれたままの鍵を、室内の裸体女性が右足を延ばして足指に挟む芸当に興じる「絵画,一九七八」。そして「皮下注射器のある横たわる人物,一九六三」。絵画=表象へと離陸しかけた人体を事実=絵画へと引き戻す注射器は、前方という名の「ダークマター=暗黒物質」を裂開する斧の一振りなのだ。吉増もまた『The Other Voice』末尾の詩篇「パ」で、コルマールのグリューネワルドを、釘を撃ち込まれ/繃帯を巻かれた「パ=脚・歩行・否認」から解き放つ。無論、杖も吊り紐も鍵も注射器も要らない。眼に食い込んだ斧で充分だ。では『HO-TIED OPERA』は「呆=ホー/態=タイ」の暗黒物質をどう掘削し得ただろうか。

(7)

一九七七年の長篇詩「老詩人」の一節「多摩川/高麗(こま)川の/ああ、白きものはすべて朝鮮からながれてきた」。この三行を遡行するようにして吉増剛造とモレキュラーシアターの旅が始まった。一九九八年五月、韓国・平澤(ピョンテク)市文藝会館(ムネヘグァン)で七篇の詩に基づく新作『オペラ:サンナイ』を上演し、次いでソウル市青潭洞(チョンダムドン)の全浩範(チョン・ホブン)ギャラリーで、吉増の詩と写真と銅刻に基づく新作『緑の森の一角獣・若林奮頌』を上演した。私は彼の自作詩朗読の過激な舞台を何度も観ているが、これほど寡黙な佇まいに出逢ったことがない。「老詩人」を低く呟き/深く垂れ込めながら、日の出の森の彫刻家から直接青潭洞に郵送された小包を皮膜のように剥がし、その銅板に記された公演タイトルの緑色のハングル文字をタガネと金槌でコツコツと鏤刻(るこく)していく。それは鳥の啄みだ。しかも逐一その一部始終を自らカメラに収める。それは啄まれた鳥のユメだ。聴き取れぬほど静謐なクグモリは「残酷のオペラ」に他ならず、銅板から白い薄紙を剥がしていく白く薄い手つきは「死-後のダンス」としか呼びようがなかった。

なぜ三内丸山か。なぜオペラか。なぜハイテクを多用するのか。ピョンテクでもソウルでも終演直後の会場に熱のこもった質疑が飛び交う。『The Other Voice』の枕に配された「光の下に“蝶層”を」など上演作をハングル訳した通訳の安英愛(アン・ヨンエ)もたじろぐほどであった。吉増剛造は古代天文台アヲモリの幾重にもうねる「丸い山」の遍在と伏在について語り、写真批評の倉石信乃は、盛土の露出した断層面を覆った緑色のカビと写真の乳剤面に去来するカビ色の記憶/忘却を対位させ、演劇批評の鴻英良はそれを皮膜論へと転轍した。オペラがオプス=作曲作品由来のオペラシオン=実行・操作・手術のことだと述べたのは演劇批評・写真批評の八角聡仁だが、それは詩人が自身の大腸手術と下肢骨折手術のちょうど合間に三内丸山/八戸を訪れたことと無縁ではない。むしろ足裏に鉤裂き痕をもつ大久保一恵のダンス的思考と、作曲演奏の港大尋が鋭利な速度で切り出す群島的思考にこそ「オペラトワール=手術的」なオペラが消息している。

緑の森が「青森」とハングル訳されたのは、一角獣の一角がアジア・ヨーロッパ大陸の一角「青い日の出の森」を、アヲモリ/クグモリという名の「駅から十五分の強制収容所」を指すからであろう。それはまたピョンテク公演で歌われた、光かがやく角(つの)、金緑色の鹿の眼に似合う(三内丸山の)巨大なドーム、繃帯を巻かれた島、燃えさかるアジア、誤植の空中都市でもあった。つまりソウル公演は、イヌビエ=犬冷え/ナホトカ=日向の川(ホー)日陰の川(カー)をもつ泥炭層コナハト/ナカゴ=(石鏃の)中茎/盛土カビ=MORIDO MOLD の四幕から成るオペラの第五幕目であり、その飛び地・飛び島・飛び火・飛び白(=掠れ/霞み/擦り/フリム)であったとも言える。私達は「白きもの」をこうして遡行した。

(8)

—— 描線は使われる、意味のある価値をそれ自身が得るためではなく、一切の意味を白に付与するという、ただそれだけのために。描線はそこにある、形と硬さを白に与えるだけのために。よく見てみればよい。優雅なのは描線ではなく、描線に抑えられた白い空間である。充実しているのは描線ではない、白である。(ジュネ『同上』)

高さ四間の天窓から外光そそぐチョン・ギャラリー。午後七時、外は薄暮。なのに六間四方の空間はいやに明るい。照明なしなのに外の倍も明るい。四面とも白亜の壁だからか。その壁に人の目の高さを保って帯状に展示された吉増の写真のせいか。それとも詩人の声の低さ目の低さ、シャッター音の濁りと銅板を打つ槌音の「にこごり」。港のタムタムの「くぐもり」と俳優たちの影を欠いた歩行。「七千年八千年のモノ/カタチも消えていく」。薄暮は上方からではなく「下方」からやってくる。午後八時、終演。悉くモノ/カタチは暗闇の裏地と化した。それに気付いたのは会場の客電が点いて明るくなってからだ。これを外光による内光のオペラと呼ぶのは正確ではない。あくまで皮膜をめくっていく「皮膜のオペラ」。私達は外光に一時間かけて焼き込まれていくフィルムの底光りする膜面を見せられたことになる。誰いうともなく「青潭洞=チョンダムドンの秘蹟」という一語が口を衝いた。

確かに、その後、一九九九年五月『OS-IRIS/OSCILLIS=オシリス/オシリス』フランス五都市公演をはじめ、詩人と私達は多くの舞台の旅を共にしたが、二度とそういう場に遭遇することはなかった。詩人はさらに「下方/灰暗(かいあん)」へと歩行「ヲ」歩行しているのだから。モレキュラーシアターの歩行はせいぜい喪のカタチにすぎないが、GENET(ジュネ)・GIACOMETTI (ジャコメッティ)・GOZO(ガズイイ=囀り/ゴーズ=紗の綿それとも斜面)の歩行は「離(ヽヽ)」の歩行なのだから。「歩く男、糸のように細い。その足は折れ曲がっている。彼はけっして立ち止まらないだろう。そして、彼は本当に地上を歩いている、すなわち、一つの球面の上を。」(同上)

三叉路状に裂けた「巨樹G樹」は告げている。何も書かれていないかに思えた紙面の白地は何も書かれていないタブララサの無地ではなく、実は全ゆる人語/死者達の私語/動物や事物の視たユメが表裏の別なく書き浸(ヒタ)され/幾重にも書き潰(ツブ)された圏域であって、ある日、それが強力な外光・内光によって焼尽・消去されてしまった「白きもの」なのだと。(無論それは解読も復元も望まない。ただ、それがそうであることを告げるだけだ。白地を解読したり復元したりしてはならない。そこに何が書かれてあったかではなく、それがそうであることのみを人は「知らされる=白される」、その先はない。) ただ独り己れの裸体と畸形を前方へと翳(かざ)す盲者だけが触れることのできる「白く濁れるもの」なのだと。

(初出「國文学」/2005年5月特別増刊号)