「北」と「南」との遭遇/ダンスは写真である

八戸・ICANOF沖縄展の意味

「北」と「南」との遭遇(上)/ダンスは写真である(下)

豊島重之

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十一月二十三日から十二月三日まで沖縄県那覇市の前島アートセンター(AC)で、ICANOF(イカノフ)提携企画展「テロメリック展」が開催された。

イカノフは写真、映像、ダンスを軸に八戸市民が結成したアートサポートのユニット。青森県内外に広く百名余のメンバーを擁する。市民がアートをつくり、アートが市民をつくる「インタラクティブ=相互励起的」な「イカの街」ムーブメント。

そのビジョンに基づき、米内安芸代表、三浦文恵プロデューサー、高沢利栄事務局長をはじめ八戸から二十名、東京メンバーを含めて計二十四名が那覇に結集した。そのこと自体が、迎え入れに奔走した前島スタッフや沖縄の方々を少なからず驚嘆させた。

二年ごしの計画とはいえ、なぜ八戸にとって沖縄なのか、率直な疑問が湧くだろう。ふだん八戸に暮らしていてはなかなか見えにくい八戸が、沖縄という場所に立つことで見えてくるのではないか、そう思ったからだ。

単に北の街と南の街との一過的な域際交流展ではあり得ない。北の人と南の人とが頭ではなく身をもって遭遇する。しかも継続的に。遭遇は絶えざる進化なしに「出来事」とはならない。沖縄にあってこそ、イカノフの底力が試されていると言い換えてもいい。

読谷村(よみたんそん)のチビチリガメを訪れた。一九四五年四月一日、米軍上陸に際して大勢の沖縄住民が他ならぬ日本軍によって集団自決を強いられた洞穴。イカノフが今年の企画展を新宿の「Photographer’s gallery」でスタートしたのも四月一日。このガマから振り返れば、いじめ、未履修、リストラ、DVなどで孤独な死を強いられた一人一人が「集団自決」に思えてきて立ちすくんでしまう。強者が弱者を、ではなく、弱者が「さらに弱き者」を恐怖支配する構造に凍りついてしまう。

ガマのほど近くに「象の檻(おり)」と呼ばれる米軍の巨大通信施設があった。七月の八戸市美術館での企画展に沖縄から来てくれた方々と、寺山修司記念館の小川原湖畔から一緒に遠望した米軍姉沼通信所が「鼠(ねずみ)の檻」に錯覚してしまうほどだ。むろん周辺事態の急変によっては「鼠」の方が「象」の何倍もの猛威を発揮するに違いない。

読谷からの帰途、七二年沖縄復帰の直前に起きた「コザ暴動」の通りを散策した。くつろいだ私服の米兵ファミリーと何度もすれ違った。「ヒストリート」という名の街角史料館には、復帰前のオキナワの現実が写真、廃品、年表など歴史的記憶として展示され、ジュークボックスからは五〇—六〇年代の懐メロが流れていた。

本紙連載中の写真エッセー「生き生き おらんど 昭和の子」のかけがえのなさを沖縄の人々は知っている。わが街にも「ヒストリート」の一つくらい、なくてどうする。そんな思いに強く駆られた。

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前島アートセンタ−(AC)でのICANOF(イカノフ)展オープニングは、佐藤英和の新作映画「CAN OF ICANOF(イカノフの缶詰)」上演でスタートした。

写真家・中平卓馬の原点が沖縄にあることはよく知られている。映画はその中平の八戸市美術館でのトークから始まり、鮫の蕪島で撮影中に突風で帽子を飛ばされ、静止も聞かずフェンスを跳び越えて帽子を取りにいくところで終わる。あたかも米軍基地のフェンスを、国境、言語、記憶というフェンスをすり抜けて行ったかのように。

昨年、イカノフが出版した写真集「メガネウラ2005」には、中平が八戸を撮影した貴重な写真二十六点が掲載されている。しかも中平自身によるワラ・馬・ワラ・馬の配列。ワラと馬が八戸の生活文化の基層だと彼は見抜いていたのだ。八戸と沖縄が遭遇する今回の挑戦をしつらえたのは、中平卓馬その人だったと述べても過言ではあるまい。

イカノフ展示のメーンは、半田晴子の黒く焼き込んだ写真五点。ティトゥス・スプリー琉球大助教授は、骨のレントゲン写真に思えたと言う。まさしく「風景の骨/写真の骨」である。

もう一人のメーンは花田悟美の「触わる写真/触わる数字」。会期中、毎日めくられる暦それ自体が写真なのだ。

特筆すべきは岩田雅一のライフワーク「六ヶ所の人々」三百点。佐々木遊の紙芝居式ドローイングが異彩を放ち、花田喜隆による「カルトポスタル=切手つき消印つき絵葉書」百四通も壁面から繁茂していた。

イカノフのテーマは「写真と身体」。全国に数あるアートNPOの中でも、この主題を推進しているのは八戸のイカノフだけではなかろうか。

前島ACの屋上スペースで、苫米地真弓と田島千征のダンス公演が行われた。苫米地は箱形写真を飛び石づたいにバーナーで写真面を焼却していく「写真/ここになき、灰」と、その反対に白光の二重フレーム内に自らの身体を焼き込ませる「八分八八秒」の二作を披露。英字新聞で頭部を梱包(こんぽう)した田島ら六名による「コリオリ」は、蛍光管を配した空間をキリリと引き締めていた。

ラストを飾るトークショーは、読谷村(よみたんそん)在住の写真家・比嘉豊光氏の語りの明度と場所性の強度に尽きる。それは一方的に見られるだけ/写真に撮られるだけのオキナワという危機感に裏打ちされたものだ。彼が「なぜ写真とダンスなのか」を実際に踊った人から聞きたいと切り出したのも当然だろう。

「コリオリ」出演の武部聡美がおそるおそる答えた。「八戸では墓を一個所に集めた暗くて怖い墓地のイメージしかないが、沖縄では民家の隣に広い墓庭があちこちに散在していて、死がとても身近な、開かれたものに感じました」

思わず私は言葉を継いだ。「それこそ〈ダンスは写真である〉ということです」。比嘉氏はもちろん、聴衆もぐいと身を乗り出す。

「皆さんがたった今、この目で見たばかりのダンスは決して写真には映りません。そのダンスは単に見た人の記憶へと消滅したのではなく、沖縄の墓庭のような〈開かれた死〉に埋蔵されたのです」

開かれた死、それを私は〈写真〉と名付けている。

(初出:「デーリー東北」/上:2006年12月15日、下:2006年12月22日)