サソリの吐息とトカゲの消息

サソリの吐息とトカゲの消息

モレキュラーシアター・フランス公演報告

豊島重之(演出家・八戸在住)

南フランスの山あいのヴィルヌーヴにある中世以来のシャルトル派修道院で初夏の一日をすごした。崩れかけた巨大な石造りの井戸を中心にいくつもの僧房が蜂の巣状に配置されている。壁画見たさにある礼拝堂から次の礼拝堂に行くには曲がりくねった坂を上り下りしなくてはならない。いくつもの壁画の筆触(ひっしょく)の違いから察して私たちは数百年の坂を往き来したことになる。一通り歩き疲れた私たちは修道院内の屋外カフェで山あいの遠望にしばし目を細めた。小粒の雨が降ってきた。ギャルソンがその場に放置してあった大きなパラソルを開いた。一匹の小さなサソリが裏地にへばりついていた。ふと雨もよいの遠望にセザンヌの絵が重なりあった。点在する小さな赤い屋根、散在するオリーヴの緑、遠くから小高い丘が何層にも襞(ひだ)を成して肉迫(にくはく)してくる。まるで地層が表皮をぬぎすてて鼓動を露(あらわ)にしているかのようだった。

翌日、私たちはアルル郊外の小さな村にあるゴッホの撥ね橋まで足をのばした。数人の村の子供たちが撥ね橋のてっぺんから五メートル真下の河へ飛びこんでは歓声をあげていた。私は河べりでぼんやり水音に耳を澄ましていた。近くの浅瀬や遠くの浅瀬でも音は違うし、樹の枝が水面に垂れた所と流れが岩をうける所でも違った音がする。ひょっとすると水面からもう少し深い層の水音も聴こえているのかもしれない。撥ね橋を渡ると一面の金色の麦畑だ。さすがに烏が群れ飛ぶ気配はなかったけれど、南仏の陽ざしは脳天から全身を浸してくれる。帰り際、撥ね橋の木材と鉄の質感をこの手に残しておこうとして、そこに一匹の小さなトカゲがへばりついているのに気づいた。折あしく観光バスが着いて多勢の観光客がどやどやと撥ね橋に近づいてくるのを察してか、昼寝を妨げられたトカゲはそそくさと姿を消した。

今年6月のまるひと月、私たちモレキュラーシアターは、三度目の国際交流基金の助成により、新作「ゴーゾーオペラ・オシリス」をパリ・アヴィニヨン・サンドニ・ストラスブール・オルレアンのフランス5都市で巡演してくることができた。今年、芸術選奨文部大臣賞を受賞した詩人吉増剛造氏の詩に基づくシアターオペラで、彼の詩集のフランス語版の出版記念の意味もあった。もちろん吉増氏を二度八戸に招き、三内丸山の印象を詩に書きおろしてもらい、それを気鋭の港大尋が作曲し、八戸のオペラ・ソリスト久米田順子をメインに、三年がかりで準備してきた野心作である。各地でアクシデントも含む強行軍であっただけに、最終地のオルレアン音楽祭招待上演の絶賛は何にもまして心強いものだった。

その帰国報告の第一弾が、日本芸術文化振興基金の助成により、先日、東京の門前仲町のスペースで行われた。ヴィルヌーヴのサソリとアルルのトカゲから着想された新作『CULTURE OF DUST(ホコリの培養)』である。舞台上に敷きつめられた写真とヴィデオ映像を二重三重に重ね映す行為と、トークやダンスやオペラヴォイスが平行していく、何とも不思議な演劇空間だというのが当日の観客の反応であった。思うに、詩も戯曲も楽譜もその作者が没しても後世に残りうるものだが(事実はそれさえ怪しいものなのだが)、上演というものは何の留保もなく(!)その場で消えてなくなるものである。写真やヴィデオやどんなハイテクを駆使しても記憶できるものですらない。記録は何の意味ももたない。誰にも見守られることなく、なかったものとして上演が行われること。そこには、かりに人間の文明が滅びたとしても「埃りの文明」はなお息づいている、という希望のようなものが託されている。帰国報告第二弾は10月28・29日に東京のアミュー立川で、第三弾は12月16・17日に八戸の公会堂文化ホール(旧・公民館ホール)で行われる。南仏のサソリの吐息とトカゲの消息に出会える好機かもしれない。

(初出:「東奥日報」紙/1999年10月)