カルトポスタル098-ter

カルトポスタル098-ter

■ 月の庭・石の家・河の北・臨の時・天の洋----「永遠行きの寝台列車に仕立てられたカテドラル駅は、あらゆるものが死に絶えた場所」であり、「パサージュ・ド・ロレット=霊安室の中庭・内海から、ノティーク=航海丸は永遠に船出することがない」----。

春の嵐が世界中を吹き荒れている。当地ではドカ雪やダウンバーストの不意打ちにもこと欠かない。日中(それとも日・中)好天に恵まれながら夕刻の雨が夜半には雪に変わり(山下達郎かよと思うまもなく)早大小野講堂での3月12日トークに危うく遅れそうになった。そのトークの中身もまた春の嵐にふさわしく、戦後ヨーロッパ復興のためフランス政府の対外特務官僚としてアメリカをはじめ国際経済支援に暗躍しつつ、1953年スターリンの訃報を「我が父の死」とみなしたモスクワ生れのヘーゲル哲学者アレクサンドル・コジェーヴと、反共反ナチのシオニストとして1938年アメリカ亡命を果たすドイツ生れの政治哲学者レオ・シュトラウスとの思いがけない「密かな親交」がトークの俎上にのぼった。

■ キーワードはむろん「歴史の終焉」であり、終焉以後の世界と人間の轢死めいた存在様式である。ナポレオンに歴史の終焉を読みこんだコジェーヴには、ロシア革命の内戦・混迷を逃げ惑うコッチェビ少年期とドイツ亡命の青春の日々があった。二人は20年代のベルリンで遭遇したか、少なくとも33年前後のパリで、もしくは50〜60年代のNYで旧懇を暖めたか、委細は薮のなかである。その一方、シュトラウス亡きあとのシカゴ大学シュトラウス学派にとって「冷戦以後のシオニズム」と「ネオコン的世界新秩序」はなんら矛盾しない。接点は1933〜39年パリ、コジェーヴ『精神現象学講義』。聴講者の顔ぶれはバタイユ・ラカン・ブルトン・オカモト・カイヨワ・クロソウスキイら多士済々、そして最後列の端には1933〜40年パリで「ボードレール論・パサージュ論」執筆に没頭する亡命思想家ベンヤミンの顔も。ベルリンでは朋友ショーレムを通してユダヤ・アカデミーの領袖シュトラウスに面従腹背していたベンヤミン。もしコジェーヴとシュトラウスが暗々裡に通じていたとすれば、講義のたびにコジェーヴの視線はそれとなく「遅刻した子供」の姿を探していたのではないか。

■ まさしくメイエルホリドにとって1917〜19年の春の嵐とは、ロマノフ王朝崩壊をもたらす『仮面舞踏会』上演、マレーヴィチの美術によるマヤコフスキイ『ミステリヤ・ブッフ』上演、(24年レーニン葬への欠席を謀られたトロツキイを事前反復するがごとき)ヤルタでの闘病と逮捕収監の日々こそ「ユートピアの始まり=歴史の終わり」にほかならず、バレエ・リュスを解雇され革命の内戦に馳せ参じた「ニジンスキイ発狂」と、史上初のジェノサイドに(亡命先のロンドンで遺作『人間モーセと一神教』とともに39年9月絶命する)フロイトが探りあてた「トーデストリープ/タナトス=希死衝動」もまた、もうひとつの春の嵐だったにちがいない。39年6月「最後の演説」から40年2月処刑にいたるメイエルホリドと40年8月メキシコで暗殺されるトロツキイ。ナチスの動きを知悉する立場にあったかつての朋友ユングが、いくらロンドン亡命を勧めても躊躇しつづけたフロイト。「忘れるのは、忘れたいからである」。その没年のちょうど一年後、ベンヤミンはマルセイユからのアメリカ行き航路に乗り遅れる。「遅れるのは、遅れたいからである」。

■ ベンヤミンが「ナポリ」を共作とするほど恋慕していたマルキストの演劇家アーシャ・ラーツィスを追って訪ソする1926〜27年の春の嵐。一方にフロイト導入をめぐるトロツキイとスターリンの確執があり、反フロイトのパブロフ派精神病理学の重鎮ベフテレフが、よりにもよって自らを登用した張本人にパラノイアの診断を下して闇に葬られ、帝政ロシア末期の「オフラーナ・ファイル」を入手したチェカー長官ジェルジンスキイもまた急死を装って粛清される。やがてメイエルホリドが「パブロフの犬/狂人の脳髄/パブロフの俳優」に言及して満場の笑いと拍手を誘う36年演説は、その10年前の春の嵐を甦らせてあまりあろう。他方には、反メイエルホリド・キャンペーンの導火線となった26年12月の問題作『検察官』上演とその「討論会」に立ち会っていたベンヤミンの姿があり、その隣席でロシア語通訳を耳打ちしていたのはラーツィス以外の誰だったろうか。メイエルホリドはトロツキイへのオマージュとして24年コミンテルン集会で『(トラスト)DE』『大地は逆立つ』を上演していたが、たちまちそのトロツキイも26年失脚・29年国外追放となり、メイエルホリド孤立とコミンテルン瓦解の徴候が、ベンヤミンによる27年「モスクワ」と冒頭に引かれた29年「マルセイユ」の両稿からもうかがうことができる。

■ なぜ26〜27年のモスクワ行をはさむ26〜28年の二度にわたるマルセイユ行が、ベンヤミンにとって春の嵐なのか。まず25年フランクフルト大学「教授資格」申請論文『ドイツ哀悼劇の根源』が受諾されず大学への道を断念したこと。それが進入禁止の標識でもある『一方通行路』執筆に直結したこと。ショーレムがたびたび熱意をこめてベンヤミンに語るシュトラウスの存在。まもなく彼はシカゴ大学で頭角を顕わしユダヤ・ロビーにも隠然たる影響力をもつだろう。すでに奨学金を受領しながらショーレムからの度重なるパレスティナ招聘を躊躇しつづけたベンヤミン。マルセイユからパレスティナまではほんの一歩(一航路)であり、かつまた進入禁止の一方通行路「アーシャ・ラーツィス通り」でさえあった。それがモスクワからベルリンとパリを、パレスティナとセントラルパークを複眼視するベンヤミン固有の、唯物論的歴史観には収まりきらない「実験光学の/一方通行路の書法」なのだ。ましてや『ドイツ哀悼劇の根源』に言及されたシュミットの政治神学。海洋国家と内陸国家が覇権を競うように、ここマルセイユでは埠頭の娼婦街=レ・ブリックをもつ港湾都市と田園=プロヴァンスが境界画定を争い、「モスクワの冬」さながら北からの貧者と南からの難民が救済と永眠の「主権」を奪いあっている。ベンヤミンはこうも付け加える。「中心部から遠ざかれば雰囲気は途端に政治的になる/郊外とは都市の例外事態である」と。

■ コジェーヴ講義に魅了された多くの亡命知識人・亡命芸術家たち。20年代後半からコミンテルンやトロツキイ支持を鮮明に打ち出し、36〜38年モスクワ裁判に国際的な批判の声を挙げ、38年にはメキシコ亡命中のトロツキイを訪問のうえ第四インターに結集するブルトンたち、37年バタイユ・クロソウスキー・カイヨワによる反ファシズム秘密結社「アセファル=無頭人」、ことにブルトン「ナジャ」の引用から書き起こされるベンヤミン「マルセイユ」。彼らの動向を知りうる潜望鏡コジェーヴが、もしソ連のエージェントだとしたら、しかもアメリカのユダヤ・ロビーの奥の院シュトラウスに筒抜けだったとしたら、39年8月の独ソ不可侵条約調印と9月ポーランド侵攻は別の意味を、「スコトーマのごとき蝕=しょく」の光痕を発してこよう。ナチスによるパリ陥落寸前の40年、慌ただしく国立図書館司書のバタイユに「パサージュ論」草稿を託して、「遅刻した子供」のようにひとりマルセイユへ、ピレネーを越えてポルボウへと脱出するベンヤミンは格好の餌食とみなされたのではないか。35年モスクワ入りしてメイエルホリドの知遇を得たブレヒトは、「跡を絶たれるくらいなら、さっさと跡をくらませ」と耳打ちする。ベンヤミンはそれを聞き違えたのだろうか。それともマルセイユ再訪・再々訪こそ、ショーレムのいるパレスティナにも、アドルノやシュトラウスのいるアメリカにも、行こうとする素振りだけ見せて、そのじつ行きたくなかった身振りなのではあるまいか。

■ 2010年3〜4月の春の嵐。早大演劇博物館「メイエルホリドの演劇と生涯没後70年・復権55年」展は、いくつもの見えがたい水路を指し示す。モスクワ行の直前までプルーストを翻訳していたベンヤミンによる『複製技術の時代における芸術作品』が、NYに亡命していたアドルノやホルクハイマーの手によって(クロソウスキイの仏訳に基づき)36年パリで刊行されたのも、その伏流水=逃走線といっていい。翻訳とは翻訳の翻訳である。ドゥルーズはプルースト論のなかで、ギリシア的イロニーに対してユダヤ的ユーモアを、いいかえればロゴス=哲学のイマージュではなくアンチロゴス=抽象機械としての「思考のイマージュ」を剔出している。はからずも同展のキュレーター上田さんから昨09年4月ハンブルク美術館『ニジンスキイの眼と抽象/彩色の舞踏』という画集を見せてもらった。そこには春の嵐の底冷えのヒエログリフがあった。狂死をも辞さない視神経の炸裂の抽象機械状の乱舞があった。死せる神の眼よ、錯乱せよ発情せよ、さもなくば、その錯乱と発情に射抜かれた「最期のひと差し=スブルソー」参らぬぞ。ニジンスキイ自身によるデッサンはそういっているかのようだ。犬のようにのたうちまわる拷問の日々、それこそメイエルホリドの「最期のひと差し=スブルソー」ではなかったか。恐怖におののく神の眼に差し向けられた「賽=サイのひと刺し」でもあったのではないか。---こうしてモレキュラーシアターによる「ハエのひと刺し」もまた。(2010・Apr・4=豊島重之)