千の寺山・千の修辞

千の寺山・千の修辞

豊島重之

相内孝二/相内富次郎/相川誠/相川義男(タクシー)/相子輝之/相坂国男/相坂二朗/相澤明宏/相沢カネ/相沢和博/相沢潔/相沢憲治/相澤章子/相沢慎一/相沢征治/相沢猛雄/相澤司/相沢恒彦/相沢春蔵/相沢真由美/相沢美智男/相澤義人/相田寿美子/相田均/会田克典/会田宏美/合田則夫(せんべい)/会津滋/会津隆裕/相内治夫/相内了一/相内洋介・・・相野常夫/相野敏行/相野敏行/相原文男/相原正勝・・・

ただの名の羅列である。「ただの名」ではない。「ただの羅列」でもない。「ただの名の羅列」である。

とは言え、これが五十音別電話帳の一部であろうことは誰しも疑うまい。だとしたら、これは違法だろうか。編集発行元のNTTにより「著作権所有。無断複写複製を禁じます。」と明記されているからだ。これが実は人名ではなく地名であったとしたらどうか。最新刊のJTB時刻表にも「この時刻表データを無断転載・複写や電磁媒体等に加工することを禁じます。」とある。しかし、著作権や複製権は誰にあるのか。禁制する呪力、禁制を侵犯する力能、そして侵犯を欠いた禁制の無能はどこにあるのか。相野敏行ともう一人の相野敏行のどっちにあるのか、それともNTTと「法」のどっちにあるのか。少なくとも、同姓同名の別人物なのか住宅と商家の地名が異なる同一人物なのか、にわかには判別しがたいアイノトシユキにはないだろう。

三十年ほど前なら「物言わぬ権力」であったはずの大勢のアイノトシユキ、いわば名を奪われた顔たちや顔から切り離された名たちは、いまや個人情報保護法案の「名」のもとに、たちまち保護という名の監視という新たな「物言わぬ権力」に捕獲されないわけには行かなくなった。厖大な個人情報のCD−ROMをたやすく漏出しながら「首」のすげ替えだけで、一度として責任をとったことのない省庁・銀行・地方自治体、NTT・JR・JT・JAから津々浦々のコンビニや郊外の大型量販店までのグローバル資本に、この転載の触法性を問うことができるのか。我が家から右に歩いて一分の弱小郵便局もじきにJMと改称して、左に歩いて一分の深夜コンビニとその漏出権を張り合うことになるのだろうか。

もう一度言おう。ただの名ではなく、ただの羅列ではない。それを演劇の音声素材に転用したのは、他でもない、寺山修司である。そんな着想くらいは寺山以前に何人もいたに違いない。「他でもない」理由は、俳句・短歌という短詩型文学に確固たる地歩を築きながら、ラジオドラマ・映画シナリオ・TVドキュメンタリーから競馬評論・芸能スキャンダルまで幅広くこなした寺山の、一九六七年(昭和四二年)「天井桟敷」旗揚げ講演がなぜ『青森県のせむし男』だったのか、なぜ「岩手県の穴山小十郎」でも「荒川区の明智小五郎」でもなく『青森県のせむし男』でなくてはならなかったのか、にあるからだ。

安宅誠次/安宅精三/安宅扇太郎(表具)/安宅隆/安宅達治/安宅智津子(中華料理)/安宅トシ/安宅時計店/安立恭市/安立健一郎/安立健吉/安立幸子/安立信吾(合成樹脂)/安立清一/安立清子/安立孝夫/安立不動産/安立勝(通信機)/安立満江/安立屋畜犬具専門店/安達アサ/安達アトリエ/安達アヤ/安達あい/安達明/安達明(理髪)/安達秋次/安達昭雄/安達章夫(板金)/安達東(ポリエチレン)/安達イヨ/安達医院/安達勇(建設)/安達勇(青果)/安達一男(印刷)/安達一次/安達市太郎・・・

アイナイコウジで始まる名の羅列は、二〇〇五年(平成一七年)の青森県八戸市の五十音別個人名電話帳・冒頭部分からの引用である。言うまでもなく、各個人名の次に数字が並び、そしてこの市に五十年も住んでいながら一度も訪れたことがなく、どう読めばいいのか皆目検討がつかないほどに魅惑的な地名が連綿として編纂されているが、そこまで転載してしまうと違法となるので、惜しくも部分引用である。

一方、アタカセイジで始まる名の羅列は、おそらく七一年(昭和四六年)の東京都某区の五十音別電話帳からの恣意的な転載である。

アイナイコウジは正確にアの部の最初の一行だが、アタカセイジの前に多くの名が脱落しているはずであり、どうしても「安宅誠次」から始めたかった寺山修司のシトリカリティ=演劇性をそこに見てとることができる。

寺山が抽出した個人名の羅列が単に引用ではなく寺山自身の創作に思えてきて仕方がないからだろうか。寺山の長編小説『あゝ、荒野』(註1)の主人公が新宿新次という名のボクサーであり、その弟分の名がバリカン健二であったように。その上、写真家森山大道によるこの小説の表紙カヴァーには、実際の新宿近辺の住人たちに混じって、バリカン健二に扮した編集者中平卓馬(註2)と新宿新次に扮した寺山自身が、言い換えれば「罷業と選択、政治と犯罪、悲惨と栄光」(註3)の物語的戦意がそのまま撮しとられていたように。

九三年、『ユリイカ』増刊号「総特集・寺山修司」(註4)における昭和精吾「筆跡鑑定」は、私たちにこの電話帳採録の生原稿を提示していて貴重この上もない。しかも昭和精吾によると、『邪宗門』のヴァージョン『地獄より愛をこめて』公演のために寺山から手渡されたテクストではあったが、とても暗誦できるような事態ではなく、昭和がソラで言える彼の中学の同級生名簿「虻川孝雄/虻川義弘/虻川幸雄/安部敬子/石川勝実/石川直義・・・」に差し替えられたらしい。つまり、この五十音別電話帳は寺山の戯曲集に編纂されないばかりか、永遠に上演されることもなかった、その意味でも一級の資料なのだ。

どうすればテクストを暗誦しないで済むかが私たちモレキュラーシアターの方法だが、翻って中学の同級生名簿をソラんずることの可能な昭和精吾の「昭和性」に改めて驚かざるを得ない。いずれ昭和期の電話帳や時刻表が東北各地の泥炭層から発掘されるのと同様に、そのペルソナに相応しい科白を覚えて劇中人物に成り済ませると考えた「演劇の昭和」も炭化してしまうのだろうか。ここには、それを見通していた寺山修司の一九六八年と没後の九八年という「クリュオテ=残酷」の地勢が複層化されている。

——ここにはまさしく、テロルのパラドクスと直面させられたテロリストがいる。テロリストは、形式それ自体のほかには、薄れゆく形式の世界から抜けだすための手段をもたない。つまり、彼は形式を抹消しようとすればするほど、形式に集中して、表現しようとするいわく言いがたいものに形式を浸透させなければならないのである。この企てにおいてテロリストは、結局ただ記号だけの手のなかにとらえられたことになる。この記号はまさしく無意味の辺獄(リンボ)を横断してきたもので、それゆえ、テロリストが追求してきた意味ともやはり無関係なものである。レトリックからの逃走はテロリストをテロルへと駆りたてたが、テロルはテロリストをその逆、つまりふたたびレトリックへと連れ戻す。このように、言葉嫌いは言葉への愛=文献学(フィロロジーア)へと転倒しなければならず、記号と意味は永遠の悪循環のなかで互いを追いかけあうのである。

——(註5)

青森県のせむし男の「せむし」とは何だろう。背中に虫を飼っているということなのか。アイナイコウジで始まる青森県八戸市五十音別電話帳から移植された、顔を持たない名の群れと名を蒸発させた顔の群れが混然と蒸しあがったせいなのか。それとも災厄がそのまま蜂起でもあったからなのか。

『ホモ・サケル』や『アウシュヴィッツの残りのもの』の著書で知られるアガンベンの処女作『中身のない人間』(註5)がミラノで刊行されたのは一九七〇年。まさに多感かつ多産の寺山と同時代である。のみならず、アガンベンの語る、テロルとレトリックの「ウロボロスの蛇」こそ寺山の骨法とも言うべきものであった。寺山は演劇の表象形式へのテロルとして電話帳を導入する。そのことは徹底されてしかるべきだと私は思う。しかし寺山は、アガンベンを誤読したかのように、たちまちそのテロルをレトリックに転倒してしまうのだ。「だが、五十音別電話帖の中には死んだ少年航空兵のおれの親父の名はない(略)行方不明のおれの兄貴の名もない(略)いまたしかにここにいるおれの名前ものっていないのだ」(註3)と。

寺山の修辞的なテロルは、いつも父殺し・母殺し・自分探しに帰趨した。「青森県の連続射殺魔」永山則夫への万感をこめて。あたかも、物心つく前に母に棄てられ、第一次大戦最大の激戦地ヴェルダンで父を失い、孤児としてモルヴァン村の女たちに育てられたジャン・ジュネのように。戦地へ赴いたまま帰還することのなかった『花のノートルダム』のガブリエルはジュネの母の名でもあった——(註6)。

罷業と選択、政治と犯罪、悲惨と栄光、と書いた時の寺山の背中では、何人ものジュネと永山の戦意が一斉蜂起していたのではないだろうか。なぜなら、永山は短銃を奪うために米軍基地に侵入したのではなく、青森県から脱出したいがために亜米利加へと密航したのであり、結果的に短銃を手にし、犯罪に手を染めていくことになったからだ。

一方ジュネにとって、生そのものが「既に盗まれたもの」であるからには、盗むこと自体が「生の奪還=罷業と選択」に他ならない。同性愛と恥の主題も同様である。恥を否認するのではなく「恥を恥じる=恥と共生する」というウロボロスの蛇めいた「畳語/等価であることの内乱」。それは真っすぐシャティーラやパレスティナに通じていた。ジュネもまた亜米利加の奥処へと侵入し、さらに死者たちの住む極北の「処女地ヴェルダン」に突き抜けたと言ってよい。

ひとり寺山だけが青森県から亡命することができなかった。彼の書いたアメリカ前衛演劇事業視察をいくら読み込んでみても、ジュネや永山の亜米利加をそこに見出すことは難しい。そしてこれからも寺山は青森県に拘禁されていくだろう。それが千の寺山にとって千に一つの「せむし男」であることを願うばかりだ。

寺山修司は一九八三年(昭和五八年)四月二二日に意識不明となり、そのまま五月四日に杉並区の河北総合病院で逝った。ジャン・ジュネは一九八八年(昭和六一年)四月一五日にパリのオテル・ジャックスの浴室に没した。この奇態な時刻表は、どんな最新の時刻表にも載っていないし、この先も載ることはないだろう。けれども、「走る列車の中で生まれた」寺山と、列車の中での「等価の秘蹟」に撃たれたジュネとは、逆方向から刺し違える列車に乗り合わせていた、そのことだけは確かである。

註1 寺山修司『あゝ、荒野』一九六六年、現代評論社。担当編集者中平卓馬。

註2 写真家中平卓馬は、二〇〇五年四月の五日間、八戸市に滞在して精力的に写真を撮りまくった。三沢市・小川原湖畔に建つ「寺山修司記念館」へも訪れたが、彼は同館をほぼ素通りして、湖畔の水鳥を探し巡っていた。それほどまでに容赦のない強度を持つ、寺山との親交を改めて思い知らされた。

註3 寺山修司『地獄より愛をこめて』生原稿の一節。(所収は、註4を参照。)

註4 『ユリイカ』増刊「総特集・寺山修司」一九九三年十二月、青土社。この号には、豊島重之による寺山修司論『二度性の演劇——演劇史の「死後の生」』など、現在も読まれうる多くの論考が掲載されている。

註5 ジョルジョ・アガンベン『中身のない人間』岡田温司・岡部宗吉・多賀健太郎訳、二〇〇二年、人文書院。

註6 鵜飼哲『応答する力——来るべき言葉たちへ』二〇〇三年、青土社。宇野邦一『ジャン・ジュネ——身振りと内在平面』二〇〇四年、以文社。とくに明記してはいないが、本稿(四)のジュネ言及は両氏のレクチュールに多くを負っている。

(初出:東北芸術工科大学東北分研究センター発行「舞台評論」2号/2005.06.13)