ガリツィアのパサージュ

ガリツィアのパサージュ

シュルツ/カントルを ベンヤミン/デュシャンで読む

豊島重之

(1)シアターXとポーランド演劇 命運のパサージュ

94年秋、シュルツの版画と演劇をシアターXで、カントルの絵画と舞台装置をセゾン美術館で一挙に目にすることができた。それを機に、シュルツとカントルとの間にいくつかの離接線を引いてみたい。言いかえれば、シュルツとカントルを互いにくい込ませ、かつ一閃のもとに断ちきっている「パサージュ」を構想してみようというわけである。

構想というなら何をおいても、シアターXのポーランド演劇紹介の構想力には瞠目させられる。92年オープニングはヴィトカッツイ上陸ポーランドからの「狂人と尼僧」上演やノルウェーからの「くいな」上演他、小説「秋の別れ」に基づく映画、写真展や肖像画を網羅した貴重なヴィデオなど、まさにヴィトカッツイ「ガラ」。ポーランド現代演劇とくに80年代のポーラリティ=双極といえば、誰しもカントル率いる「クリコ・2」とクルコフスキ率いる「アカデミア・ルフ」を挙げるのに異存はなかろうが、その「ルフ」来日公演もこの年であり、とくにヴィトカッツイに基づくモレキュラー上演とクルコフスキ臨席の絶対演劇コロックが併催されたのも、ここシアターXであった。93年は隣国として因縁浅からぬ旧東独のミュラー(「カルテット」の四作競演、いわばカルテットのカルテット)を取りあげ、94年はシュルツ上陸を果たし、95年は「母」本邦初演を皮切りに再びヴィトカッツイに挑む。ただ勢いに任せて海外から演劇をよぶというのではなく、たとえばクラクフのヤン・ペシェクと企画の段階からワークショップ、そして日本での世界初演へとじっくり煮こんでいくスケールの大きい時間のかけ方、その懐の深さはこれまでの日本の劇場にはなかったものだ。その意味では、ヨーロッパ並みの劇場が日本に初めて出現したといっても過言ではあるまい。舞台公演や映画上映のできる箱型のホール、小規模の美術展にうってつけのギャラリーX、ヴィデオ・レクチュアに手頃なアトリウムやパティオ、この三つの空間を包摂するシアターX。ヴィトカッツイ、シュルツ、カントルの三人とも劇作家・小説家・演出家である前に画家・美術家であったことから考えても、ポーランド演劇とシアターXの遭遇は、すぐれた企画力といった言葉には収まりきらない、むしろ命運の一語が似つかわしいほどである。

断るまでもなく命運とは、コンステラチオン=星座、即ち「パサージュ論」のベンヤミンの言葉であり、それ以上にベンヤミンその人を指している。ナチス侵攻前夜のワルシャワを逃れて東へ、ヴィトカッツイにとってはあのロシア革命直後の陰惨な記憶の方へ踏み惑うほかなく、ところが国境の村イェジェロで、そのロシア赤軍さえもが挟撃を始めたという報に接し、ベンヤミンはと言えばナチス占領下のパリを脱して南へ、ピレネー越えを目前にゲシュタポに密告されるという恐喝をうけて、ともに絶望的な自死を遂げる。その二年後、占領下の故郷ドロホーヴィチの路上でシュルツがゲシュタポの凶弾に倒れたその年に、やはり占領下のクラクフで「死の演劇」の祖型たる地下演劇を始めたのは、ヴィエロポーレ生まれの若きカントルであった。ワルシャワやパリを除くこれら四つの町や村、これにシュルツの芸術上の出発点ルヴフやヴィトカッツイの活動拠点ザコパネやマゾッホの生まれたレンベルクを加えたポーランド南部、スラヴ風の農耕共同体とオーストリア・ハンガリー二重帝国支配の官僚制が分かちがたく根づいた広大な原野、いわばガラ=祝祭とガレ=憎悪・胆汁・腫瘍とガリオ=冷酷・無関心が入りくんだ圏域、それをガリツィアという。フランス=ガロの異名もスペイン北西部のガリツィア地方も同様、おそらく小アジアの古代ガラチアあたりのゴール人たちが西へ西へと移動した際の落とし子であろう。もしベンヤミンがピレネー越えを果たしていたとしたら、ガリツィアの海岸からアメリカへ亡命できたはずであった! いやそれよりも、一方で廃物・廃人・人形・機械・「最下等の現実」を見すえながら、他方で「先にはもう何もない」という危機意識へと繰りかえし「帰還」しつづけたカントルの命運には、シュルツ、ヴィトカッツイはもとよりベンヤミンとの響鳴もまた見逃してはならないだろう。

私の場合それは全く違った入射角をもってやってきた。エクサン・プロヴァンスの石切り場みたいにゴツゴツと起伏に富んだ静物画、いやエスタックの岩肌そのものであるような肖像画、力まかせに画布を折りまげたり引きちぎったりしたとしか思えぬ、曲がり道や切り通し、そして果物やナプキンや椅子や人物で遮られた壁の手すりや食卓の稜線の圧倒的なくい違い、さらには色面がどんどん剥がれて画布から浮遊してくる水彩めいた油彩。そうした一連のセザンヌの仕事に心奪われていた70年頃、私はパサージュの一語もベンヤミンもポーランド演劇の何たるかも知らなかった。それでも楕円絵画と称してモノモノ展や表面認識展などを試行したことを顧みるなら、心奪われていただけのことはあったろうし、それだけのことだったのかもしれない。というのも、同一平面に複数の視点を共時的に導入するキュビズム的理解ではとうてい覚つかない、「切り通し」めいたものがいつも心を占めていたからなのだが。

転機は90年、ガラス演劇「ロクス・パラソルス」とブラインド演劇「S/S秘書たち」が私をその切り通しに導いてくれた。勿論、さまざまなコンステラチオンの散種あってのことだ。まず82年にカントル「死の教室」来日、そこにはガレやガリオの鮮烈なガラが確かにあった。84年には及川廣信らによるヒノエマタ・フェス駆動、場とメディアと身体への根底的な批判から新たなる切り通しが明滅しはじめた。85年は中村雄二郎/松本小四郎「ヴィトキェヴィッチの世界」のヴィトカッツイ生誕百年記念出版、そして88年出版の近藤耕人「見ることと語ること」におけるセザンヌやブラックのパサージュ、その源流としてのウッチェロのパサージュ。あの稜線のズレ、あの色面のブレ、画布が露光してくる可視構造のキレ、それをパサージュと言うのか。近藤耕人の記述によって初めて、私はパサージュなる言葉の切り通しにさしかかったのである。ベンヤミンのパサージュに行きあたるのはその後のこと、たとえば93年のブラインド演劇「B/B脚註演劇」では彼のパサージュ言及をもろに舞台にのせている。それはパサージュの実質的な一歩、90年の命運を証しだてる切断のパ。それともあの否定のパと痕跡のパをめぐる、めくるめき起源と反復のポリティクスへと連れ戻されただけなのだろうか。

(2)ガラス製の遅延と反復 ガリツィアのパサージュ

雨をしのぐアーケードごしに明度を落とす外光と、そのクレプスキュラ=溶明暗をいや増すガス灯の眩ゆさ。言ってみれば、ユラユラとした海中から水深の分だけギラギラした海面、その鋭利な断面を見あげているというガラス製の境位。第二帝政ナポレオン三世治下、1850年代パリのパサージュにベンヤミンが嗅ぎとったものはそうした境位、ガラスとガス灯そして水深が織りなす「海光のパサージュ」ではなかったか。ショーウインドウのガラスごしに鳴り物入りで登場した「もの」や「名」や「眼差し」はあっという間に忘れ去られ、ガス灯の下での耳うちからは「顔」が失われて群衆という夢の身体に紛れこむ。そこではどんなささいな仕草も奇略と陰謀に満ちており、足元のものや名を拾いあげるには「水深」深く手をさし入れなくてはならない。そこはウッチェロやフェルメールどころかソクーロフやタルコフスキーたちが住まう水没都市ヨーロッパ。いやむしろマゾッホ、シュルツ、カントル、ヴィトカッツイこそが住まう硝子の大陸ガリツィア。この夢の室内にはベンヤミンのみならずセザンヌ、ブラック、ルーセル、デュシャン、ベーコンさえも呼び寄せられていよう。勿論、硝子の大陸である以上、たちまちガラスは鉄に、ガス灯は電灯に、水深は上下水道に、そしてマゾッホはマゾヒズムにパサージュ=推移(と言えば聞こえはいいが、つまりは変質・消失)してしまったように、路地であるパサージュ自体も夢のように立ち現れては夢のように立ち消えていったのである。

クリシェ・ヴェールもまたそうした命運=星座の一角を成している。それは「ガラス板ネガ」という意味の写真版画技法なのだが、そこから紋切型という転義が生まれたのは想像に難くない。とすれば、クリシェ・ヴェールを「ガラス製の反復」と読みかえるきわどい用法もあっていい。というのも、シュルツがクリシェ・ヴェール版画「偶像讃美の書」を発表した1920年は、絵画を「ガラス製の遅延」と称したデュシャンがその集大成「大ガラス」を盛んに製作していた時期にあたるからだ。未完のまま突如「遅延」が停止するのはその三年後。そしてヴィトカッツイがロシア革命に翻弄された決定的ダメージから脱却して(しかしその「カタストロフィズム」は一生ついてまわるのだが)絵画理論・戯曲・上演・フォーミズム運動をガリツィア全土で猛烈に展開したのもこの1920年である。その五年後いっさいの芸術創造を放棄して、肖像画という製品・商品へと亡命するヴィトカッツイはどこかデュシャンに似てはいないだろうか。

ギャラリーXで出くわしたクリシェ・ヴェールの感触はそうした命運と同致している。その思いがけぬ小ぶりの、つるりとしたガラス片というよりぬるりとした氷片。絵柄は、いかがわしき視線のドラマではなく悦ばしき凍結のリチュアル、それとも「毛皮でできたタービンとブレーキ」(ヴィトカッツイ)、素通しの線描というより線描から素通されるもの。シュルツが描いたのはマゾヒズムではなくマゾッホその人であり、裏返しのサディズムや自罰衝動のタナティデナル・エコノミーや、ファルスの介入をどこまでも遅延させる強迫的な反復リチュアルでもなく、ただ、ガリツィアを覆う分厚い水の層を冷厳に照らしだすガス灯の光芒なのだ。

同じことがシュルツ「クレプシドラ・サナトリウム」のヤン・ペシェクによる上演にも言える。終始、舞台はガス灯の凍った眩ゆさを思わせるクレプスキュラ=溶明暗で貫かれる。中央にガラス製の直方体、その内壁に水滴をびっしり飛散させ、そのまま凝固させたような、ここがサナトリウムの入口であり物語からの出口なのだ。クレプシドラの邦題を「砂時計」と訳しているのはおそらくガリツィアに即してのことだろうが、日本風にいえば水時計=漏刻、即ち「落ちる水」による時の刻みである。その時を刻む音が実は「母たち」のヒールの靴音だったという導入部には心そそられた。よくあるクリシェと思われがちだが、それがクレプシドラ=落ちる水の飛散状態での停止という時間の切断面にさし向けられていることによって、メイドが洗う青年の素足から青年の口に圧しあてられたメイドの靴底への「ガラス製の反復」を可能にするからだ。青年が父の妄想を、メイドが三人の母を擬態するパサージュがそこにある。

三人の母とは、淫猥なる独壇場、隠喩的な独裁者、そしてシューベルト「魔王」の歌声で息子を死地へ誘なうあの陰性の独唱家のことである。即ち、自他未分の渾沌たる官能の祝祭=ガラの母、象徴的な腫瘍=ガレとの共犯と官能的かつ背理的な憎悪の凶刃=ガレを演ずる母、そして世界をたちまち凍りつかせるその陰惨な声で、多産の官能と去勢の官能のどちらにも容赦なく死を宣告する冷酷=ガリオの母。これはちょうどドゥルーズ/マゾッホによる子宮的母親・エディプス的母親・口唇的母親と重なりあう。それぞれ、古代ギリシャ的娼婦性つまり太古の豊饒なる大地と結びついた好色な母、次にアジア的専制や絶対君主制のアメとムチ、即ち父殺しの始原回帰衝動と父の名による去勢恐怖のシアトリカルな大地と結びついたファリック=男根的な母、そして高度資本主義・高度情報化社会の大地、いわば感情や官能の廃墟と結びついた不毛かつ無関心な母にあたる。実際上これがきれいに三別され、通時的に都合よく直列しているわけでは無論ない。母たちはいつだって命運というものに敏感であり、父たちの思い及ばぬところで過激なプリアージュ=襞形成をしあげているものだ。にもかかわらず、母たちの不毛や冷酷が人々を魅了し、あまつさえ社会の高度化を加速させる動因となるまでに至ったということは一考に価する。どんなに否定的かつ被虐的にみえようが、不毛や無関心は不可避である。ふとした行為や意匠にすら死を宣告してくれる「口」なしには、一歩たりとも人は生きられない。冷淡、即ち好色にほかならず、それは過度に性的かつ政治的な身体空間を立ちあげる。シュルツ/マゾッホはいち早くそのことに気づき、日々そのような凍土を骨身に浴びたのであった。ペシェクの関心もそこにあると言っていい。

上演はポーランド語で行われたのでペシェクの緻密な思考を台詞上は量りかねるけれども、ところ狭しとパラノイアックに発せられるマテリア=物質・マヌカン=人形・デミウルゴス=造物主ぐらいは私にも聴きとれた。挑むようにこの父の妄想を実践する息子、何度も挫けそうになっては眉を決し、しかし何びとも達しえぬ廃物・廃人の栄光のはるか手前で。それをふと盗み見る父の沈痛、その微かな表情の「翳りのマテリア」。と、みるみるうちにそのマテリアが巨大な黒い翼を拡げた凶暴な夜と化し、青年とメイドをひと呑みするが、それはあの不可能の「あってはならぬ可能」、デミウルゴスの抱擁に見えないこともない。そして凶暴な夜は足早に萎んでいく、マテリアの方へ、つかのま物陰に身をひそめておくために。見事な演出である。とはいえ、これをシュルツ/マゾッホ流マジックリアリズムとか史的弁証法とか解してやり過ごしてはならず、まずはガリツィアの光芒、あのガス臭ただようガリツィアの凍土を手放さぬことだ。幕切れは再びクレプシドラ=漏刻の音とクレプスキュラ=ガス灯のガラスに密閉された父。そのうづくまる裸体は、ベンヤミンがブランキ「天体による永遠」をパリのパサー ジュに召喚してみせたように、あのマテリア宇宙から永遠に放逐されて星雲宇宙のガス体であることを命運づけられた、その顛末を明かしている。であればこそ青年は父の妄想をもはや書物のように読むしかなく、メイドはガラスの共同体ガリツィアの母として黙々とナプキンをたたむのである。

この三人の末路=現在を同一舞台上に、単体=窓をもたないモナドとしてパラタキシックに放置した終幕のトリプティーク=三幅対こそ、シュルツがあのガラス板ネガに線刻した当のものではなかったろうか。翻って言えば、デュシャンの遺作「落ちる水/照明用ガス」にポリッシュメント=光沢性とポリースメント=警察性とポーラリティ=偏光のポリティクスを嗅ぎつけるべきではないのか。いわばガリツィアのパサージュを。

(3)眼底に板切れ釘うち アンバラージュとトレゼタージュ

Nothing else beyond./先にはもう何もない。

タデウシュ・カントル「ミラノ講義(1986年)改稿」(関口時正訳)より

Needless to say, there is nothing in the front. In the place of nothing of image, metaphor and cipher revolve and flow up from behind. /However it is not that there is nothing in the front. There is the     front, or there is the second writing, that is, ceasing to write, that we can never repeat backward./

言うまでもなく、前方には何もない。何もないがゆえに、たちまち後方    よりイメージやメタファやサイファが旋回、逆流してくる。/しかし事実は、前方に何もないのではない。そこには前方があるのだ。さす=止すという決し    て後方へは反復しえない、二度目の書くことがあるのだ。

豊島重之「絶対演劇宣言」1991年(英訳:近藤耕人他)より

Jack-in-the-box=びっくり箱をもじって 92年企画を Witkacy-in-the-box と名づけたシアターXに倣っていえば、セゾン美術館のカントル回顧展はまさしく「Kantor-in-the-box」、おもちゃ箱をコマ落としに引っくり返したような物情騒然、いかなる見巧者をもたちまち「シュルツの子供」に仕立ててしまうトリッキーな吸引力に溢れたものであった。文字通りボックス状の9個の黒の『自画像』(以下『 』はカントルの言葉と作品名)は、母の6枚の写真を印刷した6個の粉袋をおさめた Coffin-box=柩『母の肖像』を介して、「美」然ならぬ「騒」然たる『想像力の小部屋』、「詩」学ならぬ「散」学的方法を駆使した『私の家』と Chinese-box=入れ子状を成す。この遺作『私の家』こそ、文字通りどころか描写通りの「Kantor-in-the-box」であって、そこにいささかの美的ポリッシュや詩的メタファなどありはしない。薄汚れた煉瓦を不揃いに積みあげただけの角柱状の煙突、所在なく身をよじる硝煙を底冷えの夜に滞らせたまま今にも崩おれそうな煙突。板切れをぶちつけただけの屋根からはすかいに、しかし煙突のつっかい棒にしてはほとんど役立たずの腕木、すでに内乱の火をくすぶらせる朽ちた板切れたち。それも即物的なまでにゾクリとした寡黙をたたえた筆致。たとえこの痩せた煙突がカントル自身の柩や斎場の煙や墓標に見えたとしても、あっという間に炭化の進んだガリツィアの地層にさえ見えたとしても、それぞれ注意深く「散」化され炭化されている点を看過すべきではない。その上、ペシェク/シュルツがガラスの角柱に凝固させてみせたあの「星雲ガス」もまた、この古煉瓦の角柱=私の家の内壁に内乱のように結露しているのだ。カントルにとって『私の家』とは、いわば「ガス状の署名」にほかならない。

では「落ちる水」のほうはどこに反復されているのだろうか。アンブレラに端を発するアンバラージュ思考にである。シュルツのクリシェ・ヴェールがそうであったように、カントルのアンバラージュ=梱包概念にはその技法と思考における切断と急転(及川廣信)つまりガラス製の反復を見てとることができる。ヴィトカッツイがロシア革命従軍からクラクフに持ち帰ったシュプレマティズム(マレーヴィチ)やフォルマリズム、そしてキューブやシュールのガリツィア化が大戦直後の若きカントルにとって美術上の出発点なのだが、早くもそこに『危機』なる副題をもつ『傘型空間』や『傘をもつ男』、とくにヴィトカッツイに基づく『故人』や『墓掘り人』といった傘狂いの亡者たちが登場する。水深を堪えきれず逆傘状に弾き返したかと思いきや、いきなり地表に水深もろともグシャリと叩きつぶされて、むきだしの骨と雑巾に変わりはてたアンブレラ。そこにカントルの創作のアンボ=臍・中心突起のみならず、アンバー=暗褐色の視線と死臭の梱包、秘匿された分だけ濃密さを増す暗部/アンブラ/アンブラージュへの彼独特の立地があると見てよい。ものが実際につくりだす物陰=アンブラに立てこもる限り、そこから見えるものはことごとくサンブラン=見かけの陰影である。60年代のアンフォルメルやポップ、70年代のプライマリーやミニマルの参照しかり、デュシャン、アルトー、ベーコン、とりわけ80年代末のベイトソン風メタローグの参照しかり。それらはみな容赦なきアンブラージュを封印するための「アンブレラージュ」=傘の奏法だったのではないか。呪詛のように繰りかえされた『先にはもう何もない』という絶縁的な言明がそれを裏づけている。

このアンブラージュを「やり場のない反感情」とみなせば、ヴィトカッツイ没年に絵画に手を染めシュルツ没年に死の演劇を胎動させたという命運は、そのアンバラージュ=梱包へとカントルを駆りたてるはずだ。だがそれを「物陰」と、前段のペシェクをかすめたあの「翳りのマテリア」とみなすならば、そこは決して底なしの暗黒などではなくガス光そっくりのアンバーな色面=「眼底写真」が、いわばアルトーの基底材さながら、にわかに視界を覆ってきても不思議はない。それがすぐさま想起させるものは、ベケット「マーフィ」が眼科医さながら偏執的に覗きこむエンドン氏の何も見ない「不能の眼底」である。案の定、マー フィが見出したものはエンドン氏の角膜に映った自身の最期の姿にほかならず、ついに眼底のアンブラにまで足を踏みいれることなく、そこから弾きとばされるようにして「最期=エンドン」に畳みこまれていく。ひとり全裸を霧雨にさらし、いっさいの想起が蒸発しきっていることに唖然ともせず、唯一の伴侶たるロッキング・チェアの揺れに身を沈め、ついにその揺れも「停止」する。「ガスがもれはじめた、すばらしいガス、品質極上のカオスが。」(三輪秀彦訳)もう一人の「エンドン=純粋内部」氏の誕生、死児としての誕生である。ここにペシェク扮する父のガス状の末路と内閉の血路をもう一度見出すのはたやすい。あれは眼底によるアンバラージュだったのだ。ここでも梱包は不可避であり、『先にはもう何もない』。あたかもマーフィの語頭の冗語、マーマー/ミュルミュル=壁のざわめき、ただヒリヒリと独語しつづける壁となって。

「壁」の崩落と再建、ヨーロッパの統合と再分割のけたたましくも惨憺たる趨勢に対して、晩年のカントルは、文化のヨーロッパはあくまで分割不能だと言い切る一方で、いかに切り崩そうとも切り崩しえぬポーランドの『壁』を手放してはならないと断じている。これはこれで至極まっとうな物言いなのだが、一歩ひいて考えてみれば背理でも何でもなく、あるいはほとんど何も語られていないに等しい。とすれば、アンブラージュから眼底写真へと一歩まわりこんででも、カントルの『壁』に切り通しをつけなくてはならないと思うのだ。すでに述べたように、独語する壁が壁の独語ワント、その派生たるワンデル/ワンデルン=変化・変更・交通・遊歩・行状、そしてフェアワント=親類・同志・同系語へと分岐することに注目すればよい。フェアワンドルングが早変わり芸人の含意を隠さぬカフカ「変身」なら、ベンヤミンがアナロジー=類比性に対して提起したフェアワントシャフト=親縁性こそ、ワンデルガング=パサージュの切り通し=実動詞なのであった。ベンヤミンは感情と感傷を切りわける。「父と息子は親縁関係にあるが、この関係は、理性を通して理解することはできても、理性のなかで作りあげることはできない関係なのである。」(道籏泰三訳)個別の表現をもたない親縁性は直観や理性ではなく、感情あるいは民族感情、それも音楽・数・名との並置において受けとめられる。ここにこそカントルのいう『一触即発』がさしむけられなくてはならない。ベンヤミンは問う、子と母はどのような親縁性にあるのかと。これを類比性や因果関係で捉えようとすれば、それが緻密かつ豊饒であればあるほど必ずや感傷の力学、近代/家族の同一化/全体化のポリティクスに回収されてしまう。では親縁性=一触即発の並置をどこにふりむければいいのか。

その意味でいまだに私の心を捕らえて離さぬのは、連作『肖像梱包』のあの板切れである。戯画的に描かれた人物の腕や帽子やネクタイの部分にだけ粗末な板切れがぶちつけられただけの連作。それこそアンバラージュのひそかな着地点なのである。勿論カントルは、60年代から封筒や紐や袋などさまざまな「もの」を画布に貼りつけては、さまざまなマチエールを凝らしてきた。画布とは一枚の雑巾にすぎないと言わんばかりに、傘のボロ切れの「水深」を画面に叩きつけたものさえある。しかし画布に傘をヒョイとかけただけの、鳩をポツンととまらせただけの、それこそプライマリーな板を立てかけただけのマックラッケンの引用、即ち梱包されたボロ板を画布に立てかけただけの作品では駄目なのだ。それでは『先にはもう何もない』という歯止めからアンブラージュが漏出してきてもやむを得まい。そこで彼は肖像に『帰還』する、ヴィトカッツイやシュルツがやはり肖像を『再び見出した』ように。とはいえ、人間もまたその暗部・水深・ガス体を皮膚で梱包されたものにすぎないという67年『人物梱包』もさりげなく退けられる。ぜんぶ描いてしまっては絵画を「散化・炭化」することにはならないからだ。80年初頭の板切れにはそうしたガラス製の反復があやまたず契機しているのである。

無念にもベンヤミンはスペインのガリツィアに辿り着くことはなかったけれども、そのスペインのカダケスから日ざらしの板切れをぶちつけたドアを遺作に運びこんだのはデュシャンである。そしてパリでの住まいを探し歩く若きデュシャンを釘づけにしたのが「全階ガス水道完備=オ・エ・ガス・トゥ・レ・ゼター ジュ」なる標識であった。そこから遺作の題名「エタン・ドネ=与えられたとせよ。(1)落ちる水(2)照明用ガス」が来歴しているのは周知のことだろう。とすれば、その釘穴・節穴からしか水とガスを眺望できないこの板切れこそ、幾何の命題や数式の仮定になぞらえた「エタン・ドネ」そのものなのであり、反復された「大ガラス」の、上下に二分されたガラスの「離接線=トレ」でもあるはずだ。明らかにカントルは、この風雨に晒された板切れにガラス以上の梱包力を、いわば親縁性の強度を見出している。デュシャンを参照しながら、デュシャン以上の「散化力・炭化力」をそっと示しえたともいえる。ここでは画布はペラリとした眼底である。眼底とは「見る/見ない」の停止であり、いわば「前方」である。そこから先は「見る/見ない」の振れがマテリアではなくなるからだ。ここに一触即発の釘で板切れが「与えられたとせよ」。それによって肖像との親縁的な「トレ」のみならず、画布=眼底なる事態=「エタ/エタージュ」が、シュルツのクリシェ・ヴェール然と素通されてくるにちがいない。デュシャンに倣って、これを「トレゼタージュ」=全面性と呼んでは言いすぎだろうか。確かに画布は水深を圧延した「雑巾」であるとともに、他方ではガス状に結露した「署名」ではあったが、それをペラリと切りむすんでいる「板切れ」こそガリツィアのパサージュなのである。と、そこで留めておくべきだろうか。

 

<追補>

私たちはまだパサージュのさしかかりにいる。全体性ならぬ全面性について、さらに踏みこんでいかなくてはならない。それにはまず、肖像と署名を眼底と前方で、いわば「幻覚のパサージュ」なる<前庭系>としてもう一度問いかえしてみることだ。先頃、上演されたばかりの「口の演劇」には少なくともその問いがある。                                                                                          (1995年3月)

(4)名と顔 幻覚のパサージュ

ヴィトカッツィのタトラ山は、セザンヌのサント・ヴィクトワール山に等しい。

5時20分    私は多分タトラ山岳に棲む蛇の王の化身であろう。タトラの幻影。冬の小草原。それがブジスウォプ・ミェントゥシの上にいる奇怪な爬虫類のようになった。(松本小四郎訳)

ピレネー越えを目前にマルセイユで、ベンヤミンはハシシをやる。タトラを望むザコパネで、ヴィトカッツィはペイヨーテをやる。ベンヤミンに到来する幻覚は「顔・顔・顔」だという。ならばヴィトカッツィの幻覚は「名・名・名」と言えるのではなかろうか。

(初出「Art Conference」1995)