ICANOF『BBB展』余震異聞(1) 《ハエを呑み込む口が、ハエの口に呑み込まれるにはどうすればいい》

ICANOF『BBB展』余震異聞(1)

《ハエを呑み込む口が、ハエの口に呑み込まれるにはどうすればいい》

豊島重之(ICANOFキュレーター・モレキュラー演出家)

故郷山形寒河江の桑園で、樹上から糸をひいて墜ちる死蚕の群れを見仰ぎつつ(「桑の木から微かに音をひきながら無数に死んだ蚕が降っている」————『毒虫飼育』)、同時代の遊撃手として、廃都の朽ちた一画で青菜を刻みつづけた詩人黒田喜夫=KKは、ある詩行にこう書き=掻きつける。

————十月は生まれて死につつある

おれは死から生まれつつある(------)

————朝の終りの路ばたで売られる黄色い麵をひとりで食っている

ねぎのスープに浮かぶ一匹の十月の蠅を呑みこんでいる

このときおれは闘いにみちる(------)

札幌の写真家露口啓二の北海道写真300点による八戸市美での大規模展示を終えて、はや一ヶ月余。その300点を一挙集成した『ICANOF図録2009=露口啓二写真集』もほぼ全国各地に発送を済ませて、ようやく一息ついたある日、露口さんからお便りがあった。『BBB展』アーティストトークで同席した身体表現論の及川廣信さんとの間で交わされたその交信には、市美でのトークでも話題にのぼった「写真家の身体性」から「写真それ自体の身体性」へと瞠目すべき展開がなされていて、それはモレキュラー『マウスト』御茶ノ水公演を目前に控えた私にとってもきわめて重要なエレメントにほかならず、おふたりの交信にほんの一滴の片信を紛れ込ませたいと思ったのである。

ことの発端は、市美での写真展示を観た及川さんが「驚くべきことに露口さんの写真は〈動いている〉」と帰京後、露口さんに発信、それに少なからず驚いた露口さんが率直な疑問とともに呼応したことに始まる。写真が〈動いている〉とはどういうことなのか、被写体がブレているということなのか、あるいは写真を見ることがブレているということなのか、そもそもどんな写真も動いているのか、それとも自分の写真にだけいえることなのか、と。

それに対する及川さんの応答はさらに驚くべきものであった。「改めてICANOF刊行の露口写真集を見返してみたが、やはりどのページの写真も〈動いている〉」と。おそらく撮影者としての露口さん固有の身体性から必然的にもたらされた結実ではないだろうかと。そして露口さんならではの撮影所作と不可分な〈時間性としての身体〉を想定せざるをえないと。

そこで露口さんは及川さんに、自らの撮影所作に関して真情あふるる返信をしたためる。

————「地名」は、4×5サイズの大判カメラを三脚付きで使用しています。したがってこれは人差し指と中指で支えたレリーズを親指で押すという動作になります。カメラは常に水平で、見下ろしたり見上げたりということはまったくありません。「オホーツク/シモキタ」も同様です。

「ミズノチズ」は中判カメラを使用しており、すべて手持ち、普通に親指人差し指及び手のひらでカメラを支え、人差し指でシャッターを切ります。アングルは普通に立った状態が多く、たまに覗き込む姿勢にもなります。ひたすら歩行しながら眺め覗くという感じでしょうか。つまり、ごく普通の写真撮影のスタイルです。

「ON- 沙流川」は、4×5サイズの大判カメラを使用していますが、三脚は使用しません。沢の中に分け入ってしゃがみ込み、膝や腹でカメラを抱え込むように支えあるいは地面に置いて、レリーズでシャッターを押します。このときファインダーは、簡単にピントをあわせた後は閉じられたままで、目での確認はしません。ついつい視覚が優先してしまいますが、できるかぎり耳や皮膚や、身体全体で対象を捉えることができればと思ってやっております。

ほかならぬ及川さんのことである。この露口さんの返信に「我が意をえたり」と思われたにちがいない。もはや「写真家の身体性」から「写真それ自体の身体性」へと問題の核心が転轍されていることが、次のような及川さんの往信から窺いしれるのではないだろうか。

————今朝も露口さんの写真集を拝見しましたが、やはりどのページの写真もみな動いていますね。驚くべきことです。露口さんのおっしゃるように普通の目で見ると動いてないのでしょう。でも写真の側から自分の耳や皮膚と身体から内観すると、確実に露口さんの写真の対象は動いて見えるのです。撮る側と、撮られた写真を見る側とは丁度、逆になっているようです。これも驚きです。私がそのように見れるようになったのには、それなりの方法と訓練が要りました。からだの内部の細密な関係です。それと同じように露口さんは撮影者として対象の奥に潜むものをさぐるため、相当の訓練をなさってきたのだろうとお察しします。

ここで私たちもまた虚を衝(つ)かれないわけにはいかない。なぜなら人は写真を見るとき、写真とそれを見る者との一対一対応、いわば鏡像的な関係に囚われてしまいがちだからである。いうまでもなく、すべての鏡はなにがしか歪んでおり、完璧な鏡面などこの世に存在しない。(にもかかわらず私自身は「絶対鏡面としての写真」をユメみているのだが。)そして肝腎なのは、歪んでいるとは〈動いている〉ことにほかならず、いいかえれば写真には、その写真を撮った行為が孕まれていることを意味する。

このことを及川さんは、写真を介して撮る側と見る側が正対するトポロジカルな「鏡像異性体」とみなしている。そればかりか、露口さんが両の掌(てのひら=カイラル・キラル)でカメラを支える上下・前後・左右方向からの絶妙な複合所作に注目している。喪や祈願の挙措にも似た合掌の「非対称の接面」を、分子生物学的には三次元的な「対掌(たいしょう)性=カイラリティ・キラリティ」というが、その接面の間隙にあったカメラという器物が、あたかも写真という紙片となってフッと揮発したかのようなのだ。

かつて及川さんにお聞きした忘れられない一節を露口さんにもお伝えしたい。なに、禅問答でよく知られる例文。拍手、つまり非対称の合掌面から発せられる音=ONは、右掌から、それとも左掌から、そのどちらから発せられたオンなのか。そのうえ露口さんの写真的視覚を「聴覚映像」へと、いいかえればベンヤミンの語る「群衆的身体のイメージ空間」へと転ずるモレキュラーな「揮発性=ヴォラティリティの事態」だとすれば、「隻手(せきしゅ)の声」とは何か。こんどの『マウスト』公演の起動面もまたそこにある。

(to be continued)