中度論

中度論

midst-tude

豊島重之

(1)

『千のプラトー』について書くというのは『千のプラトー』にはふさわしくない。それはすぐれて実践的な書物なのではなく現に実践する書物であり、むしろ書物=世界から逃走し、同時に書物=世界を逃走させる脱コード化/脱領土化のプラティーク=実践であり、書名そのままのプラトー=高度・速度・強度だからである。

ミル=千もプラトーも形容ではなくプラティークの動詞・実詞なのだ。というのも高度何メートルの高さとか低さのことではなく高度=アルティチュードそのもの、あるいは強度としての高度、速度としての高度をさしており、したがって実践とは無から有を創りだすレアリゼ=実現のことではなく、プラトーをプラトーとして作動させるアクチュアリゼ=現働化を意味するからだ。

見えるようにする実現ではなく見えなくさせる実現、それならやはり「知覚しがたいもの」への生成変化、そういったほうが超コード化/再領土化のおそれは少ない。生成とはいえ創造・脱却・展開ではなく逃走=実詞化であり、変化とはいえ異化・分化・進化ではなく市場・工場・戦場を微細に横ぎる速度=現働化なのだ。

言いかえれば、どこからどこへの逃走というものはなく、あるのは真ん中から真ん中への逃走、もちろん真ん中を深く掘り進むのでも真ん中から頭上高く飛翔するのでもない、真ん中=逃走。真ん中で書くこと、それは知覚しがたいものへの生成変化にほかならず、それについて書くには真ん中で書くほかはない。これでは『千のプラトー』の写し、写しの写し、どこまでいっても冗語反復の羅列ではないか。

(2)

ならば真ん中とは草だ。草は先端から根元から生えるのではなく、真ん中から多数多様に繁茂する。一本の草というものはなく草の群れというものもない。草が群れ=ムルティチュード/多数多様体なのだから。しかもそれはロンジチュード=経度をもたないラティチュード=緯度なのだから。

草はステップ=遊牧機械であり、ペヨトル=戦争機械であり、タピスリー=条理空間ならぬフェルト=平滑空間であり、ノワーズ=コロールそして『ヨゼフィーネ』のコロラトゥーラである。草を数えることはできない。草がノンブル=数だからだ。草を聴くことはできない。草がタンブル=音色だからだ。真ん中とはすなわちノンブル=タンブルのことである。

むしろ真ん中でしか知ることのできない速度、始まりも終わりも内も外も知らない速度、それを「中度」としよう。言葉は言い草であるより仕草=アティチュードであり、草書であるより起草=プラン/プラニチュードなのだから。中度はもちろん中心・中間・中性・中断でさえなく、ムルティチュード=ラティチュードなる冗語体をさす。

でもべケットの領土を仏教のイディオムで中有=ちゅうう・中間=ちゅうげん・中観=ちゅうがん・中相=ちゅうそう、とか呼ぶのは丁重に御遠慮したい。もっと平易な英語なら、さしずめミッドやミドストならぬ〈ミッド―ミドスト=真ん中の真ん中〉とするところだろう。

(3)

またしても冗語反復の奇妙な情動。すべての『千のプラトー』論は、当の『千のプラトー』を一冊分まるごと筆耕するほかはないというのだから。

とはいえ筆耕は、複製でも模写でも鏡像でもない。妄執というには徒労の影もなく、影というにはあまりに明るすぎる明白さだ。本体と正対することがなく、いつも真横に端座している無口な図体。それも〈nマイナス1〉のソリチュード=孤塁体ではなく、どう見ても〈nマイナス2〉のシミリチュード=類同体。

カップルというにはからきし戦意に欠け、ドゥッブルというにはてんで敏捷さに劣る。けれど空疎でもなければ何ひとつ秘匿もない。一字一句残らず書き移されているのだから。いかにもたよりなげな図体だが、これもひとつのアルティチュード=高度にはちがいない。

この冗語体に中度のエチュードをさしむけよう。真ん中を中度として潜行するには、中度ゆえのさまざまな危険を伴うはずだから。

(4)

『アンチ・オイディプス(以下AO)』が分裂分析=スキゾアナリーズの理論書で、『千のプラトー(以下MP)』がその実践書だというのは正確ではない。そこには書名のとおり「反」と「千」ほどの落差がある。

実際の戦場は「反」では闘えるものではなく、そのつど表現・形態・内容を変える「千」の武器が必要なのだ。分裂分析にとって最強の武器は言うまでもなく分裂症であり、それは『AO』では反生産/生産の生産であったが『MP』では生成変化と呼ばれることになる。欲望機械は機械状アレンジメントに、分子状無意識は領土的リトルネッロに、卵胞はリゾームに、〈CsO=器官なき充実身体〉は存立平面=内在平面に転ずる。

これは詩的な言いかえや韜晦では決してなく、『AO』から『MP』にいたって用法の速度と情動がつのり、ますます精妙に政治化=現働化されたからにほかならない。もはや資本主義=分裂症というものはどこにも見あたらず、それに代わってこれまで見たこともないような別のものが作動している。

しかし呼称や衣裳を変えたところで実態はなんらそのままではないか、現実の悲惨は依然として同じではないのか。ところが名前や身なりを変えただけで、悲惨はすでに悲惨とは呼べない別のものに現働化される、というのもその次元では確かなのだ。それは時として悲惨よりずっと無残なものかもしれないが、それでも別のものにアクチュアリゼ=速度化されるということのほうが重要なのだ。

なんて楽天的な。そう、まさにその楽天の真ん中に千の戦場がある。千の繊維が吹きあれ、線の戦士が突き進む、地雷原さながらの平滑空間がある。

(5)

『MP』は『AO』よりはるかに読みやすい。翻訳の文体に鉱物のリズムと植物のリトルネッロがあって読む者をぐいぐい突き動かす。というのも『AO』のロンジチュード=経度的戦略の文体に対して、『MP』はラティチュード=緯度的戦略の文体だからであろう。

もとより脱コード化/脱領土化の思考は、超コード化/再領土化の思考に対して発動されたものだけに、たえず脱コード化/脱領土化のダイアグラムを矢つぎばやに作図していなくては、いつ何どき超コード化/再領土化されかねないリスクをはらんだドライヴなのである。

そのため『AO』のドライヴはあらゆる分野あらゆる次元で細心にリスクをあぶりだす批判力として作動する。その分どうしても緯線より経線の林立が目だち、翻訳も苦役を強いられて、目にもとまらぬ奇襲的な書法もいささかガードの堅いモル状の印象を与えてしまう。

ところが『MP』になるとドライヴは進んでリスクを巻きこみ、大胆にもそれを愉しみさえする実践力に転じている。すでにダイアグラムはリスクとの混同をおそれぬまでに抽象度を増し、脱こそ超か、再こそ脱か、まったく見分けがたいゾーンにまで襞=プリを走らせ、経線を緯線にぐいぐい折りまげていくのだ。それこそ〈超コード化/再領土化〉批判の本領ではなかったか。いつだってリスクは生成変化のすぐ隣りにあるものだから。翻訳はそうした横断性の苦役にひたりと寄りそいながら、ひたひたと平滑空間をつむいでみせたと言うべきだろう。

(6)

それにしてもこの快活さは、今やどこか場ちがいではないか。両書とも68年の激動=実験の所産であり、よくてせいぜい80年代しか持ちこたえられない異装のポストモダンではないか。結局は欲望の一元=多元論であり、力能の内在=超越論であり、いわばポップ・スピノチスムではないか。

つまりは n個の性であり、それを〈nマイナス1〉個の性としたところで、内と外を入れかえたにすぎないのではないか。たしかに内と外の両義性や〈内なる外と外なる内〉との二重体にうつつをぬかすよりはましだろうが、だからと言って、すべては外だというのも、すべては内だというのと同じくらい空疎なのではあるまいか。

だから実験せよ。もはや内とか外では何ひとつ言ったことにはならないのだから。

その真ん中で危険と差しちがえよ。危険はまだ十分に危険ではなく、実験はまだ十分に実験ではないのだから。

それにオイディプスはいつどこにでもいる。壁や泡や歴史や終焉さえもが、きれいさっぱり一掃されたあとでも、あとだからこそといったふうにいたる処に出没する。『AO』は何度でも呼びだされる。時と処を選ばない。

(7)

『AO』邦訳の86年、パラサイティズム演劇『f/F』が初演される。顔面を漏斗=ジョーゴで冗語化したパラサイト=郵便脚夫の「中度」において、フランツとフェリーツェをフォルテ=強度とファルテ=襞に折り返すエチュード。いわば冗語を漏斗へと可視的に逃走させ、そのことでトートロジーをリトルネッロに不可視的に現働化させる試み。

『MP』邦訳の94年、パラサイティズム農薬ツヤコバチがトマトの葉ダニのためにオランダから移入されるや、ベケット『M・M・M』にならってセグメンティズム演劇『F・F・F』が初演される。長い記憶ではなく短い記憶。危険もまたその質=シュプスタンスを変え、その層=シュブジェクティルを変える。

『MP』が挙げたカスタネダ由来の四つのリスク、恐怖・権力・明晰・自滅の情念=タナティドー。言いかえればリビドー経済=エディパリズムの四要素。これをこのまま文字通りに実験するにはニーチェ・スピノザ・カント・ラカンではいずれ不十分であり、ベケット・アルトー・ルーセル・ヴィトカッツィ=ベルゼブブ、とりわけカフカを待たなくてはならない。これらがみなパラサイティズム演劇のスコア=譜面・線刻・痕跡であり、セグメンティズム演劇のプラン=作図・平面・一撃であるのも偶然ではなかろう。

(8)

カフカはミル・プラトーを反復する。それが私の絶対演劇である。

『MP』がカフカや『カフカ』を援用反復するのではない。カフ/カッツィなる ”K切片” が『MP』を冗語反復するのだ。この反復のことを『MP』はリフレインやレペティションに代わって「ritornello=リトルネッロ」と呼ぶ。樹木における端的な同一性=「直根状の反復」でも、周縁的諸差異の多彩な活性化、つまりは同一性強化の構造内変動=「側根状の反復」でもない、根茎=「rhyzome=リゾーム状の反復」。

ダニの三つの情動にふりあててみるならば、樹枝を上昇する向日性の反復でも、哺乳類の体臭をかぎつけて落下する背日性の反復でもない、毛の薄い箇処を選んで皮下に潜行する「横断性の反復」である。皮下というのは皮内に留まることをさしており、皮下組織より深く侵入すれば、皮肉にもダニの情動は生きられない。まさしくカフカ『巣穴=バウ』のモグラ同様、モルならぬ「mole=モウル」の官僚機械=戦争機械。。そしてトマト農園を平滑空間化する、あのツヤコバチの薄っぺらいティーバッグ機械。

(9)

パラサイトはもちろんカフカ『父への手紙』『判決』から来ている。おまえは寄生虫だ、ゆえに溺死を宣告する。息子は即座に!  文字通り!  自ら刑を執行する。なんという過敏でひ弱な、悪意のオイディプス。律儀なまでにリテラルな「書くこと」の官僚機械。ここには四つのリスクが四つともひしめいている。

しかし何ゆえに文字通りなのか。実は父の宣告は息子自身の明晰=死衝動が、父=手紙に恐怖=権力を作図したものであって、自分=言表行為の主体が、自分=言表の主体に宣告しているからだが、それも父が言うより前に父に言わせてしまうという腹なのだ。その上、寄生虫というなら寄生虫だという冗語反復。

息子は死んだわけではない。死んだとは一言も書かれていない。即座に=速度をつけ、女中にぶつかり=異類となり、そして車の群れ=分子状の情動どころか、橋からの落下=マダニの情動を得るというプロセ=プロセデ、すなわち訴訟=過程=処方において、寄生虫という〈名〉を寄生虫という〈実在〉に生成変化させたのである。宣告は文字通り線刻、線をひくこと=実験スコアだったのだ。

(10)

まさにそのことにおいて、タナティドーはもとより自身や父につらなる一切が、パラノイアックな官僚機械からスキゾフレニックな戦争機械へとギアチェンジし、さらに別の領土へ、とはいえ、見てくれは寸分たがわず元のままであるだけに、容易には知覚しがたいものへと逃走を始めている。というより、この全文がそっくり別のものとして初めから読み直されるのだ。これを私は「二度性の反復」と呼んでいる。

繰り返しておくが、パラサイト生成変化が重要なのではない。それについて書かれたもの全体が、そのままで何か別のものに成りかわっていることのほうがはるかに重要なのだ。絶対演劇のイディオムの一つ、絶対平面がかいま見えるとしたらここである。『MP』の言うを俟たず、それは超越でもなければ無差異でもなく、もちろん相対ではありえないが、にもかかわらず〈相対の真ん中〉にしかありえないものなのだ。

そして最大のリスクは今なお、真ん中=皮下潜行にある。

(初出:河出書房新社刊「文藝」1994年秋季号/特集《A.D.1994 〈ドゥルーズ=ガタリ零年〉》/サイト転載に際して著者による若干の校正)

著者註[*]

(1) *pratique=実践・日常習慣行動 *plateau=高原・台地・舞台 *altitude=高度

(2) *multitude=大衆・群集に対して「多衆・散集」とも呼ばれるが、その帰趨はいまだ不明

 *longitude=経度・垂線

 *latitude=緯度・露光量の寛容度・信条の自由度 *steppe=中央アジアの大草原

 *peyotl=サボテン科の植物・「tutuguri 儀式」でアルトーも試みた幻覚剤

 *noiseのフランス語読み(正しくは、bruit=ブリュイ)

         *chorale/colorer/coloratura=聖歌・彩色・(「魔笛」の夜の女王めいた)ソプラノ唱法               *nombre=数・頁 *timbre=音色・切手・消印

 *attitude=身構え・心構え

         *plani-tude/plane-tude=(起草に込められた)平滑化・滑空性・惑星化の造語

(3) *solitude=独居・隠者、ひいては隔離・幽閉 *similitude=相似・対、ひいては直喩

(4) *actualiser=(realiserとは異なり)潜勢的なものの現示・現勢化

(5) *ritornello=語根はrite/ritual=典礼、フランス語表記では、ritournelle=反復的な小楽節

 *diagramme=予測不能な「agencement」を組み込む限りでの図表・路線図

(6) *pop spinozism=17世紀オランダの哲学者、B. Spinoza を孫引き的に標榜する傾向

 *「n−1」=大文字の性・主体・歴史・無限・・・が差し引かれた、複数性のカオス

(7) *Forte=強音 *Falte=折り目・襞

 *M・M・M=マーフィ・モロイ・マロウン、のイニシャルであるばかりか、ベケットには縁の深いマグダレン・マーシィ・メンタルコートの略称

 *F・F・F=90年代モレキュラーの三部作「Funnelled・Footnoted・Facade Firm」

 *Thanatido/Mortido=(Libido=生衝動に対する)死衝動

 *ベルゼブブ=折りにふれてヴィトカッツィが自称した異教的な悪霊

(8) *トマト農園の枝々に設えられた「tea-bag」の中のツヤコバチは、害虫を餌に幼虫を育て、農園を滑空していた。その後の帰趨が報じられないのを顧みれば、こうした奇手は長続きしなかったのかもしれない。

(9) *カフカの短編『判決=ウアタイル』については、本サイトの拙稿『ガタリの消息』御参照のほど。

(10) *「二度性の反復」については、本サイトの拙稿『寺山修司の風洞』御参照のほど。