蝕の写真・蝕のダンス

蝕の写真・蝕のダンス

倉石信乃

市民による自発的で革新的な芸術支援の実例を見たいなら、写真・映像作品に綴(つづ)られる歴史的現在の、過酷な真実に近づきたいなら、東京にある幾多の展示空間ではなく、急いで八戸市美術館に駆けつけるべきだ。ICANOF(イカノフ)第7企画展「イスムス=地峡」展へ。

展示の中心を占めるのは、沖縄戦の経験者が語る形姿を、沖縄在住の写真家・比嘉豊光が写し取った連作「島クトゥバで語る戦世=イクサユ」。六百点を超える肖像の群れに対峙(たいじ)すると、沈黙と声、可視と不可視の間の恐るべき隔たりのアスペクト(局面)が一挙に圧縮して、観者=聴者の耳目に殺到するような迫力だ。これらの写真、これらのアスペクトなしに「地峡」は生じ得まい。

「イスムス」展に併せて上演された、ダンス「イスミアン・ラプソディ=IR」四部作のうち1と2を観(み)る機会も得た。ICANOFのキュレーターでシアター・ユニット「モレキュラー・シアター」の豊島重之の演出、大久保一恵たちモレキュラーのメンバーの出演によるこの作品は、近代芸術における実験精神を、今日的な課題として再生するモレキュラーの基本姿勢を堅持しつつ、新たな「地峡」に歩を進めた。

「IR・1」にそれは顕著で、プロジェクターを壁面に投影し、何も写っていない白光の矩形(くけい)の内外で、ダンサーがその「四角」い枠取りの力から逃れようとしたり戦ったりする。オフの声では、ロシア革命期の演出家メイエルホリドが、スターリニズムによって粛正へ向かう悲劇が、彼の抵抗の言辞とともに綴られる。そこへ、彫刻家ジャコメッティの作品に触発された作家ジャン・ジュネの特異な美術批評が挿入される。

これは「蝕=しょく」のダンスだ。「蝕」とはまず、光を壁面に投影するところに、ダンサーの身体が被さることで「影」が生まれるという、物理的なダンスの構造から言われる。

またメイエルホリドの引用と「蝕」の構造は、革命直前のロシアの立体=未来派演劇の代表作「太陽の征服」で舞台美術と衣装を担当した、画家カジミル・マレーヴィチによるプランを想起させる。

マレーヴィチは矩形の枠の中に「蝕」を描いたが、それがほどなく彼の抽象画の誕生につながる。「蝕」とは、太陽に象徴される旧制度すべてに対する勝利・征服の企てだ。「蝕」=光の隠蔽(いんぺい)は、近代の前衛たちによる文化的・政治的な歴史総体への反逆の「のろし」でもあった。

ダンサーは、通常の所作よりも表現主義的といってよい「有機体的器官」の恐慌状態を明示した。それは制度への抗(あらが)いはいまも、いまこそ切迫しているという徴(しるし)なのだ。(美術評論家、明治大学准教授)

(初出:「東奥日報」/2007年9月22日)