箔足のバロック

箔足のバロック

豊島重之

(1)

江戸中期の京都。ある僧庵か工房か町家の離れ。戯れにこんな会話がやり取りされたとしよう。「何幅対もの屏風絵の長大さを競っても先は見えている。」「いくら傾(かぶ)いた画想も傾いているというだけで、いずれ底が割れてしまう。」「それより、誰もが存分に金箔を注ぎ込める今だからこそ、誰が一番、最少量で傑作を成すか競ってみたらどうか。」

こうして光琳の画面から箔足(はくあし)が消える。箔の足音も聴こえなくなる。これで完成なら最少量の金泥で済んだはずである。ところが光琳は、さらに金泥を含んだ筆を駆使して、箔足そっくりの格子を密かに描き加えていく。密かに? なぜなら、それは描かれてあるように見えてはならないからだ。二枚の箔の重なり部分を意味する箔足は、言うまでもなく絵柄の「地」を成すべきものであるからだ。それを、既に仕上がった絵柄の上から「滲み込ませるように/水深(すいしん)にさとられぬようにスッと差し入れて、その底面にそっと寝かし付けるように」透かし描きするというトリッキーな所業には、誰もがひとたびは吃驚せざるを得ないのではあるまいか。

箔足は格子状のタッシュ(筆触)を成して「地」の平面性を体現する。絵柄にとって言わば「基底材」の役割を果たす。今しも光琳は、箔なしで箔足なしで(つまり有機染料か何か別の基底材を潜ませて)、従って絵柄のみで新たな平面性を達成したはずである。なぜ、わざわざ箔足を復活させることで新たな平面性を封印しなくてはならなかったのか。一つ言えるとしたら、格子状のタッシュは、視覚的な「地」であると同時に聴覚的な「地」でもあったからだ。確かに「箔の偽足」でしかないけれども、それがなければ聴こえてきてやまない足音を「聴こえなくさせる」ためではなかっただろうか。

これまで誰も成し得なかった「工芸の極致」としての「紅白梅図屏風」。絵画と工芸が各々の「死地」において辛うじて張り合っているような、のみならずお互いの「死地」を取り交わし取り崩してさえいるような、奇想が奇想でなくなる局面。そこに私達はバロック的相貌を見出すだろうか、それとも反バロック的相貌が切り返されていると言うべきだろうか。

(2)

ザックリ言おう。

写真家の北島敬三によれば、銀塩とデジタルは、ネガという基底材を持つか持たぬかという本質的な違いにもかかわらず、果実としては誰もにわかには見分けることができない汽水域に私達は急きたてられている。ネガを基底材と呼ぶ北島の用法は、金地の箔足を基底材と見立てた光琳とも違うし、勿論、アルトー/デリダが「シュポール=支持体」を内破するものとして提起した「シュブジェクティル=基底材」とは全くの別物ではあるが、ここではそれは問わない。

差し当たりの問題の所在は、写真ではなくカメラなのだ。デジタルカメラは、そうである必然がおよそないのに、なり振り構わず銀塩のカメラに似ようとする。8×10の大型カメラの如き図体やシャッター音を再現しようとする欲望とは何か。北島はそこに、シミュレーションではなく「エミュレーション(競合)」という一語を振り込む(「ICANOF図録2004」参照)。端的にバロックである。しかしそれは、近代産業社会や高度情報化社会の支配し、かつ支配される欲望に対する反措定を意味しない。もはや支配だか隷属だか見分けがたく浸透し尽くした欲望をくじくのではなく、むしろその欲望を頭一つ抜きん出る別種の強靱な欲望。それがエミュレーションに込められた北島の底意なのだから。

本来ならボタン電池のような図体のカメラでいいはずであり、重くて長いシャッター音でなくていいはずなのだ。身体感覚が汽水域に場慣れするまでの当分の間ということだろうか。或いは写真を撮っているというアリバイ。一人を除いてこの雑踏の全員が盗撮しているかもしれないという状況。これをデカダンスと言う。一人を除いて全員が盗撮されているかもしれない状況を、デカダンスとは言わない。

デカダンスは必ずしも退廃ではない。小沼純一によれば「デ・カデンツァ」。即ち、骨抜きにされた終わり、終わった気のしない終わり、何度終わっても終わりそこねてしまう終わり。ベケット/宇野邦一によれば「また終わるために」。何かしら余計なもの、空疎なもの、不要な細部をいつも過剰に産出・散逸させてしまうデカダンス。私達は光琳の時代によく似た「エミュレーティヴ」な汽水域を急かされている。

(3)

私はバロック的という語を、語源通り「いびつ」なゾーンに濫用する。所謂、宗教改革の清風に抗う反宗教改革プロパガンダとしてのバロック(装飾性・演劇性・アレゴリー性)に囚われずに誤用する。例えば、北米先住トライブを初め世界各地に遍在する「ポトラッチ=過剰の蕩尽」をバロックと思わない。例えばバリ・ヒンズーの、年に一度、鉄を使わない、火を、文字を、目を、水を、食べる口しゃべる口を使わない日を設ける習俗をバロックとは思わない。過剰の蕩尽も禁制の侵犯も「いびつ」どころか均衡を規範とする仮の不均衡にすぎない。

ならば、金の箔足ならぬ足萎えのキンはどうか。キンという名の日本産最後のトキは、飼育ケージの鉄扉目がけて自ら頭部を激突させて絶命した。頭部を体ごと打ちつけるには踏んばって跳ぶだけの脚力が要る。キンは萎えた足をふるって、「最後のトキ」をふるって跳んだのだ。03年10月10日のことである。

トキ研究者のコメントがふるっている。キンの享年とほぼ同数がいまだ存命する中国産トキと、命脈が尽きんとしていた日本産トキが、遺伝子レヴェルで同根だと確認された矢先。「それで安心して逝ったのではないか。」「それで安心」したのはキンではなくトキ研究者のほうだろう。中国産トキのためのケージとは違って、日本産トキのためのケージは象の墓場だったわけである。

キンの自裁は、装飾性・演劇性・アレゴリー性をいくばくか備えてはいるが、これを私はバロック的とは呼ばない。実は自裁は達せられなかった、のだとしたら? 可能世界では、首尾よく自爆を遂げたのだが、キンの現実世界では、踏んばった時の衝撃で致命的な骨折を負い、腹這いのまま失立の日々を余儀なくされることとなった。元々、脚力は衰えてはいたが、日増しにキンの足から「漆状の箔」が剥落する一方なのだ、としたら?

ところがである。キンは飼育係の目を盗んで鉄扉に眉間をコツコツと打ちつけ始めたのである。力なく、しかし着実に。周知の通りトキの頭部は狭くて紅い。多少の裂傷や出血は見逃されがちだ。何しろ見た目には身じろぎ一つせず鉄扉の傍らにじっとしているだけなのだから。キンはしかし眉間を殴打し続けてやまない。来る日も来る日も。延々と、自爆し続けている。これがバロックである。

(4)

----そうした人たちは、どんどん多く、そしてどんどん次から次へと、自分たちの精神的財産を(自分たちの頭の)窓から投げ出してゆくのであるが、その精神的財産は、自らが(自分たちの頭の)窓から投げ出すのと同じ速度で、頭の中で増殖してゆく。(略)そしてついには(自分たちの頭からの)精神的財産の投げ出しのほうがもう間に合わなくなってくる。(略)これらの頭の中ではついに絶え間なく、そしてじっさいに次からと次と精神的財産が生まれ、しかもその速度は、彼らがそれを(彼らの頭の)窓から投げ出すよりもはるかに、残酷なほど速いのである。そのためにある日、頭が爆発し、彼らは死んでしまう。

トーマス・ベルンハルト(以下、TBと略記)の小説『ヴィトゲンシュタインの甥』(岩下眞好訳・音楽之友社)からの一節である。前後中略したため、くどいほどに畳み込まれるその際限もなさを伝えられないのが口惜しいくらいだ。言うまでもなくこの一節は、ロデーズからアルトーがロジェ・ブランに書き送った次の一節と精妙なまでに響き合っている。「わたしは聖餐、聖体、神、キリストのすべてを窓の外に投げ捨て、自分自身になる決断をしました・・・(内野儀訳)」

一つには、若きTBにとって、ザルツブルク音楽演劇大学モーツァルテウムの卒論が、ブレヒトとアルトーの比較研究であったこと。生涯、TBの小説と戯曲から、痛快なブレヒト的アレゴリーと仮借なきアルトー状「戦争機械」だけは衰えることがなかった。

もう一つには、TBの「精神的財産」の全部が全部、かつては新教を駆逐すべく盲信的なバロック世界を生み、19世紀末から21世紀の今に至るまで反ユダヤ主義とナチズムの牙城でもある、旧教国オーストリアを伴侶としたこと。TBにとって十字架と鉤十字は似ているのではなくイコールなのだ。TBの生地が産出するものはオペラであれ精神分析であれ明媚な風光であれ、一切が悪臭を放つ低俗きわまりない死地なのだ。

第三に、ヴィトゲンシュタイン家(以下、Wと略記)。19世紀後半、カール・Wの代に鉄工業で当て、オーストリア・ハンガリー帝国有数の財閥となり、クリムトやマーラーやブラームスらが出入りする芸術サロンの中心を担った。そのカールの5人の息子。3人は自殺。4人目が、ラヴェルやプロコフィエフから協奏曲を贈られた「左手のピアニスト」として有名なパウル・W。残る1人が「論理哲学論考」の哲学者ルートヴィヒ・W。

さらにその従兄弟に「もう一人のパウル・W」。その哲学的な頭脳を著作にではなく「文字通りの狂気」に浪費し果てた、このパウルとの交友を中心軸に据えたのがTB『ヴィトゲンシュタインの甥』である。冒頭の引用はその狂気の蕩尽ぶりを示唆してやまない。W家の隆盛と末路が、カトリシズムとナチズムのそれを物語るのみならず、眼前にある世界の崩壊を、仮に廃墟となりながらもいまだに汚泥を噴流させて延命しているなら、その世界への呪詛を物語っているのは明らかである。

(5)

----写真の映像が、と私はガンベッティに言った、世界規模の白痴化を作動させたのだが、そのプロセスは、写真映像が動きはじめた瞬間、人類にとって致命的な速度に達した。人類はこの数十年来痴呆のようにそういった致命的な写真映像だけを眺めているうちに、麻痺させられたも同然の状態になっている。(略)そういう痴呆状態の支配する世界に生きるのはどだい無理だ、ガンベッティ君、と私は彼に言った、と私はいま開いた墓を前に考えた。(略)思考を糧に思考を通して生きる者が二千年期の終わる前に自殺を「遂げる」ほど論理的なことはない。(略)と私はガンベッティに言った、と私はいま開いた墓を前に考えた。

04年2月、TBの長篇小説『消去』(池田信雄訳・みすず書房)が刊行された。上下巻とも各四百頁を越える邦訳から察してドイツ語版原文もかくの如しだろう。改行がない。インデント(行頭一字下げ)さえない。句読点はあるがセンテンスは異様に長い。冒頭引用の通り、「と私は彼に言った、と私はいま開いた墓を前に考えた。」といった用法がくどくどしくも頻出する。但し、これを過去の想起と現在の描写を入り組ませた「入れ子状のモノローグ」と解したら、TBを半ば読み損なってしまうことになる。では何なのか。「と私は言う、と君は思う、と私は見る、と彼は言う、と僕は聴いた、と・・・」 これを「箔足のリトルネッロ」と呼んでおこう。どこが違うのか。それを次に示そう。

私の考えでは、『ヴィトゲンシュタインの甥』の主人公が「もう一人のパウル・W」であったように、この『消去』の主人公は「もう一人のルートヴィヒ・W」なのである。

例えば、「世界」に謎はない、「世界があること」が謎なのだ、という命題はどのようにして成立するのか。世界にある時、世界にあるということを私達は知ることができない。世界にあるということを知るためには世界から身を遠ざけなくてはならない。しかし世界から遠ざかった途端に、世界は世界でなくなる、正確に言えば「その」世界でなくなるのだ。

従って、私達は世界にありながら、世界にあるということを知ることができない限りにおいて、世界にあると言うことができる。ここから、あらゆるトートロジィ(同語反復)命題は偽の命題なのか、ピンボケの映像は人間の映像と言えるのか等々、気の遠くなるような命題の数々がルートヴィヒ・Wのトートな(張り詰めた)思考を襲うだろう。あたかもパウル・Wを襲った思考のカタラクト(瀑布)さながら。

『消去』の上巻「電報」はカフカの『審判』を、下巻「遺言」はカフカの『城』をどことなく想起させる。下巻の終わり近く、ヴォルフスエックの「執務室」文学というターム、代々、執務文書はライツ製のバインダーにファイルされたため「ライツのバインダー文学」というTB特有のタームが出てくる。全てのドイツ・オーストリア文学は唾棄すべき執務室文学であり、悪寒が走る公務員文学である、一人カフカを除いては、とTBは書き添えている。

勿論、カフカはKをついに城の執務室に到達させはしなかったが、TBは「もう一人のルートヴィヒ・W」を亡父の執務室に到達させ、その上でヴォルフスエックの城それ自体を、即ち「W家」をこの世から「消去」させるのである。奇行と隠遁の哲学者ルートヴィヒ・Wが亡父の遺産を一切放棄したという自伝的事実をことさら参照する必要はない。TBにとっては「世界があること」への呪詛を貫徹することだけが宿痾だったからである。

「書く」という技術=労働において「世界」は崩壊する。同じように「読む」という技術=労働において「世界」は崩壊するだろうか。しかしその一方で、技術=労働がナチズムやキャピタリズムと容易に結合して「無世界性」を、つまりはグローバリズムを体現してしまうことを、TBほど完膚なきまでに見通した「悪意の性」を私は他に知らない。

『消去』の最末尾で、W家の遺産を、いわば19世紀後半から20世紀後半までの「写真映像の世紀」を、TBの主人公は在ウィーン・イスラエル宗教文化財団に寄付することで清算する。これを反ユダヤ主義の四百年に対する、せめてもの文学的抵抗だと思ったら大間違いである。それこそ、TBにとって「無世界性」への飽くなき呪詛であり、「世界があること」へのバロック的な悪意に他ならない。

(6)

ベケットが没した89年12月に先立つ、89年2月にTBは逝った。クロニクル上は十ヶ月ほど転倒しているにもかかわらず、のちの訳者や評者らによって、ベルンハルトがベケットの再来と仮に呼ばれうるとしたら、光琳やキンの箔足が「ritornello=リトルネッロ」を囀(さえず)り出す限りにおいてである。

(了)

(初出:京都造形芸術大学舞台芸術センター「舞台芸術」/2004年4月発行)