豊島重之=インタヴュー

豊島重之=インタヴュー

インタヴュアー・有森静(構成)+石橋宏+北田志郎

文責/有森

——この間若干の媒体からの反応があったわけですけれど——リアクションがほとんどでアクションとよべるものが皆無なのが残念ですが——、今日あえてお訊ねしたい点はMOLECULARの戦略はといいますか、豊島さんは上演で一体何をやろうとされているのか。生産でも生成でも構いませんが——この概念のモダニズム的、マルクス主義的な出自、あるいはそれと表裏一体であるところの表現という概念を反省的に捉えつつ——その肝心要の一点がどうもクリアではないという感想を持っています。というのも現在、身体芸術は凝縮されてであれ、拡散であれ、あまりにも自己表出、自己表現のレヴェルに留まっている気がします。

豊島 私の話はどんどんバラしてゆくというか、話というのは、ある次元に留まる話というのはあまり面白いものではないというのが基本的にありまして、いかにこっちがある斜め上方の次元に飛んだとしたときに、聴いてるほうは斜め下方の次元で聴くとか、そういう発話と聴取との妙、それが話の面白さだと思うんですよね。ドンドン次元を飛んで喋るのが基本的に私のスタイルなんです。だから割と不誠実に聴こえるらしくて(笑)、例えば「絶演批判」のコロックなんかで突然、〝虫干し〟なんていうと、みんなあっけに取られたり、うんざりしたり、冷笑を返すみたいなね。実際この一点なんだよって言い方で言ってゆく、ある次元にこだわって言ってゆく訳ですよ、いろんな次元で問われてもたった一つの次元で応えてゆく、そういう戦略をこの前の「絶演フェス」では取っているわけなんですね。それも非常に限定した言い方、この一点しかないんだと、演劇の問題、演劇で残された問題はこの一点なんだとか、一見限定した言い方でありながら実は、豊島が言ってるのはどこにでも分岐分流してゆくようなデリーヴないしドライブをもった言い方であって、それをそのままリテラルには聴けないというふうな感触はモロに出てきますね。聴く側のひとつのレスポンスとしてですね。私の話の切り出し方のふたつの戦略というのがあって、その戦略を一線で活躍している批評家達でさえ理解出来なかったってことなんですよ。

——そこで話の入口としてなのですが、プレ・コロックでアンフラマンスをテーマの一つとして選ばれたことの必然性が、いまひとつよく判らないんですよ、ああもアンフラマンスにこだわったのは何故かっていう・・・

豊島 「絶対演劇」をある種構想して行くその過程でアンフラマンスという特異点をみつけて、そこからでも語れるというようなことがありましたね、ひとつには。アンフラマンスをやりたいというのではなくて。ただ今までのコンテクストで言えばですね、アンフラマンスを演劇の文脈でどうのこうのという動きなんか全くないわけですよ。そういうところもカバーしつつ、そこからでも「絶対演劇」は語れるんだと言ってゆこうと。もうひとつ平面性を問題にしていた訳ですよ。それはMOLECULARの「S/S 秘書たち」という作品でもそうですし、清水君のCUATRO GATOSの上演を二度三度、見たかぎりでの感触というのは、これはフラットネスだなと。だからそのフタットネスflatnessを見ないかぎり、ミニマリスティックなものだとかパパ・タラフマラ的なものだとか、実際そう見られたろうし、見られる要素もあったんです。でも清水君と何度か話してみるとね、決してかれはそれがやりたいのではないんだ、ということが段々判ってきた。かれが言ってること、いろんなふうに表現してきたことを、じゃあフラットネスということでちょっと考えてみませんかとこっちが提起した。フラットネスの局面から「絶対演劇」に関わってきたらどうだろうかと。だからこの平面性っていうのがまずあってということですよ。とにかくフラットネスというものが演劇のコンテクストに対しての割線になる、分割線になると。接続というか切断線というべきか。

なぜかというとやはり演劇というのは、ある時間性と空間性の交錯があってそれは結局は綜合的ににあつかってしまう。そういう気がなくてもどんな演劇を見てもそれは必ず、縦軸・横軸、斜め軸なんでもいいけれども、必ずそんなふうな孕み方をして行ってある深みをもっていく訳ですから、まあ凹凸をもってくというかね。やはり清水唯史の作業というのは、徹底的にフラットネスの線で考えて行くってことが出来るからそれが一つと、MOLECULARがすでにフラットネスをコンセプトにしてずっとやって来てたことも一方であった。でまあ、フラットネスを語る切口としてアンフラマンスを出してきたわけです。フラットネスというのはやはりこう、二次元を一次元に三次元を二次元にとか、ある種の次元の落しな訳でしょう。次元の落しで何が出来るのかという問題。それはだからアンフラマンスで下方へという、それを現象学的な射影というような概念とどう関わってゆくかだとか、いままで言われてた生活地平だとかいう、つまり相互主観性の地平だとかっていうその地平を問題にしてゆくときの、その地平の〝平〟とですね、ここで言わんとしている下方へのアンフラと〝マンス〟、希薄である事とがどう絡み合うかってことですよね。だからアンフラマンスそれ自体にずっとこだわって行くつもりはないんですね。ただ演劇を問う問い方というのはやはり、どうしたって身体は時空意識をもっているのだから、その時空意識をどうしようもないでしょうと——。それは冒頭で言われた自己表現ということでもいいんですけどね。そう考えてゆくときにその時空意識の次元をひとつ落して行く、あるいは二つ落して行くっていう形で出てくるフラットネスを問題にすると、アンフラマンスをどう捉えればいいかということです。

——これはアルトー/デリダ「デッサンと肖像」を読んでの印象なんですが、思考の形式を言うのだったらMOLECULARはむしろ〝基底材〟じゃないかと、アンフラマンスよりも〝基底材〟のほうへゆくべきじゃないかっていう感触をもったのですが・・・、もっというと今回なぜデュシャンだったのかとちょっと引っ掛かるものがあったんです。

豊島 そんなことはないんです、例えば私は今回の上演のもとになっているのが90年の8月にやった「ロクス・パラソルス」多方向バージョン(笑)、ガラスをあちこちに使って観客席の下でも上演が行われているっていう。あれはルッセルなんですよね、ルッセルが扱えるのは、やはりある種のフラットネスだし、アンフラマンスな訳であとはノンブルであり、タブローだというようなことがルッセルからどうしても出てくる問題で、つまりマシニックということにもなりますし、それから書体、書いていく書法ですね。書法とか推敲、たとえば一行の推敲に15時間ぶっとおし掛けちゃう、一行の推敲に乱数表みたいなものを使ってやるのではないかというくらいの。フーコーのルッセル論だとか「アフリカの印象」であれ「ロクス・ソルス」であれ、読んだかぎりでですね、ルッセルを考えてた時にはもうデュシャンを同時に包んでる、デュシャンの身振りというのは非常によく判る、そういうニュアンスでやったんですね。

ですから、それはそれで済んでしまってて、どういうふうに済ませたかっていうのをこの間の「絶対演劇」でアンフラマンスという形で出したのであって。私は今回の「絶対演劇宣言/解題」——「図書新聞」6月20日号——で最後の箇所に書いたことで一応、決着を付けたつもりなんです。つまり人が椅子から立ち上がったときに椅子が即座に転べばですね、これはアンフラマンスの問題なんです。私はそこでそうは書いてなくて、人が立ち上がってしばらくしてから椅子が倒れると書いてる——そこを誰も読んでくれないかも知れないけど——、私はそういう言い方でアンフラマンスのことは自分なりに決着つけたつもりなんですよ。やっぱり〝基底材〟le subjectileのほうが多分、私にとっては大きいでしょうね。タブローの表層が〝基底材〟だという言い方を私から見ると、ジェッソが〝基底材〟だという言い方と、もう一つメタフォリカルだけれども〝基底材〟というのがあると——それは決して深層とか無意識とかそういうことではないと。ただ感触としては、アンフラマンスよりはシュブジェクティルだろうというあなたの予測はまったくそのとおりだと思います。だから今度はそれをどう裏切るかとかね、——つまり例えばね、「絶対演劇」が演劇の上限の形式、上演のフォーミズムを使うと言ってる時には、そこには柄谷的なね、形式化を徹底してあるいは形式を扱えば必ず自己言及があって決定不能性に陥る云々というような、そのレヴェルのポレミックで終わってしまうわけですよ。

だけども、上演のマティエールのレヴェルまで降りてゆく、ないしは踏み止どまる、そこで何か思考に値するものがありそうな気がする、アンフラマンスというのも下方へと考えれば、〝基底材〟の〝sub-〟も下方へですからね、私は決してそんなに違いはないと思うんです。〝マンス〟と言ったってある固定したものを〝下〟とよべるものではない訳だから、そうなるとプロジェクティルの放射性と〝マンス〟〝下〟というのは何処かでつながるだろう。そうするとやっぱりアンフラマンスとシュブジェクティルというのは、ひょっとしたらある次元からみたら、かなり似ていることを言ってるんじゃないかという気がしますね。

——これは感覚だけで言っているので恐縮なのですが、アンフラマンスというのはどうしても〝膜〟を連想させてしまうので。〝基底材〟だと何かこう絶対的なマティエール性というか、その〝膜〟性みたいなものが吹っ飛んでしまいそうな予感があるんです。アンフラマンスを問題にするとどうもソフィスティケートされた上演で終わってしまう、——それをいかに批判的にのり越えようとしても——結局、手の込んだポストモダンの延長線上で終わってしまうんじゃないかっていう感触があるんです。

豊島 私がアンフラマンスを持ってきたもう一つのモチベーションがあって、それはやはり俳優の身体のね、いかんともしがたい能動性というか、〔自己〕表現衝動というようなことだったんですよ。動いてる時に内在性なんか関係ないよってことは一方でありながら、必ず某かのいかにその規制され、限定され演出され、あるいは自分においても自己規制をしてしまう、必ず表現というのはあるわけですよ。つまり必ず表出されるものがあるわけです。これを徹底的に抑制してゆこうという稽古をMOLECULARはずっとして来たんですね。そういう時には存在の濃度というものを極端に希薄にしていく方法とか、いろんなことを考えてやってた時期がある。

「f/F パラサイト」をやった時に一番考えたことは仮面が持っているある転換、転置された、デペィズマンされた能動性なり——それを見ることにおいていくらでも能動性を喚起する——そういう仮面ではなくて台所用品の漏斗とパネルを被ってみようということだったんですね。それを漏斗状身体、パネル・ド・ボディと呼んだりしてたんですけど(笑)、それをかぶった時に結局、女優陣がかぶったときなんかはまったく一番先に狭視野になりますから、パララックス、視差というのが崩れるわけですから、まだこれだけの距離があるだろうと思ってもガツンとぶつかるとか、距離感がなくなると遠近法が解体されるってことがはっきり判ったんですね。

それと顔面サウナと呼んでますけど(笑)、ものすごく息苦しくてものすごく汗をかくとか、そういう日常の稽古の積み重ねがあるわけで、そういうことの繰り返しの中で、これは仮面じゃないんだからここから見るんだと、つまり両眼のパララックスが消えるわけです。単眼になるわけです。隻眼じゃなくて両目で見るんだけども、その状態で両眼で対象を捉えようとしても絶対見えない。鈍い光がそこから入ってくるだけですね、漏斗の尖端から見える・見えないことがいろんな形ではっきり判ってきた。それからちょっとズレて見える一点がある訳ですよね、通常見慣れているテーブルであれ何であれ、普段見えてるようには見えないんですよ。まず頭の中ではここは壁でここはガラス窓で、ここは黒板だと判ってるんですけど一瞬、ちがう物体に見える、つまり点に見える。しかもそこから移動する時にゆるやかな移動は出来ないんですよ、ボンッボンッという跳躍的な断絶的な動き方をするわけです。これがモレキュラリティのある種の体験なんだなあという、つまり世界なり現実也があるコップを見てゆく時の分子状にしてしまう、細片化・断片化してしまう見方というのも出てきた。

それともう一つ——いくつか漏斗を被ったときの俳優の体感を言ってるわけですが——ちょっと狭い所でやってるものだから、やたらあちこちぶつかって歩く、ブラインドな状態なんですね。ぼくらが言ってる漏斗身体というのは、見るってことに一点集中するということは身体がね、まったく無防備になるってことですよ、ノー・ガードになる。三人くらい漏斗かぶって稽古してると互いにもうぶつかり合って、この位置だと決めてそこから動くなとかやらないかぎり必ずそうなりますね。そのことで私が何を言いたいかというと、身体がお留守になるってことですね、見ることによって。これは現象学的な一つのプロプレマティックにつながるところでもあるんでしょうけれど、見ると言ってもかろうじて見るとか、よく見ないと見えないとかということもあるし、見ることにかなり集中しないといけないってこともありますし、体のことはすっかりお留守になってしまう。

そのうえで無防備な身体ということがまず一つ大きくあって、これが本来的な姿なんじゃないかっていうことで女優たちに訓練しているという、それでなおかつこの無防備な状態のままでいく場合と、じゃあ無防備でなくすにはどうすればいいかっていう、漏斗を頭に装着した時の、顔面に装着した時のフォルムを研究したわけですよ。それはほとんど四つん這のフォルムだった。四つん這になるととにかく無防備は解消される、とりあえず解消される。ここから「f/F パラサイト」のパラジットのフォルムが出来てくるんですね。漏斗の尖端で規制すれば、つまりどこかの一点に寄生すれば、この一点さえ動かなければ、身体の無防備性はある程度、防御できるということですね。もし出来なければ身体をボウフラにしちゃえと、つまり水中に浮遊してるような動きというのも出てきた、つま先を立たせておいて出来るだけ伸び上がって——漏斗を顔面に装着した上でですけど——そういう危うさとか無防備さを逆用した、うまく取り入れたような動きだとか、それから逆に無防備さを解消するための四つん這の虫とか爬虫類的な動きだとか、その漏斗状の身体においていろいろやって来たプロセスがあるんです。

ですからアンフラマンスとかフラットネスだとか、シュブジェクティルにつながってゆくところというのは、私たちにとって自然な成り行きなんですね。決して「絶対演劇」だから突然アンフラマンスを出して来たとか、そういうことじゃなくて、今までやって来たことを再度光を当て直してとかですから。漏斗を被ってこれだけのことが出来るのであれば、漏斗を顔面に装着しなくても出来るんじゃないかというので考えたのが"ヒラメ"というヤツだったんですよ。視線を出来るだけ平たくする立ち方とか、そういう動きとかですね。判りやすく言えば薄目ですけど、つぶるのでもなく見開くのでもなくという、"ヒラメ"で見えてくるか弱いものとか、見えにくいものとか、そういうものを見て行こうという。それはもうアンフラマンスにつながるところですよ。具体的にぼくらのやっていた表現技術的なプロセスを出せば、突然アフラマンスを出して来た訳でないことが判るんでしょうけど、あまりああいう場で言いたくもないし、日常的にやってる中で考えて来ているのであって、言葉だけが先行していると言われると非常に癪なんです(笑)。

——「S/S 秘書たち」で見せたような、あのテンションのあり様の言いようのない独特さとかが、どこから出てくるのか不思議でした。前回のインタヴューで生成の概念そのものをというより、そのへん舞踏もポストモダン系もいかに安易であるか——すくなくても表現技術的・方法論的に——批判されましたが、そうした発言がどういうプロセスのなかで出てきたのかよく判りました。

豊島 その「S/S 秘書たち」で一番最初、サングラスを掛けて女優たちが登場してくるシーンなんかでも、観客には判らないでしょうけど、あの時も〝ヒラメ〟をやってるんです。他の演劇でよくサングラスをかけて出てきますが、ヴィジュアルにすぎないケースがほとんどで、ぼくらが使ってるのはよく見るためなんです。見られるのを防御するためでも視線を隠蔽するためでもなくて、よく観客を見るために使っている。サングラスの向こうでは〝ヒラメ〟をやってるわけです。その〝ヒラメ〟を見せないためにサングラスを掛けている。しかし、サングラスをなぜ掛けるかというと、観客をよく見るためなんです。〝ヒラメ〟になりますと、観客は観客としてみえなくて何かこう別な横軸みたいに見えるんです。ボーッとしたモノとして見える。だけど、それこそがよく見るためのものなんです、決してヴィジュアルとして使ってるわけじゃない。

強度—アンタンシテだとか、そういうのはやるなと言ってるし、だからといってダラダラしてはいけないとも言ってる訳で、やっぱり〝ヒラメ〟の独特のこうボーッとしながら何かスーッと一本抜けているような、そういう独特の色合というのが出てくるんですね。そこがMOLECULARのオリジナリティじゃないのかなあ(笑)、やはりね東京でやられてる大抵の演劇を見てると、リズムと速度と強度でもってやってるみたいな、——頭でそれをいかに否定しようとしても——起承転結がしっかりこうあるという感じでね。

そういう意味でも、シュブジェクティルを何とか考えたいなあと思っています。これがシュブジェクティルだと設定しちゃいけないという気がするんですよね、シュブジェクティルというものがあるとすれば、それをどう裏切るかとか、どういうふうに横切るかとか、シュブジェクティルにフォンタナじゃないけど、こう割線をいれてという感じがしますね。シュブジェクティルはデリダがチラチラ言ってるように決してそれは安住出来るものじゃないと。デリダの線に立った演劇がもし成立したとしてですよ、それでどうのこうのじゃなくてシュブジェクティルにいかに裏切られるかっていう、束の間シュブジェクティルだっていう感じがこうMOLECULARの女優陣にもしあったとしてもね、それはもうたちまち裏切られてゆくというところがやはり残酷の残酷たるところで、残酷というのは別に荒行苦行の世界ではないと思うんですよ(笑)

——時代的な制約で〝基底材〟という発想はなかったにしても、アルトーの影響のものでやられてきた前衛芸術の流れは確かにあったわけで、そうすると寺山修司ほどの才能ですら、なぜあの程度の上演にとどまったんだろうという疑問はありますね。まえに寺山と絡めて荒川修作批判をされましたが、荒川の仕事もまた一種のイメージ批判なわけで——記号論ですからね——つまりブランクというものを作っておいて観客がそこに介入してゆく余地を残しておく。そのうえで何かこう観客を放り出しちゃってるところがある訳です。見るものが芸術作品を創るんだと、タブローを創るのではなくて、タブローが見るものを創るんだという反転の図式で説明されています。むしろ観客の側に委ねるという形でイメージ批判の側面を出しているんじゃないか、そっちのほうを強調してるんだと思うし、臨界点、クリティカル・ポイントが内包されていると思うんです。

豊島 たとえば私は「絶対演劇は演劇に肖ている」と書いた。どうしても〝覗き穴〟を持つものが演劇なんだと言ったら、その覗き穴は一体どういうことなのだろうというという書き方をしている訳です。その時の〝演劇に肖(に)ている〟という時の演劇というのは、覗き穴のことですと、そのコンテクストではそうなるわけですね。だけど、その覗き穴というのはどこまでも付き纏っていてそれは、ヴァーチャル・メディアでも同じですよと、HMPでヘッド・マウンド・ディスプレーを使ったって同じことですよと、つまり肉眼で、裸眼でね、現実を感じ取ってることだって覗き穴じゃないかと、別に裸眼で見ても覗き穴は現われるわけだし。

だから、タブローだけで行われていた意味のメカニズムまでのレヴェルとかね、そういうレヴェルでのイメージ批判というのはよく判るし、それはそれでいいでしょうと。でもそういうことであれば、一杯あったろうなということですよね、ああいうやり方でなくてもイメージ批判は可能なわけだし、特に私なんかは演劇で何とかイメージ批判をやりたいということはありますから。つまりね、ヘタをするとね、束の間の集団催眠とかね、知覚変容体験になっちゃうわけですよ、私にとってそれは逃げなんです。それはもう、タブローの問題じゃなくなってしまうだろうなという。荒川批判でスペクタクル化と言ってるのはそういうことですよ、教育になってしまうってことですよ。だから、教育とか啓蒙とかということに対しては、非常に慎重に喋ってるつもりですけどね、知覚の変容体験をするのであれば、豊島園に行って——豊島演劇でよりも(笑)——豊島園で充分なわけですよ。

荒川は注目すべき作家であることは間違いないですよ、だからこそ言ってるので寺山もまた同様です、だから問題にしてるわけです。空欄だとか矢印だとかはすごくいいアイディアだと思ってますよ。でもあればヘタをすると安易すぎて、このまえアンゼルム・キーファーとか中西夏之とか見たけど、全然安易という感じはしない。確かにアメリカの閉鎖空間で、閉鎖アトリエでやってると、これは面白いと思ってセマンティックスとかセミオティックスとか——マドリン・キンズはその専門家でしょう——そういう方向に行くというのはよく判るけれど、あれはタブローとしては安易だと思う。アルトーの肖像画とか、ヴィトカッツィの肖像画をみてると一見、簡単そうな感じで描かれてるんだけど、安易じゃないですよ、それを一般のひとはかれ独特のタッチだとかマティエールだとか言いながら見たりするかもしれないけど、そうじゃないんですよね、それこそアルトーの場合だとシュジェクティル、顔面においても格闘というものがあって。ところが空欄だとか矢印、こう描いてトゥリーだとか、点打ってコスモスだとかやってるのは、面白いけどそれ一発で終りだと思うんですよ。それをずっとやって行こうとしたら安易だし、幼稚だとしか思えない。やはりタブロー作家として甘いと言われてもしょうがない。今回の「ロクス・パラソルス」は90年の初演をコンセプトとしても、マテリアルとしても一歩進められたのでやはり、作品というのは一度やってまた全部ちがう方角から考え直してみるというのが大事ですね。同じ側面からだけ作品をやっても、いかにそこで全然ちがう入射角を見つけられるか、見つけられないかってことでしょうからね。

——私が上演にとって〝自己限定は力だ〟と書いたのは、上演の形式を問うこと自体もそうですし、例えばMOLECULARの「ロクス・パラソルス」でグリッドのパネルもそう、そういう意味での自己限定・自己規定なんです。自己表出・自己表現批判とは矛盾しない。

豊島 それはよく判ります。これは詩人の瀬尾育生さんが最近書いたものなんですけど、ルール規定力というのがあって、瀬尾さんが——「群衆論」のなかでカネッティのね——、群衆というのは結局ルール規定力だって言うんですよ。それで個体というのも群衆以後の個というのは、いくぶんかやはり群衆性を帯びてるんだっていう、従ってそのルール規定力からは逃れようがないんだと。そういう意味のことを瀬尾さんが書いていて、私はそのルール規定力という概念を非常に重く考えたいと思うんです。瀬尾さんが言ってる以上に私には過剰にインパクトがあった。ルール規定力は私のなかでアルトーのシュブジェクティルに通脈するような、そういう力を持ってる気がする。

グリッドが一面ではダメだと、ルール規定力にならない、だからこれでは二面使って、この間でタブローの反復が行われなければいい。その反復というのは必ず2面ある以上は、二度行われるわけで、それが掛ける6回行われるというのは、それはある種の恣意性で、そのある種の恣意性というのは劇場の箱が6面あるからだとか、そういう言い方になる。それは詐欺だっていうことになるかも知れないけれども(笑)、6回じゃなくてもいいのではないかと言われれば、ハイそうですよ、ということになるかもしれない(笑)。まあ、何かと何かレファランスを持たせて〝掛ける6〟にしてある。だけでも実際、2面でタブローが取り外されて向うに嵌められて、再度外されてもう一度それが前に入れ戻されるという、二度行われるっていことがグリッドが2面ある意味なわけです。これがルール規定力だと。

これでだいたい群衆の問題と個体の問題というのは済んでしまうとかね、瀬尾さんが過ネッティからいま、事あらためて何か新しく取りだそう、あるいは再解読してみようと思ってるのは、冷戦以後、「湾岸」以後どうするっていうテーマがあると思いますけどね。つまりすべての言葉がインパクトを失ったと、その時に何が言えるかっていう議論がかれのなかにあるから、つまり収容所は終わったと、それはある意味では収容所が世界規模になったという言い方にもなるわけですよ。そうするとかつてのカネッティ的な群衆、あるいはベンヤミン的なパッサージュにおける群衆とか、そういうものを再度考え直すというふうに、瀬尾さんの射程はそうだと思う。クラカウアーの言ってるレヴュー・ダンスの例でも判るように、だからこういうルール規定力というのが、群衆を群衆たらしめている生命線だということをそこから持ち出してきてるんですね。

でも、そういうことを抜きにしてもルール規定力という言葉は、私は生き生きとした概念だと思いますけどね。だから数とか平面の規定力のことを私が書いて、そのあとで瀬尾さんのルール規定力のことを読んだものだから、すこしそっちでつながったというか、多少自信を持ったという感じなんですけどね。こっちは削ぎ落さないから、コロックでも文章でもそうだけど(笑)、ところが純粋演劇とかミニマリズム演劇、ミニマルにしてゆくというのは余程必然性がないとやっても意味がないと私は思ったんですね。そのことによほど不可避性を持ってるひとでないと眼のあてられない結果になる。ルール規定力ということで「絶対演劇」を考えるならば、平面の問題だとか数の問題とか、切断の問題だとかをやればいいだろうと。上演ですから、上演と実生活は一緒である必要はないわけですから。実生活における自己限定とね、作品における自己限定がイコールである必然性はどこにもないという感じがしますね。

(初出:「ダンスと批評 et」no.8「特集 絶対演劇」/1992年9月20日発行)

採録者註

上記テクストは、まだ、筆者から採録/再掲の承諾を得ていないものです。もし何か問題等がありましたら、採録者までご連絡をお願いします。