仮定法は「真理」に対する闘争である。

仮定法は「真理」に対する闘争である。

If I were 私が複数過去であるならば——ソレハ異法=違法ト看做サレル。

花田喜隆(ICANOFアートディレクター)

(1)

去る10月6日、青森県立美術館ギャラリーにて、モレキュラーシアターによる公演『Ballet Biomechanica(バレエ・ビオメハニカ)』を観た。八戸市美術館にて上演された『イスミアン・ラプソディ』四部作(9月14・15・23日)に連なる本作品の寸評とともに、11月3〜4日に控えたモレキュラー沖縄公演『DECOY/囮』の紹介ともできれば幸いである。

(2)

『ビオメハニカ(ロシア語で生=機械)』では、床に据えたプロジェクターの光が、白亜のギャラリーに白い矩形を形づくる。「白の上の白」(マレーヴィチ)というべきか。だが照らす光がなければ壁の白はなく、白壁がなくば光の白はない。この共謀をセルフ・ホワイト=自白の構造と呼ぼう。そこに手持ちのプロジェクターから発せられる光が同形・同寸で重なり、白の上の白=ホワイト・オン・ホワイト(W on W)をなす。

(3)

W on Wが、Wそれ自体ではなく、あくまでW on Wであるのは、そこにW off Wが孕まれるためだ。具体的には手持ちに因るフレームのぶれ、謂わばブレーム。その内側に一人のダンサーの身体が浮かび上がり、光を受け、遮り、錯綜した二重の影を落とし、あるいは光を蝕(は)え尽くす。引き裂かれ投げ込まれたメイエルホリドから残ったものが聴こえる。ジュネが聴こえる。ブレームに枠取られたダンサーの身体部位のすべてが目撃に供されるとき、死んでいるのでも生きているのでもないような身体がそこに生産される。

(4)

彼女の有機的器官がなおも連なるブレームの外には、異法=違法な者たちが、すなわち別の彼女たちが、ダンスを目撃(ウィットネス)し、次なるダンスを証言(ウィットネス)すべく控えている。ウィットネス・オン・ウィットネス=もう一つのW on W。人は無論、目撃したことを証言できるとは限らず、また見たままを証言するとも限らない(W off W)。プロジェクターの持ち手=ブレーマーもほどなく証言の場へと召還されることになろう。

(5)

「真理となりうる発言は、共通の言説のなかに統合されうる発言である」(リンギス)。すべてを剥奪されるとともに衆人環視の下におかれる極限状態を「収容所」というなら、これほどはない収容所状態。W on Wに曝される身体の「生」のメカニズム、W off Wに切り出される諸器官、複数過去の彼女たちをおいて他に、ステージ上に見るべきものは何ひとつ存在しない。

(6)

囮。人と死者を背中合わせに、誘惑し、おびき寄せる偽の鳥DECOY=デコイはまた、鳥を枠取るde kooi(オランダ語で檻)でもある。八戸のW on Wが、War on Warの地・沖縄、Words off Wordsの地・沖縄に赴くとき、それは何を「囮=おとり」するのだろう。

(初出:「月刊はちのへ情報Amuse」N0.463/2007年11月)