電子リアリティについて(粉川哲夫)

電子リアリティについて

粉川哲夫

  “劇的なるもの”が憑依する肉体である時代があった。また、“劇的なるもの”がウソっぽいものである時代もあった。が、いまやそれらは、いずれもジョーク以上のリアリティをもたない。

  感覚とは病である。それは、支配的な可能性をもつものに感染し、時代的なリアリティをつくってしまう。“劇的なるもの”とは、所詮、そうした時代的リアリティを発生機の状態で与えるものにすぎない。

  マイロン・W・クリューガーが「人工的リアリティ」という概念を思い(*1)ついたのは1970年代だったが、この「アーティフィッシャル・リアリティ」は、もはや「人工的」という意味をほとんど含んでいないくらい全般するだろう。もともと、「アーティフィッシャル・リアリティ」とは、「アーティフィッシャル・フラワー」(造花)のような“自然”を模倣した人工物という意味(*2)ではなく、技術的なリアリティという意味に解すべきものだった。しかもその技術は、電子的な技術すなわちエレクトロニック・テクノロジーであり、電子テクノロジーによって構成されたリアリティが「アーティフィッシャル・リアリティ」なのである。

  クリューガーは、「アーティフィッシャル・リアリティ」(1983年)のなかで、このリアリティの具体例をいくつもあげている。その1つは、「ヴィデオ・プレイス」と呼ばれるが、これは彼が1970年に行った実験で偶然思いついたものだ。そのとき彼は、ギャラリーと大学のコンピューター・センターとを結んで「メタプレイ」というデジタル・コミュニケィションの実験を行っていた。はじめ彼と同僚とは、コンピューター・ディスプレイに映る波形を読みとり、それを電話でコミュニケートするパフォーマンスをやっていた。しかし、電話ではうまくコミュニケートができなかったので、おたがいの場所にヴィデオ・カメラを置き、ディスプレイを指さす映像を相方で見ることができるようにして実験を続けたとき、意外(*3)なことが起こった。

  そのヴィデオ映像は、ギャラリーからの映像と大学のコンピューター・センターからとのものとを合成しており、1つの画面に相方のディスプレイとそれを指さす手が映る。そのため、ヴィデオ・スクリーンだけ見ると、コンピューター・ディスプレイ上の波形映像をはさんで2人の人間が指さしながら議論しているように見える。

  意外(*3)な出来事は、この映像のなかで、2人の手と手がたまたま触れあったときに起こった。その瞬間、どちらも、無意識に自分の手を引っこめたのである。それは、ちょうどテーブルのうえに紙を拡げて話をしていて、たまたま相手の手に触れてしまったときのような反応だった。

  生身の手は決して触れあってはいないのに、なぜこのようなことが起こるのか?クリューガーは、これを「ヴィデオ・タッチ」と呼び、ここからヴィデオ装置を使ったセックスの可能性をも引き出すのだが、これを単に幻覚や幻想とみなすのは誤りだろう。すでにわれわれは、「幻影肢」という現象を知っている。これは、事故で腕を失ったようなとき、(傷が完治)したあとでも、失われた腕の部分がかゆくなったり、痛んだりする現象である。

  メルロ=ポンティは、ここから、身体性の本質性格を引き出した。「幻影肢」は、その名称とはうらはらに、身体の現実をあらわにしているのである。つまり、身体とは、皮膚に包まれた肉の塊(*4)ではないのであり、むしろそれは、気体や電磁場のように流動的な<場>なのである。従って、それは、肉眼で見える部分(オブジェ)だけにとどまるものではなく、肉眼では見えない部分を含んでおり、条件次第では、狭義の“肉体”から溶け出したり、気化したり、転移したりするのである。

これまで、こうした身体性の転移の技術は、有機的細胞の独裁下にあった。肉と肉とのふれあい、微生物やビールスの媒介によって身体性は“肉体”という閉回路を抜け出して世界に広がる。実際に、ペストは、個々の“肉体”から脱して、ヨーロッパ全土をおおったし、AIDSもまた、身体性の転移の一形態である。

  「アーティフィッシャル・リアリティ」とは、“オーガニック・リアリティ”(有機的リアリティ)に対するものがあり、電子テクノロジーが有機細胞の転移機能に対して優位に立つということを含意している。が、はたしてそのようなことが可能なのか?

テレビのメロドラマを見て泣くことは、インフルエンザのビールスに感染してカゼをひくのに等しい。それらは、いずれも身体性の転移の初歩的形態である。事故死した者の遺族が泣く姿をテレビで見て涙する場合で言えば、最初に泣く者と、それに“感染”する者とのあいだに同じ文化コードが生成していなければこの転移は起きえない。日本には、悲しいときや失敗したときに笑うという文化があるが、これは、インド・ヨーロッパ語的文化圏では異質であり、そうした文化圏に属する身体とはシンクロナイズしにくい。ビールスの場合も同様だ。同じビールスが必ず同じ病気を起こさせるわけではない。インドで同じ水を飲んでも、現地人は平気なのに、訪問者は下痢をする。身体のコードがちがうからであり、そのコードを得るには慣れが必要だ。病気の感染とは、病に外部から襲われることであるよりも、同時性やシンクロニゼイションの問題である。

  しかし、重要なことは、メロドラマやカゼのレベルの問題である。地球上をメロドラマのテレビ映像で満たすことはできる。すでに地球全体がメロドラマ的な単一の身体生地でおおわれている。それは、ペストやAIDSのビールスを全世界にまきちらす程度のことでしかない。これは、断じて“劇“ではない。“劇的なるもの”は、量的なものではなく、質的なものだ。身体性の転移が問題であるとしても、その分子的な、ミクロな単位が転移すること——それを電子テクノロジーは、“肉体”やビールスよりもどの程度多様に行うことができるのかということが問題だ。

  電子映像や電子音のなかに身体的なものを読む電子実験、電子テクノロジーの産物と“肉体”とを混ぜあわせる実験、電子テクノロジーだけで身体性を構成してしまう実験・・・・・・がくりかえされるなかで、身体性概念は、たとえば現象学が理論的に指摘していたその限界をはるかに越えて、現在とは相当ちがったものになっていくだろう。演劇もパフォーマンスも、いままさに、そうした転換期にかかわっている。

*1 原文では「重いついた」

*2 原文では「いみ」

*3 原文では「以外」

*4 原文では「魂(たましい)」

(初出「Theater Book Yellow Vol.001」/1985.11.28)