シンポジウム「パフォーマンスの展開」における豊島重之氏の発言記録

採録者註:本来シンポジウムにおける発言は、当然ながら前後の他のパネラー等の発言すべてを収録し流れを追って読むべきだが、ここでは敢えて暫定的に、豊島重之氏の発言部分だけをまず採録した。元文自体に、テープ起こし上の誤りと思われる箇所が散見されるが、ここではそのまま採録している。

パフォーマンス・フェスティバル・イン・檜枝岐

シンポジウムIII「パフォーマンスの展開」

豊島重之氏(パネラー)の発言記録

(1)

豊島です。

昨年の夏、東北演劇祭っていう催し物を私等が表現の場にしている、青森県の八戸市というところで行ったわけですが、その時のメインテーマといいますか、メッセージセッターとしての私の当時心を捉えていた問題っていうのは場所の問題だったんですね。で、その場所の問題っていうのは例えば、演劇なりパフォーマティブな存立する場所ということとその場所としての、劇・場所としてのパフォーマティブということがどういう反転、あるいは関連を持つのかということだったんですね。で、そういうことから今年の檜枝岐まで私の中ではひと繋がりのものとして連んでいるわけですがそういう事から考えると、今、昨年、場所の問題っていうのは、おそらく、今年の檜枝岐では脱場所という形で展開されると思うわけです。つまり昨日、今日といろんな方がいろんな風におっしゃってまして、いろんな言説が飛びかって、いろんなふうに言われて、あるいは、今、西堂さんがおっしゃられたように規定の不可能性みたいなこと、あるいは表現の不可能性です。あるいは身体意識のといってもいいわけですが、その不可能性という言い方の中でパフォーマティブが何かぼんやりと像を結んできているということにからめてみますと、これはもうパフォーマティブというのをそんな難かしく考える必要がないわけではっきりしていると思うんです。一つはパフォーマティブとは脱パフォーマティブなんだということなんですよ。つまり、パフォーマティブというのは常にデコンストラクトしていくものとしてあるわけです。つまりこれは定義としては、規定としては、完全に自己原形的でありパラドキシカルなんですね。全くこれは言説として、あるいは言葉としてだけ可能だとそういう意味でパフォーマティブとは全て、絶えず、脱パフォーマティブであるものだと、それ以外のものは、パフォーマティブとはよばないと、こういうふうに簡単に考えればそこに身体の問題とか、メディアの問題とか、全て表現の問題とか入り込んでくるわけです。つまり、パフォーマティブとは脱パフォーマティブだというふうな言い方がなされた時にはっきりしてくるのは、つまり、各々のメディアなり各々の表現領域、表現形式というのがありますね。例えば美術でも舞踊でも何でもいいわけですが、演劇でもいいわけですが、そういうものがある水位まできますと、もうこれはどうしようもなく、そこから不可視的に飛びこえなければならないところまでくるわけです。また満ちてくるわけですな。で、水位が超えられた瞬間、それがパフォーマティブなんだければ、それは、その表現の制度とか表現の枠組みパラダイムからずれてしまうことなんですね。これは、これで、大体が全て一つだということだと思うんです。じゃあ方法的にはどうかということなると、これは、初回に粉川さんがちらりとおっしゃったことなんですが、器官なき身体とか絲の問題というふうにいいましたけれど、パフォーマティブには逐語的とかいうようなニュアンスも込められているわけです。というところにパフォーマティブの方法意識というのがあるのではないか、つまり、パフォーマティブというのは、いってみれば、綱渡りみたいに点を成さないで常に絲化していくものなんです。点を成さないで、つまり固定的な、まあ点を成さないで、常に表層を立って横断していく。

私なんかの言い方で言えばパフォーマティブと呼ばないで私らの作業営為をトランスファーということがありますけれどそういうニュアンスなんですね。それは絲ということであったり、できるだけ器官なき身体というのは不可能かどうかわかりませんが、ほとんど不可能かと思うんですが、器官なき身体に近づけていくという形で、自分の身体を滑走横断させていくという言い方なんですね。それはパフォーマティブという意味もあるわけです。従って、矛盾なんですが、パフォーマーとしては絶えず脱パフォーマティブであるというふうなことがいわれると思うんです。で、私のほうから二つ問題を提起して話しを閉じたいと思うんですが、一つは今言ったことと関連することなんですが、表現っていうのは、本当に在りうるんだろうかということが一つですね。つまり、パフォーマティブというのは俗に表現様式についてはどういうふうに考えられるのかと、まあ様式が無化されていく、脱様式化されていく、そういう形でパフォーマティブというのは出てくるわけですね。で、それは勿論、ある表現の領域、つまり表現の形式だけの問題じゃなくて、ある作家の自己史がある水位まで来た時にそこからパッとこう反転してしまう、つまり表現をしなくなる、不可視的に持つ必要がなくなってしまう、例えばある知識人が、例えばユーギョーソウとか、何もやらない日常時に、パッとこうそのままの状態で戻ってしまう、戻ってしまうといいますか、そういう状態になってしまう、で、脱水をしてしまうといいますか、そのまま同じ状態で全然違うような形になってしまう、だから形式の問題というのを今日お話しされるといいんじゃないかということが一つあります。それからもう一つは、パフォーマティブをとは何かとか、みんなそういうことがいわれているわけですが、それはやっぱ一種の文化なんじゃないかと。文化化しようとしている営みなんだということが一つあると思うんです。だから先程もいったように、パフォーマティブを文化というふうに捉えない場合、何かこうシンポジウムI・IIをきいていますと、なにかこう反文化とか、そういうふうな感じ方も一方ではあるし、一方ではなにかその一つの多事性としての表現メディアをそれに対して命名しているというふうにも受け取れるわけですね。そのへんを確実にはっきりした方がいいんじゃないか、つまり、パフォーマティブを文化と呼んじゃうのか、それとも、そうじゃないものだというふうに呼ぶべきものなのか、例えばその辺に関しては池田一さんあたりからもう少しつきつめて話を聞きたいというかんじはありますね。だから、問題提起としては、つまりこちらの提起としては文化ということと形式というところを論旨を絞ってみたらどうだろうかと、いうことがあります。一応、私の最初の話をこれで・・・。

(2)

ここ二日間観ていて、例えばいろんな営為があったわけですけど、それをパフォーマティブとよんでもかまわないわけだけれども、それを、先程私が言ったようにもしパフォーマティブとは絶えず脱パフォーマティブなんだというような規定とか発想に立ちますと、これ—即、パフォーマティブとは呼べないという考え方も一方ではあると思うんですね。つまり、例えば、美術との類縁性とかいろいろな話が出て来ましたけれど、つまりはそれは美術の枠組みの中で全て捉えられると演劇の枠組みとか、舞踏の枠組みとか、まぁ、そういうふうにいえると思うんです。だから、もし、本質的な形であるいは、これはあるアイデンティティを求めなければならないという人は、それはそれなりに規定すればいいんだろうし、そういうことに関しては、第一回めの時なんかに浜田さんとか、池田さんがおっしゃってたわけですけども、それはまあ聞いていて、それはなる程そうなんだけども、そういう規定っていうのは、当然美術なり演劇のパラダイムの中でいわれるわけなんですね。従ってそのパラダイム自体をどう・・・そのパラダイムの水位がどうしても上がってきて、それを飛び超えた瞬間にパラダイムがパカーンとこわれてしまう、そういう状態にならなければパフォーマティブとは呼べないんじゃないかという発想からいけば、つまり、パフォーマティブという言葉を必要とする、それを命名したり、なんかしたりする必要はないっていうことがあると思うんです。その事に関連して、例えば皆さんはどう思ったか聞いてみたいですね。だから身体にしろ、ビデオあるいはメディア的な身体、そういうのをどんどん持ち込んだとしても、それは物語りっていうのが全部はりついて見えるんですね。池田さんがこう、やっているのでも、やっぱり形式っていうのが見えるしね、それから、そうすると、私の言い方からすると、どこにもパフォーマ(ン*)ティブっていうのは存在しない、そうするとそれは一体どういうことかということになるわけですね。それは一番最初に言ったような各々がフィルドハレーシカルな状態ということを考えたときにしか、そのパフォーマティブというのは在り得ないだろうと。

* テープ起こし時の誤植か

(初出「肉体言語」Vol.12/1985)

(なお、上記シンポジウムが開催されたのは、前年1984年の第1回「パフォーマンス・フェスティバル・イン・檜枝岐」においてである)