脱身体考

脱身体考

豊島重之

どうして驚かぬのだろう、“感覚とは病いである”という専断的な痛撃を前にして。

どうして慄かぬのだろう、“憑依の演劇の無効性”が今はじめて、それも根底的に言明されているというのに。

ひとつの感覚でさえ、健常に機能することもあれば規範を逸脱して機能することもあるが、後者こそが現在的なモメントなのだ、などと述べられているのではないし、病いとは相対的なものであり、従って感覚もまた相対的なものでしかなく、あまつさえ、この相対性という病いから誰も免れるわけにはいかない、と語られているのでもない。また、諸感覚は内化されるや否や、私有共有にかかわらず変質を蒙り、あるいは平準化され、やがては抑圧的に作動するようになるものだ、などと弁じているのでもなければ、ましてや、この電子管制下にあって、たえず更新される諸感覚のネットワークに律儀に照応して、疾病の分類体系=タクソノミィ=タクシダミィ=剥製術化もまた加速される一方だ、と悲観視しているわけでも、悲観視を鎧った楽観視がそこに露呈しているわけでも勿論ない。

つい先日、土方巽追悼の一文を東北6県向けの新聞に書き送ったばかりだが、憑依の演劇の典型といえば、他ならぬ暗黒舞踏であろう。それは、遠くはディオニュソス劇やバロン劇やマダン劇から近くは、下北の能舞や口寄せ・八戸の神楽や朳*1や反舞=へんばい、そして世界中に偏在するポトラッチ=蕩尽祭やマス・ヒステリア=群憑や種々のリチュアルに通脈する系譜の、現代的な顕現である以上、近年、国際的なムーブメントとなったのはむべなるかなではあるが、その出自から態様から何から日本の60年代アート・シーンに固有の文化的所産であることを忘れるわけにはいくまい。寺山修司や太宰治が、そしてわが宮沢賢治さえもがそうであったように、土方巽にとって東北の前近代もまるっきり関係なかった。ひょっとした弾みに訪れる東北の生理は、方便としての斥力をもたらしたにすぎまい。舞踏する肉体が憑依したものは、東北でも前近代でもそれこそ集合的無意識でもなく、ただに擬古典的ロマニズム*2と状況論的メタフォリズムであり、さらには、あくまで60年代的リチュアリティ=儀式性、もっと正確に言うと儀式制=リチュアリズムもしくはリトクラシィ、に布置=縁どられた60年代的ポストモダニズムなのであった。寺山・太宰・宮沢もこのことと無縁ではない。三島由紀夫が土方の先駆性を看取したのもここにおいてであり、さらに言えば、自らの“憑依の演劇”を身をもって失効させたのも、当の三島であった。はっきり言えば、身をもってしか失効させられなかったのだ。三島もそうだが、まるで地吹雪か奔馬さながら荒らぎ果てた東北人の4つのアララギ=墳墓には、“感覚とは病いのことだ”というアララギ=塔のような認識と“憑依の演劇はのりこえられるか”といったアララギ=焼き場のごときプロブレマテークとが、同根異根、分かちがたく繁茂している。

本誌前号に粉川哲夫氏が「電子的リアリティについて」と題して書かれた一文を私は問題にしている。正直言って、その書き出しに思わず立ちすくんでしまった。のみならず、もはや粉川氏のコンテキストを離れて、その読み出しだけが独り歩きを始めてしまったようだ。はたして、憑依しない身体による演劇は可能なのだろうか。ぜんたい、演劇する身体が憑依したためしはあったろうか。そもそも憑依とは何なのだ。粉川氏がタクティカル=戦略的に並置し、タクチュアル=触覚的に筆致している“ウソっぽさ”“感覚”“感染”や“発生機”のことなのか。ひっきょう憑依とは、模倣・擬態や引用・参照・交換・契約、もしくは演技・反演技のことだというのか。もしそうなら、憑依でないものなどこの世にあるはずもないことになる。すべてが憑依だとすれば、憑依などどこにもないことになってしまう。さしずめ、わが精神病者たちはすべからく詐病=シミュレーションであり、治療もなべて偽薬=プラセボであり、知らぬは世間様ばかり、そこまで言わなくとも、巧妙きわまる芸達者な俳優か、さもなくば有能きわまる謹厳実直な筆耕ということになろう。家族や隣人や医師といった身近な観客に満足するどころか、どんな観客に対してもその非観客性を暴いてやまず、絶対的な観客、純粋観客を索めて、再現もなく演技しつづける真に求道的な俳優。任意の隣人の戸籍や履歴、嗜癖や運勢どころか、その体表や臓器、骨相や無意識の布置=タクシスに至るまで細大漏らさず書き写し、あげきは写しの写し、そのまた写しにタクトフル=如才なく取り組むパラタキシック=偏布置的な筆耕。

ここに少なくとも、自己や原本に対するどんな関心も信仰もない。いくぶんかそれがある人からみれば、強迫的に、あるいは対他的に偏向過剰と映るだけだ。しかし、感覚とはひっきょう他性の感覚である。演ずるにせよ書き写すにせよ、一瞬毎にこちら側が抹消され、そのつど向こう側にもっていかれてしまう感覚。喋ることがまさにそうではないか。感覚とはこの一瞬の他者感、つまりは憑依感のことなのだ。勿論、他者感と他者とは違う。他者とは、他者感の内化が、即ちこちら側への揺り戻しが、向こう側に虚構した映像のことなのだ。同様に、多数多様な他者感の厖大な集積がこちら側に虚構したものを、私達は身体と称んでいる。身体とは、だから身体像のことである。こうした身体感覚=コーポラリティは、存在感覚=オンタリティでも現実感覚=アクチュアリティでも何でもいいが、きわめてどころか完璧に私的な映像であり、徹頭徹尾、恣意的な幻燈なのであるから、必要以上に身体を意識したり、感覚に囚われることはないのだ。どだい、向こう側は勿論こちら側とかな内化とは方便なのであって、厖大も集積も多数多様体も実体としてあるのではなく、あくまで任意の、それもとりたてて言うほどのこともない一片の感覚が、それこそ紛れもない実体なのだが、投影した時空という仮象に他ならない。身体の細部が身体をつくり、感覚の端末が感覚を織り成すのであって、その逆ではない、という方便も成り立つであろう。念のため断っておくが、私は実体主義者でも実在論者でもない代わりに、虚無主義者でも観念論者でもない。信じるも信じないも、映像といい、虚構・仮象・方便といい、それらが綾成す世界が不可避であると感じているだけだ。かの俳優や筆耕は、このことをよく知っている。見果てぬ純粋観客を苦役=タスクのように探す深刻な素振りは、いかにも唯一の留め金=タックが暗黙裡=タシットに要請する布置=タクシスに隷属するかにみえてその実、他者も布置も純粋も不純もなんら信じちゃいないのだし、また、某氏の壮大な博物誌つまりすべて他者の言辞による人体地勢誌づくりに明け暮れる熱に浮かされた態は、みごとに他者もその全貌も比較一覧さえ眼中にないことを明示してやまない。彼等の不幸は、参照すべき自己や原本、布置や全貌を無視したことにあるのではなく、その演技がひたすら他者の非他社性を暴くことのみに向けられ、筆耕の記述がきまって記述することの外延性にのみ終始してしまうことにある。この外延性とは、決して記述することの不全性とか未然性、ましてや決定不能性といった代物ではなく、文字通り即記性というか、異物としての記述に即応する意味で即異性というか、とにかくリテラリティのことである。けれどこのリテラリズムの不幸もまた、不可避であると言わざるをえない。恣意性に耐えられぬのなら、こうした被異性を選んでしまうのも私達の趨勢である。さもなくば、又ぞろリチュアリズムやメタフォリズムにしうねく布置づけられたアクチュアリティをしうなく探求するよりなく、相も変わらぬ発生機=ナッセント・モメント=ナッシング・モメントへと全円的に螺集する無限の遠近法を固有に戯れてみせるしかあるまい。

紙数が尽きた。粉川氏の言う“感覚とは病いである”が感染したであろうか。その上で私の言うタクチュアリティ=触感覚・リテラリティ=即感覚が、「モル・シアター」におけるモレキュラリティ=分子感覚・アティキュラリティ=接合感覚に脈動するであろうか。近々、私も観ることになろうヤン・ファーブルの演劇は、ヴィデオの限り、ハイパー・リチュアリズムとヒポ・メタフォリズム(このヒポは、王やイコンや兵営の隠喩をそう過剰に評価するまでもないという含意である)の濃厚な作品と受けとられそうだが、私ならそこに徹頭徹尾、リテラリズムの諸属性や諸限界のみを見据える気でいる。

この一文は、続稿「憑依論—自己空位化と自己差異化」「体感論—器官と寄生虫」「消息論—映像と音楽」の序奏=助走にあたるものである。粉川氏が投げかけた“憑依の演劇の無効性”については、何度も多相的に捉え直さなくてはなるまい。

*1 えんぶり。木偏に漢数字の八

*2 原文では「ロマニズ」

(初出「THEATER BOOK BROWN」1985)