吉増剛造ほか共著『飢餓の木2010』書評

モレキュラーシアター《のりしろ nori-shiro》公演は、吉増剛造氏による新作映画や手描きスクリプト(蟲メモ)作品などを網羅した2010年9月ICANOF《Kwigua》展や、10月以文社より全国発売された『飢餓の木2010』刊行を架橋するものと位置づけられている。60〜70年代に「飢餓の詩人」として孤塁の思想を掘削した黒田喜夫の詩篇・断章に基づく演劇作品「のりしろ」はもとより、2011年1月15日19時20分から「座・高円寺 1」でソワレ終演後、併催されるポストトークに共著者たる吉増剛造・鵜飼哲氏らが同席されるのは、そのことを明示している。であるなら公演・ポストトークを真近に控えて、いま緊急に必要なことは本書の紹介であろう。その書評を詩人谷合吉重氏にお願いする機会に恵まれた。谷合氏は思潮社から第一詩集『難波田』を出版されたばかり。先日、私のもとにも恵贈され、そのお返しに本書を谷合氏のもとへ謹呈したら、すぐさま彼から本書収録の「吉増対話」や「鵜飼・鴻英良氏による討議」に魅了された旨のお葉書をいただいた。数年前から詩誌『スーハ!』を愛読していた私にとって、谷合氏はフロイトやラカンや三木成夫の鋭い読み手でもあり、おそらく同世代かとも思われる。(—— だから、東北沢から下北沢への通路(ルビ=パサージュ)をもう/忘れてしまったといっても怒らないでくれ  —— 谷合吉重『こういう書き方を、君はきらうはずだが』) それに加えて谷合氏による書評には、ラカンの「逆さまの花瓶のシェーマ」への論及もあって、あたかも、まだ上演されてもいない「のりしろ」の舞台評ともなっている。いち早く見抜かれているかのようだ。慄然とさせられるばかりである。(豊島重之)

吉増剛造ほか共著『飢餓の木2010』書評

谷合吉重 TANIAI Yoshishige(詩人・詩集『難波田』思潮社最新刊・詩誌『スーハ!』同人)

詩人黒田喜夫の飢餓論を中心に、「飽食の二十世紀末のあとに到来した新たなる飢餓」(同書編集後記)を主題にした圧倒的な内容のこの書について、何事かを私が記すには、まず編者の豊島重之氏との出会いから始めなければならない。2010年12月の初旬に詩誌『スーハ!』同人の佐藤恵を通じて、私は次のような豊島氏からのメールを頂いた。

〈はじめまして。八戸に生まれ、今もそこに暮らしている豊島重之です。八戸郊外の小さな民間病院に精神科医として勤めて、それをナリワイとしています。「ひとの話をひたすら聴くこと」が仕事です。でもきっとそれでは身がもたない。本当に聴けているかどうかもすこぶる怪しい。それで演劇をやったり、「飢餓の木」を編纂したり。本当のところ「何もせずに済めば」どんなにいいか思わないではないのですが。そこへ、――谷合さんからのお葉書をいただき、「あぁ、聴いてくれる方がここにいらした」。〉

こんな無防備で繊細な言葉を、初めての人からかけられて感激しない人間なんてあり得るだろうか。その瞬間、私の転移は始まっていたのだ。その場でこの本の書評を依頼されて、身のほど知らずに私はOKを出していた。

本書は「飢餓の思考」の来歴の元となった論考『黒田喜夫の動物誌』の著者鵜飼哲氏と、スリリングな応酬をする詩人吉増剛造氏を主軸として、絵画・写真・映画・対話・パフォーマンスを配し、異様な強度をもって読む者に迫ってくる。例えば江澤健一郎氏は、バタイユの「世界はなにものにも似ていず不定形にほかならない、と断言することは、世界はなにか蜘蛛や唾のようなもの」(同氏訳)という言葉を引用し、豊島弘尚(とよしまひろなお)氏の絵画『オーディンと父の寄港地』の顔貌に「臨界の裂け目」を見出す。そこに露わになるのは「分子状(モレキュラー)の身体」であり、この〈モレキュラー身体〉こそ、未踏の2010年代の異貌を探る手掛かりとなるであろうと、編者等はいっているように思える。

「なによりも本書の特色は、吉増作品とその関連テクストを右開きタテ組みでスタートさせ、豊島(とよしま)作品とその関連テクストを左開きヨコ組みでスタートさせ、その出会い頭に三つの鵜飼講演を配することにある」という豊島(としま)氏の編集後記(この後記は本の裂け目である中央にあるのだ)の通り、〈不定形〉こそ本書の魅力なのだ。

また、松本潤一郎氏による黒田喜夫論、とりわけ黒田の親族二名の自死に触れて「或る水準の消えようとして消えない自然と観念の顛倒の渦に文字通り逆さになって身を投げ」という引用に、私はラカンの〈逆さまの花瓶〉のシェーマを思い出してしまう。箱に隠された倒立した花瓶を、凹面鏡を介して正立している実像として見るという実験で、花瓶は自我になぞらえられている。内界と外界の分裂。私達は本当は、あの逆さまの花瓶のように倒立したまま生きているのではないだろうかと。

http://fr.wikipedia.org/wiki/Fichier:Mirror_phase_Lacan.svg

自我を持たない主体というあり得ない設定に向かってなのか、メイエルホリドの最期に迫り、ベケットの〈アパルトヘイトへの言及〉を探り、ドゥルーズの〈消尽〉を視野に、ジュネの〈犬と狼の間〉に危険な戦場を見つめるというように、登場する者達がみな未踏の領野に立つべく語り続ける。その剰余に読む者も又、耐えなければならない。