演劇ここになき灰——モレキュラーシアターの二〇年

演劇ここになき灰——モレキュラーシアターの二〇年

豊島重之

1 写真と演劇/写真の演劇

私達は写真を見る時、写真の何を見ているのだろう。その写真を撮った人間の視覚を見ているのか。それともカメラの視覚を見ているのか。写真を見る時「写真を見ている」という同語反復は成立する。その同語反復の裂け目に分け入って「写真の視覚を見ている」と言うことは可能だろうか。人間の視覚は盲点=BLOTSをもっていて、その盲点がなければ現実を明視できない。(というより単に明視を問えないと言うべきか。)写真の視覚もまた、画像の盲点を明滅=BLINKSさせている、としよう。BLOTSがBLINKSする写真平面を盲面=BLANKSとよぶことができるとすれば、可視性のシステム=制度に他ならぬ写真において、盲点に支えられてきた人間の思考の盲点=SCOTOMAが明らかになる。全盲の写真家バフチャルの写真を参照すべきだろうか。それともデリダやバタイユに促されて、盲者「を」描く位相と盲者「が」描く位相の絶えざる反照=SCOTOMATIZED MOMENTを、写真の盲面とみなすほうが早道だろうか。

写真の思考は心ならずも死と共棲させられてきた。写真は死の表象であり、表象の死であった。ならばその一歩手前、仮死・臨死・未死・不死・非死をこそ思考すべきではないか。端的に言えば「老い」。老いは時系列上、死と連接してはいないし、本来、死と無関係な概念である。ところが、死を「組み込まれ=プログラムされた/企てられ=プロジェクトされた」老いがここにある。生まれた途端に老いている/老いたまま生まれてきた/全速力で老化する生。八〇〇万人に一人と言われる奇病中の奇病「PROGERIA/プロジェリア=早老症」。写真/演劇の問題を死の思考の一歩手前で、プロジェリアの思考に転移できるなら、異様な強度に満ちた不定形=アンフォルムの写真/演劇体験をもたらすかもしれない。これがモレキュラーシアターの現在地である。

2 手紙と写真/手と紙の演劇

一九六八〜七一年、私は大学病院の一角にあった廃屋に一人こもって写真をつくっていた。学生達に占拠されバリケードで封鎖された大学講堂にいつ機動隊が突入してもおかしくはない騒乱の日々だった。当時まだ解体されずに放置されていた埃りまみれの暗室には、捨て場に困った使い古しの医療用実験器具の残骸が山と積まれていた。私は水の出る蛇口の近辺に僅かな空域を設け、投光器を高めにセットして垂直距離を確保し、そこに大型バット=液槽とロール感光紙を持ち込んだ。やがて手と紙の間の水深に、束の間の微光と塵埃が浮き沈みするフォトグラムの演劇が展じられた。「MOTES OF FLOATING DUST IN A SUNBEAM」。この塵=モーツはベケット没後の最近になって公表されたテクストに頻出するキーワードである。私には三〇年の時を経て、しかもデュシャン経由で再帰した。一九九八〜〇一年『HO-KORIの培養=CULTURE OF DUST』と『HOの凡例=LEGEND OF HO』上演がそれである。手と紙を隔てる二重底の演劇にあっては、ネガ(=テクスト)はあってもなくてもよい。参照項はあったほうが壊すにしろ活かすにしろ実験しやすくなるだけのことだ。実験なくして出来事はあり得ないが、実験がそのまま出来事に直結するとは限らない。歴史が時系列としての歴史を内破=粉砕する出来事の連鎖だとすれば、出来事とは反歴史的なMOMENTのことであり、前史と後史が一触即発する一回きりの次元なのだから。

パリの郊外サンドニ周辺各地で暴動が多発し、リヨン・アルル・サンレミ・マルセイユなど南仏に飛び火し、片やベルリン・シドニー・ニューオリンズ・ブエノスアイレスなどアフロ系・中東系移民の多い大都市に連鎖する勢いである。さながら「六八〜七一年」の予期せぬ反復。一九八九〜九一年に壁=冷戦構造が崩落し、湾岸戦争とグローカリズムが世界中を覆ってしまった中で到来した遅ればせの余震、それとも液状化したポトラッチ=過剰の蕩尽。モレキュラーは一九九九年『OS-IRIS/OSCILLS=オシリス・オシリス』フランス五都市公演の際にサンドニのパリ第八大学でも上演している。かつてフーコーやドゥルーズが教鞭をとった学内を徘徊し、多国籍的な街の賑わいを愉しんだ。アヴィニヨン公演ではアルルの跳ね橋にトカゲを見つけたり、サンレミの「刈り入れ」前の麦畑にしばし午睡したりした。それが「BATAILLE/バタイユ=叛乱」の予兆とも知らずに。「父殺し」と「わが母」の暗喩でもある故郷ランスのゴシック大聖堂において、ジョルジュ・バタイユと寺山修司が遭遇する。ラスコー・ニオー・アルタミラの「ピトゥーラ・グロテスカ=洞窟壁画」に散見される「身体毀損」を誰よりも重視したバタイユは、ファン・ゴッホ『刈り入れ』に陽光の叛乱/過剰の蕩尽を読みとり、娼館の女に届けられた封筒の中には、ゴッホの頭部から切り取られた耳ばかりか、「刈り取られた太陽」も収められていたのだと書く。前史と後史の異例の炸裂がここにある。

3 ジュネとアガンベンと寺山修司をめぐる「バタイユ=交戦」状態

青森県のせむし男の「せむし」とは何だろう。背中に虫を飼ってでもいるのか。青森県八戸市五十音別電話帳から移植された、顔を持たない名の群れと名を蒸発させた顔の群れが混然と蒸しあがったせいなのか。それとも災厄がそのまま蜂起でもあったからなのか。『ホモ・サケル』や『アウシュヴィッツの残りのもの』の著書で知られるアガンベンの処女作『中身のない人間』がミラノで刊行されたのは一九七〇年。まさに多感かつ多産の寺山と同時代である。のみならず、アガンベンの語る、テロルとレトリックの「ウロボロスの蛇」こそ寺山の骨法とも言うべきものであった。寺山は演劇の表象形式へのテロルとして電話帳を導入する。そのことは徹底されてしかるべきだと私は思う。しかし寺山は、アガンベンを誤読したかのように、たちまちそのテロルをレトリックに転倒してしまうのだ。「だが、五十音別電話帖の中には死んだ少年航空兵のおれの親父の名はない。行方不明のおれの兄貴の名もない。いまたしかにここにいるおれの名前ものっていないのだ」と。寺山の修辞的なテロルは、いつも父殺し・母殺し・自分探しに帰趨した。「青森県の連続射殺魔」永山則夫への万感をこめて。あたかも、物心つく前に母に棄てられ、第一次大戦最大の激戦地ヴェルダンで父を失い、孤児としてモルヴァン村の女たちに育てられたジャン・ジュネのように。戦地へ赴いたまま帰還することのなかった『花のノートルダム』のガブリエルはジュネの母の名でもあった。

「罷業と選択、政治と犯罪、悲惨と栄光」と書いた寺山の腫れあがった背中では、何人ものジュネと永山の戦意が一斉蜂起していたのではないだろうか。なぜなら、永山は短銃を奪うために米軍基地に侵入したのではなく、青森県から脱出したいがために亜米利加=犯罪列島へと密航したからだ。一方ジュネにとって、生そのものが「既に盗まれたもの」であるからには、盗むこと自体が「生の奪還=罷業と選択」に他ならない。同性愛と恥の主題も同様である。恥を否認するのではなく「恥を恥じる=恥と共生する」というウロボロスの蛇めいた「畳語/等価であることの内乱」。それは真っすぐシャティーラやパレスティナに通じていた。ジュネもまた亜米利加の奥処へと侵入し、さらに死者たちの住む極北の「処女地ヴェルダン」に突き抜けたと言ってよい。ひとり寺山だけが青森県から亡命することができなかった。彼の書いたアメリカ前衛演劇事業視察をいくら読み込んでみても、ジュネや永山の亜米利加をそこに見出すことは難しい。そしてこれからも寺山は青森県に拘禁されていくだろう。それが千の寺山にとって千に一つの「せむし男」であることを願うばかりだ。寺山修司は一九八三年(昭和五八年)四月二二日に意識不明となり、そのまま五月四日に杉並区の河北総合病院で逝った。ジャン・ジュネは一九八八年(昭和六一年)四月一五日にパリのオテル・ジャックスの浴室に没した。この奇態な時刻表は、どんな最新の時刻表にも載っていないし、この先も載ることはないだろう。けれども、「走る列車の中で生まれた」寺山と、列車の中での「等価の秘蹟」に撃たれたジュネとは、逆方向から刺し違える列車に乗り合わせていた、そのことだけは確かである。

4 「六八〜七一トレンド」の外部/リテラリズム演劇

一九六八〜七一年、私は仙台からたびたび上京しては内ゲバに明け暮れる友人の学生の四畳半に転がり込み、映画や演劇と美術展に足を運んだものだ。土方巽と中西夏之による「肉体の叛乱」公演や足立正生・若松孝二が唐十郎と組んだ「犯された白衣」や大島渚と組んだ「絞首刑」。中平卓馬・高梨豊・森山大道らの「プロヴォーク」。中平が一時コミットした佐藤信らの「黒テント/演劇センター」。斉藤義重・石子順造を淵源とする李禹煥・菅木志雄・遠藤利克・小清水漸ら「もの派」。寺山修司の実験劇や実験映画も見られる限り見たが、どれも本気とは思えぬ惨憺たる代物ばかりであった。しかし六八〜七一年の説話論的な布置の一角を寺山が占めていたのは疑い得ない。とりわけ寺山と中平・森山との脈絡を二〇〇五年九月ICANOF企画展「メガネウラ展」(八戸市美術館)での新作展示と「写真の北と写真の南をめぐって」「文字と写真とフィギュール/視覚メディアの地政学」で再確認することができた。最近の「もの派—再考」展や尾崎信一郎キュレーション「痕跡展」(京都造形芸大刊「舞台芸術08」所収の共同討議『行為と痕跡のポリティックス』参照)、中西夏之「二箇所」展・高松次郎回顧展・李禹煥「余白の芸術」展——は「万博再考を含む六八〜七一トレンド」の一端を示しているが、七二〜七五年の連赤事件及びヴェトナム解放軍のカンボディア侵攻とポルポトのホロコースト発覚という致命的な逆説的事態による限定なしに、なぜ「六八〜七一」なのかを問うても無意味だろう。

翻って寺山と中平の親交の行方に想到する時、中平が李禹煥に接近したのとパラレルに寺山は誰に接近したのか、という問いを立ててみよう。私の勘では、トートロジックなリテラリスト高松次郎である。寺山演劇はおよそジュネとバタイユを下敷きにしている。だが、その根幹にはジュネやバタイユとは似ても似つかぬ同語反復や自己参照が駆使されていると私は思う。寺山と私は、互いに異なる角度から高松次郎的リテラリズムを分有したと言えなくもない。前段で東北芸術工科大学刊「舞台評論」誌に掲載された拙稿の一部が自己参照されているが、そうしたセルフ・リファレンシャルこそ寺山演劇の常套ではなかったかと思うからである。と同時に、自己参照の演劇は、演劇の内部に限りなく内旋していく他ないのか、という問題圏がそこに露頭しているからである。私は一九八六年に、書簡の演劇化ならぬ演劇の書簡化と称して「手紙演劇」(京都造形芸大刊「舞台芸術02」所収『流刑地の秘書たち』を参照)を駆動した。そしてアデレード芸術祭公演直後の一九九六年、現像劇と撮影劇をディプティクとする「写真演劇」を再駆動した。この折り畳まれた二〇年が冒頭(1)に含意されており、同時の次の書簡(5)にも転轍されている。今しがた書き終えて投函したばかりの私信である。

5 「写真ここになき灰」をめぐる「私信=私/信」演劇

・・・昨日二種の写真拝受。白黒の九点コラージュのほうはスコーンと抜けていて、その「抜け」のセンスに好感をもちました。ただテーマ的にどうか、となると、センス=意味の次元に加えて「センセーション=感覚の次元」が複層化してくるため、やや躊躇せざるを得ない。つまり盲点「BLOTS」と盲面「BLANKS」の明滅「BLINKS」をどこに見い出すか。それは画面の大半を占める空の白のヴォリュームにあるのか、電線の接続の夥しいズレに「SCOTOMATIZED MOMENT」を見い出すべきなのか。

同一作品を九〇度ずつ転回させて四点展示する着想は面白いと思います。そこまで突き詰めたなら、タテヨコ同じサイズにすべきでは? 六点コラージュにするか、九点の場合でもむりやり正方形にしてしまうか。その上でもっと重要な分岐点は四点で終りなのか、五点目はないのか、というアポリア。四点なら見る人は「なるほど、そうか」と了解してそこで思考停止しかねない。ところが四点目をさらに九〇度転回して最初の一点目と同様の、それどころか寸分違わぬ五点目があることで「これは何なんだ」とさらに思考の深部へと誘惑させられるかも知れませんから。

カラーの六点コラージュのほうは、どこかしらバタイユ的な「底なしのグロッタ=洞窟」を想起させます。明らかに「ヌケの盲面」とは対照的な「ヌメリの盲面」。とくに左の上下から中下に続く三点。それに較べて半ば都市的なヴォイド/半ば路地の叙景とも言うべき中上と右上下の三点。思い切ってこの三点をできるだけ黒く焼き込んでしまうと、全体が引き締まるのではないか。およそ、こうした技法に走った手合いではリジッドに細部まで画像で埋めるのは、完成度で圧倒するストラテジーが先行して、見る人から「見ることの愉悦」を奪ってしまいかねないからです。

そのことは、ライトボックス展示だとか上下に黒のフレームが配されている工夫とは無関係です。あくまで「写真ここになき灰」という私達の構想に何度でも立ち返ること。もはやここにはなく、灰はそこにある。死者の名も哀しみも悼みもとうに忘れ去られた。しかし灰はそこにある。しかも、そこには誰も辿り着くことができない。死者を忘れないために写真はあるのではない。写真がそこにあるのは、灰として、であり、灰の灰として、である。いわば限りなく内旋を強いる無底の盲面。・・・

6 バートルビーもしくは「DEAD LETTER=死書」の演劇

フェリーツェやミレナへのカフカの恋文に基づく手紙演劇『f/Fパラサイト』や『SECRETARY/SECRETORY=秘書たち』といったモレキュラーの原生林には、読まれることのない手紙=BLIND LETTERや、読まれないどころか届かない手紙=DEAD LETTERが下草のように繁茂していた。『f/F』や『S/S』にブラインド装置が導入され、やがて四面ブラインドによる『FOOTNOTED=脚注演劇』へと転回したのもそのことに履歴する。しかし「DEAD LETTER」についてはアガンベンが解読した、『白鯨』の作家メルヴィルによる一八五三年の短編『バートルビー』を待つよりなかった。

司法書士である主人公のオフィスは、それぞれ午前と午後に生気を失う二人の筆耕に翻弄されて業務がどうにも進捗しない。そこで三人目を雇う。バートルビーである。しかし彼もまた、ある日「PREFER NOT TO=しないほうがいいのですが」を繰り返すだけとなり、筆耕業務どころか壁際に居座る以外、何もしなくなる。「WISH NOT TO=したくないのですが」の言い違いではないのかと主人公は何度も確かめる。しまいには業を煮やして、今すぐここを出て行ってもいいんだと。「出て行かないほうがいいのですが」。それは願望でもなく拒絶でもない。意志でもなく否定でもない。ニヒリズムの実践でもシニシズムの自虐でもない。そう言ってよければ「折り目正しき無為」。食べるより食べないほうがいい。そのあげく彼は餓死する羽目に陥いるが、それとて、生きないほうと死なないほうの、どちらかを不可避に選択したふしは微塵もない。私達読者もまた、この「プリファ・ノット」の戦慄に凍り付かないわけにはいかない。物語の末尾で主人公は、郵便局の「DEAD LETTER=死書」係だったバートルビーの前歴を知らされる。メルヴィルはその謎めいた絶望の遠因を「伝聞」として慎ましく解き明かして物語を閉じる。

まるでカフカではないか。図書館「司書」バタイユ同然ではないか。これは作者自身が語る謎めいた絶望なんかではない。あくまで「折り目正しき無為」のフィギュールである。カフカ嫌いベケット嫌いの、メルヴィル好きボルヘス好きの寺山と言えども、黙過してしまった「潜在性の消尽の演劇」がここにある。演劇というものを自己表現だの社会教育だの公共財だのと結託させる「可能性の実現の演劇」には到底思い及ばぬ盲点/盲面がここにある。

7 演劇の外部と外部の演劇

百年も前に壊れた鉱石ラヂオから不意に鳴り出す「私達ハイマ交戦状態ニアル」。無人の郊外のそのまた棄景に積み上げられた廃車の山のどこかから着信する「私達ハイマ交戦状態ニアル」。キガリがダルフールやグアンタナモの監獄の片隅に震える蠅取紙に粘着した蠅の羽音がサバエなす「・・・・・イマ交・・・態ニアル・・・・・」。

写真の外部と写真=外部。写真を撮ることと考えること。写真における主体性の麻痺と意味性の拘縮。写真という地名と地名を失った公共圏。一極化した政治的現実に踊らされる無意識のテロルとその最新部の裂け目を微動する「ダークマター=暗黒物質」。カンブリア紀のオパビニアとピカイア。「ドキュマン」のカンパニュラとブリオニア。バタイユの「バ/BAS=下方・低俗」と「ア・バ/A BAS=打倒・転覆」。・・・いま一斉に「バタイユ=交戦」状態に入った。

(初出:れんが書房新社刊「演出家の仕事 六〇年代・アングラ・演劇革命」/2006.02.15)