苛酷に解体し、美しくロマンを描く「f/F・パラサイト」

苛酷に解体し、美しくロマンを描く「f/F・パラサイト」

及川廣信

豊島重之は姉・和子と青森県の八戸市にて演劇とダンスとパフォーマンスの前衛的な活動を行っている。と同時に東北演劇祭の主催者でもあり、先鋭的な演劇の論客である。

なぜこのような東京にも例を見ない、前衛的な劇団が東北の一角に生まれたのかという疑問が当然起こることと思う。それは、青森県という、特に八戸市の解体 とロマンが同居する環境風土と、豊島重之が独創的な精神療法で名を成した青南病院の副医院長であるという二つの理由からであろう。

八戸市は体質 的には城下町と港町に分かれており、又、産業都市としての飛躍の夢は挫折せざるをえなかった。度重なるプロジェクトと、外からと内からのシステム解体のプ ロセスは、八戸人にしだいに地域性を失わせていったように思われる。しかし、無化する心の片隅に、八戸人は蕪島、種差、さらには陸中海岸へと向かう海沿い のロマンチックな風土の幻影がつねに住みついている。

豊島重之は、そうした風土に根ざした地域文化の先兵として、最初から病院外の市内で活動を 展開して来た。劇団と舞踊団は時にはべつべつに、時には融合して公演を行う。又、青南病院の患者の芸術療法の仕事場であり、彼らのかつての膨大な作品があ たかも城の砦のように城壁を作っている「巻貝の砦」の海辺の館や、姉・和子のスタジオで、試作や稽古を続けてきた。

このような状況からこの俳優 達は、作られた演技ではなく、狂気とすれすれの内部世界に自然に入ってゆけるのだろう。豊島和子の踊りは、日本のダンスの歴史では舞踏と同じく異端だった と思う。しかし舞踏に似ていて又、非なるものである。形を求めるよりも、内から欲望を軸にして、内的世界が狂気をはらんで飽満している。大久保一恵はそれ を受けついだ将来性のあるダンサーである。

前作「アテルイ」について語ろう。

平安初期、中央の倭王権は、東北の奥地に寄住する蝦夷を政略するため征夷大将軍として紀古佐美を送ったが敗れ、代わりに田村麻呂を派して、ついに蝦夷の王、阿弖流為を捕え、これを京に連れて斬首する。

この戦いは津軽の祭りのネブタの絵に描かれよく知られてはいるが、また勝者の田村麻呂といわゆる「蝦夷征伐」のことは教科書にも載っているものの、これはあくまで中央の側から書かれた歴史で、破れたアテルイのことは意外に知られていない。

蝦夷とはアイヌ民族のことなのだろうか。このあたりのことはいまだに解明されていないが、東北の北の一角に大和民族とは違った、アイヌ民族と何らかの交流をしていたこの蝦夷族の末孫が住みついているものと思われる。

青森県には、いまだに大和民族の正当な歴史をつづる中央の権威に対して屈従しない気風が残存する。豊島重之が「アテルイ」を八戸・パリ・東京と上演した経 過は、この古代に遡るレジスタンスの血というといささか大げさすぎるが、少なくとも“脱中心”のコンセプトと自信から出ているに違いない。

そういえば、それと同時に行われて来たパフォーマンス・シリーズ「一/二」にしても、常識的な意味構造イコール権威者による統制された世界とし、それに対して無意識または、作られない瞬時の意識、内側からの必然、外側から見ての狂気の世界を提示している。

第一回のヒノエマタ・パフォーマンス・フェスティバルに、豊島重之と鳥屋部文夫が持参したパフォーマンスは、暴れる精神病患者のための拘束衣でからだをし ばりつけ、顔をじょうごで蔽い、身体の運動と視界を最小に限定し、川に入ってポラロイドで自分を撮り、その写真を糸に結びつけて流し、それをまたポラロイ ドで撮る。細密な透視と、行為の反復によって、周囲との既成の関係性を解きほごしてゆくこの営為は、観る者にひとつの衝撃を与えた。

第二回ヒノエマタでの氏のパフォーマンスは、湯槽に現像液を満たし、裸系の男女がその中にうごめき、それを写真を撮り、その原版を同じ湯槽の現像液で大判の印画紙に焼き付ける。このばあい、プロセスはふり出しに戻って、目的と手段が同時的になる。

この作品では、糸と線がもうひとつのテーマとして加わり、ながく引かれた糸を線状にたどることは、関係性を洗いなおして本質を強度によって描こうとすることであり、それが女性の裸体をぬい針でぬいこんでゆくことにもなる。

第三回ヒノエマタでのものは今回の「f/F・パラサイト」の根幹を成すもので、青南病院の患者たちが木材に刻み描いたマンダラのような象徴的な作品から発想している。それに、作曲家吉井直竹の寸断する日常的言語と身体との分離平行性。

この行為と言語と音が、哲学者でカフカの研究家でもある粉川哲夫の——“掻き書く”行為としてのカフカ解釈と、磁気テープによる実験的パフォーマンス—— にヒントを得ていることも間違いない。その上、カフカの「フェリーツェへの手紙」を題材にしてこの「f/F・パラサイト」は作られたわけである。

演劇「f/F・パラサイト」(主演・大久保一恵)は、舞踊劇「アテルイ」(主演・豊島和子)につぐ豊島重之のすぐれたパフォーミング・アーツである。

カフカの内面をじょうごをかぶった寄生虫として視覚的に捉え、フェリーツェは花嫁姿で三人に増複し、ポリフォニックに動き、カフカからの手紙を読み、“掻 き書く”。ことばはどもり、切断し、自己の内面を適切に語ろうともがく。無意識の言語としての磁気テープは、あるときは逆方向にヘッドでこすって音は無意 味に分散し、あるときは方向を得て意味的なことばとなる。

ここでは対立するものが葛藤し、時間的に流れ、序破急のドラマを形成してゆくプロセス とは違った展開が行われる。一方的な手紙文が介在することによって、書く側と読む側、意識の社会的な面と無意識の内面との平行関係。そして階段を下降する タテの運動としての時間の流れと、対立するヨコの流れの定まらぬ関係構図。

豊島重之の「f/F・パラサイト」は、以上の背景と経過を辿りなが ら、正・反・合の融合する時間性とストーリー性に対して、細部への関心、内部への深度、ドラマの否定によって、近代演劇へのひとつの解体作業を試みたもの と思われる。それはあたかもカフカのフェリーツェの頭文字ではなく、二つのf(force)とF(Force)、二つの権力と思えてくる。しかもこの権力 は二人の関係から離れて、物語る権力(統制された意識)と物言わぬ権力(無意識の欲望)とに上昇してゆく。

パラサイトとは“平行植物” のことである。一本の植物に寄生虫のようにすがりつき、栄養を吸いとる植物である。そのため親の植物を枯らしてしまうこともあるという。一歩、意識的な社 会は正当な場所であり、無意識と狂気は非場所である。とすれば、寄生虫としての非場所の人間も、いつかは、権力をたのみにして時代遅れになった体制を解体 させる力と権力を持つことになるというのだろうか。——「f/F・パラサイト」はそのような演劇である。(1987.4.15記)

(初出「f/F・PARASITE」/1987年5月)