<ベルリン=ワルシャワ>アート・シーンの最先端

<ベルリン=ワルシャワ>アート・シーンの最先端

——劇団アカデミア・ルーフ

豊島重之(モレキュラー演出家・精神科医)

—ベルリンの壁を吹き飛ばしたのは、実はワルシャワの嵐であった。—

このことを何度でも銘記しておこう。

<ポストGulf & Wall>の新しい世界認識を、どういう切り口で捉えていくべきだろうか。

その意味において、統一ドイツの動向、なかんづく、ドイツと新生東欧との共生のあり方に注目すべきだということに、誰しも異存はあるまい。なぜなら、ベルリンの壁の崩壊は、まず何よりも、80年代前半からのポーランド民主化の激動に起因しているからだ。直接的には89年チェコのビロード革命や東独からの大量亡命が契機となったかにみえるが、それをもたらした旧ソ連ペレストロイカこそ、実はしたたかに打たれ強いポーランド民主化のボディブロウなしにはあり得なかったからである。一口に言って、ワルシャワの嵐がベルリンの壁を吹き飛ばしたのだ。ここには、カフカの小説に頻出するあの奇妙な遠近法さながら、一番の遠因が現在の出来事に直結するさまを見てとることができよう。

確かにベルリンとワルシャワは距離的に近い。政治経済面のみならず文化芸術面の交流も盛んである。現在ベルリンで活躍している急進的な演劇人や美術家を掘りおこしてみると、ほとんどポーランド出身者で占められているのに驚かされる。しかし、歴史的に繰り返されてきた侵犯や隷属化に由来する深層意識にあっては、ベルリンとワルシャワの距離は恐ろしく遠いのだ。外からは伺い知れないまでに<ねじれた遠さ>が彼ら芸術家たちの魅惑的な表現力の強度を支えていると言い換えてもいいだろう。

カフカ自身が<遠さの人>であった。チェコのプラハ在住のユダヤ人法学士で、しかも法学的なギクシャクしたドイツ語でしか、北方ゴシック芸術にも似たゴツゴツしたドイツ語文体でしか全作品を書かなかった事実を想起すればよい。20世紀最大のドイツ文学は、婚約者フェリーツェの住むベルリンに向けて膨大な数の恋文のように、即ちプラハからベルリンまでの迷路のような遠さゆえに、書かれ続けたのだと言っても過言ではあるまい。そのカフカの恋文に基づく舞台を創ってきたモレキュラー・シアターが、しばしば<アナモルフォーゼ(ひずみの遠近法)の演劇>と呼ばれるのもまた当然と言えば当然なのだ。

そのモレキュラー一行は、87年にベルリンの壁ぎわのベタニエン芸術家会館で上演し、(88年には、東京ドイツ文化センターでの「ベルリン・イン・トーキョー<ベタニエン>フェスティバル招待公演を成功させ)89年のプラハ公演では20年ぶりのカフカ復活に火をつけてビロード革命の一端をにない、90年にはワルシャワ現代美術館を訪問して劇団アカデミア・ルーフとの交流を深めることができた。そのたびごとに私は、カフカがそうであったように、ドイツと東欧とのひずんだ遠近法、即ちアナモルフォーゼを痛感させられないわけにはいかなかった。誇張して言えば、90年代ドイツの演劇やアートを展望しようとするなら、ECとの関係や欧米の文化的パラダイムでいくら考えても無駄なのである。

ベルリンで今一番、ハイ・アートな演劇はどこか、ということで耳にしたグループの一つが、ベルリン公演で急に知られるようになったワルシャワの「アカデミア・ルーフ(動きの学校)」であった。ルーフというと屋根みたいだが、ポーランド語でRUCHUは動きを意味する。メンバー全員が美術大学出で、主催の演出家ヴォイチェフ・クルコウスキは、ワルシャワ市の公的助成による「ワルシャワ現代美術館」の館長でもある。しかも、ただのミュージアムではない。広大な市立公園の一角に「ウャズドゥスキ城」と呼ばれる名門貴族の古い城塞があって、それを大規模に改築したものであり、さらには、ポーランド全域や独仏まで手を拡げた“一大コンテンポラリー・アート・センター”として機能しているのだ。クルコウスキ館長は、多くの有能なスタッフや学芸員を取り揃えたセンターの中心人物なのである。90年12月、モレキュラー一行が訪問した時も、多忙を極めていたにもかかわらず、笑顔で私たちを案内してくれた。かつての城塞様式をその内形外形に生かした、いくつものギャラリーではドイツやイギリスの前衛美術家の展示が行われていたし、ちょうど、日本でも馴染みの演出家タデウシュ・カントル(日本では、カントールと表記されているが、ポーランドでは“カ”にアクセントを置いてつづめて言う)が逝去した翌日だということもあって、彼は快く、カントルの死をめぐる私のインタヴュウに時間を割いてくれた。

私たちはその翌日、ワルシャワ市の中心街からさほど遠くない郊外にある彼らの拠点、「キノテンチャ劇場」(キノの名が示す通り、元映画館で、今も時々、前衛美術の映画特集が企画されたりしている)にて「アカデミア・ルーフ」の新作「大革命後の日常生活」の舞台に立ち会うことができた。この新作は、実は連作で、数年前から同じタイトルで、全く異なる上演を、もう5〜6作やっているという。私たちが観たのは、そのシリーズの最新版であった。大革命後とは、二つのニュアンスをさしている。ひとつは、フランス大革命後のヨーロッパ市民社会あるいは近代を含意する一方、まさにアクチュアルに、ポーランド戒厳令下の恐怖政治を暗示しているのは、舞台から受けた感触から考えて間違いあるまい。そして、もうひとつは、言うまでもなく、東欧ソ連の激変やベルリンの壁の崩壊であり、この時点では未だに現実ではなかったが、彼らの作品が予兆として、決然たる意志表明としていたにちがいない“湾岸戦争以後・ソ連邦解体以後”の市民社会の一層困難な方向性を、観る者に強く迫ってくるものだった。緻密に練りあげられた動作、簡潔な照明・音楽・装置、たえず群衆の私語のように同時多発的に発せられ、唐突に中断するセリフ、たぶんポーランド語なのだろうが、その意味が読みとれなくても一向に構わない、そういうインパクトがあった。主演男優クシシトフ・ジビルビリス以下、出演者5人の動きは、敏速に切断したかと思うと反復し、並置・隣接したかと思うと散逸しながら、暴力的にデジタル化し、シミュラークル化していく。その圧倒的な動きの速度感・展開の強度感。これだけでも見ものである。

と、これだけ聞けば、観ていない人から“ポーランド産のポスト・モダン演劇”なのかと早合点する向きもいるかも知れない。全然違うのである。「アカデミア・ルーフ」には、ボブ・ウィルソン風の“小ぎれいな鈍重さ”はみじんもなく、今、東京や関西で横行している(パスタだかパパタラだかパスティッシュ味だか分からぬ)シミュレーショニズム演劇の“ひ弱な開き直り”とも縁もゆかりもないのだ。「アカデミア・ルーフ」には、まず68年以来の現代美術の政治実験で鍛えぬかれた<受苦と成熟>の精神があり、それゆえに、イマージュの美学たる断固たる拒否があり、それがそのまま、失踪的な動きの美(ソシウス)、<美の地政学(ゲオポリティクス)>の体現に繋がっている。ここには、小ぎれいも鈍重もひ弱も開き直りもなく、その全ての対極の美だけがあると言ってもよい。

終演後、ヴォイチェフやクシシトフらと酌み交わした折、日本ではどんな演劇が関心をよんでいるのか、と尋かれた。今なら私は「テアートル・アプソリュ」だと自信をもって答えるだろうが、なにせ90年12月の時点のことだ。日本演劇に見るべきものは殆どない、むしろ最近、東京公演したヤン・ファーブルに最大の関心がある、と私は答えた。彼ら一同、微笑を浮かべて、ファーブルなら美大の学生の時に「アカデミア・ルーフ」を観て、それから、ああいう演劇を始めたんだ、と言葉を継いだ。私は一も二もなく納得した。さらに、モレキュラーはカフカだけでなく、ヴィトカッツィやゴンブローヴィッチやシュルツなどポーランドの作家をテクストに使うつもりだと告げると、彼らは、むしろ自分たちはキーファー以後のドイツのアーティストに注目していて、それを舞台に取りこんでいくだろう、とも語った。

「アカデミア・ルーフ」は、ベルリンとワルシャワのアートを架橋する。

ポストGulf & Wall —— “壁”以後・“湾岸”以後とは即ち“解体”以後のことにほかならない。それは単に東欧ソ連型社会主義の解体を意味しない。欧米型資本主義のみならず日本型“高度社会主義”もまた破産したことを示唆している。そればかりか、臨場的な戦争=経済のフォルムは勿論、ハイテクノロジィのパラドクスもまた、その種の思考や知覚のフォルムもまた解体したと言うべきなのだ。端的に、解体が解体でなくなってしまう事態の到来。そこで、その事態でこそ、「アカデミア・ルーフ」の演劇が知られる意味が初めて出てくる、と私は考える。

(初出:不明/豊島氏から採録者への私信に含まれていたプリントアウトより/1992)