非場所連弾 編集後記

非場所連弾 編集後記

タータ誌エデトリアル 豊島 重之

◆本書の主調を織りなす〈非場所連論=セリー・ド・クー・ア・ヌルロカリテ〉全37篇をもたらした最初の呼びかけをここに抜粋する。本書6頁末尾にはvol.4参照とあるが、その後全部さばけてしまい、手許には現在一冊も残っておらず参照しようにも適わぬためであり、もうひとつには、今回のセリー・ド・クーを走破したあげくの場所にあっても尚、問いかけとして色褪せぬばかりか、かえって新たな明るみとぬかるみを、あるいは明るみというぬかるみを、ねばく、そして、しうねく編むものだと信ずるからである。

ーーTATA83では“場所性”が現在批判のターゲットであり、かつまた新たな踏出しのエレメントでもありました。であればこそ、場所の記憶や情念なり起源や歴史性などを欠いた無味無臭の均質空間(実はこうした白地(さらち)こそが最も政治的な空間であり、即ち固有と多様の生産を抑圧するどころか助長し、その布置を保証しさえする母性的な権力のかすみ網が吹き荒れる場所に他ならなかったのですが)いいかえれば“場所性を有たぬ場所”において、既成の演劇が拠り処としてきた“場所の特異性”が今や失効あるいは自明化していることの諸文脈が語られ、場の演劇や演劇のパフォーマンス化の諸臨界が模索されたわけです。現に、上演された物語のほとんどは、あるひとりの不在者をめぐって、いわば非場所的な存在・機能を斥力にして構築されていたと見做すことができます《本書11頁》。とすれば、私達が戦略の巧拙に拘わらず体現したものは、まさに既成の劇構造のまる写しであり、また一方では“場所の反特異性”といった修辞的現在への合乗りであったと言わなくてはなりません。

なぜ文法の固有な反復ではなくまる写しなのか、なぜ文脈の多様な差異ではなく合乗りなのか。それは言うまでもなく、非場所が決定的なところでは禁止されていたからです。この禁止が、禁止されるまでの場所の自由と創造を補完していたのです。全ゆる言説=発音=アティキュレーションや行為=関節=アティキュレーションをあくまで自らに向けて発生させ、時には姿をくらまして渦動させ、いよいよ一斉に蝟集させたあげく、いきなりギロチンのごとき中断をくらわす非場所こそ、物語の神であり、つまりは物語批判の神であり、そしてTATA83のレヴェルでは神は温存されていたのです。あたかも会場となった均質空間・白地(さらち)のたたずまいのままに。勿論、ではこれが場所性に彩られた場所であったなら、禁止は見事に破られ、首尾よく神の首をとれたかというと、いまだにそんなことはないばかりか、かえって特異性信仰にも反特異性のもたらすまる写しや合乗りにさえ些かも気づくことなくやりすごしただけでしょう。

《本書6頁でお気づきのように、私はこの“まる写し”をリテラリズムと、“合乗り”をエントレィンメントと書換することで書換以上の肯定的な展開を構想しているのだが》

今回のTATA86を召喚したのは、まさにこうした遠近法のかなめに見え隠れする“非場所性”に他なりません。とりわけそれを、TATA83の劇的な拡がりにおいて失われた“劇的なせばまり”の中で捉え返してみようというわけです。いいかえれば、大文字の非場所は勿論、場所と非場所を同一の地平で一望することのマクロポリテークや、反特異性をてこに大文字小文字の両極から、まるで倫理や急務のように加速されている“非場所の中文字化現象”を現在批判のターゲットにのせ、かつまた、おそらくそれと入れ子状に、内化された大文字の(小文字の、としても同じことですが)非場所の徹底解体・砕片化(小文字化というよりはむしろ微文字化)とともに、非場所の綾成す物語の内的解体・寸断化、さらには微文字や語片・断章が再び交響をはじめてもうひとつの物語に赴いてしまうことのミクロポリテークを、これからの方途を照らしだすエレメントにしたいわけです。もはや中央どころか何物をも補完することのない“演劇の地方性”といい、場所に小ささに反して=即して大スペクタクルであったかつての小劇場演劇とはなりもうまれもちがう“小さい演劇”といい、その辺のニュアンスをいくぶんか担っていることでしょう。ーーー

◆本書は、86・7・9〜13の五日間に渡って八戸市の四滴の場所を転輪しながら行われたTATA86(東北演劇祭イン八戸)なるビッグ・フェスを機に出版されたものである。

従って、TATA86の主催集団(豊島和子創作舞踊研究所・劇団アララギ派・メディアプランナーズ)及び主催スタッフ(UZU・モルシアター・八大メイプロジェクト・八短大演劇部・八工大放送研究部・三戸郡階上町ミニFM局、さらにプレイカンパニーとワクワク企画より各一名)からのメッセージを含めて、上演全13作の内容紹介を兼ねたパンフレット形式の様相を呈している。この場を借りて、TATA86スタッフ及び協力団体を紹介しておきたい。ありうるであろうTATA89に向けての貴重な布石と軌跡としてである。本書は時空を架橋する。

プロデューサー/荒谷勝彦

キュレーター/豊島和子・豊島重之

スパヴァイザー/白山敦子・池田健司・藤田良子・黒田明美・坂下智恵美・似島奈加

ライティング/佐々木達三・小出洋一・田中勉・中森晴海・安田吉良

セノグラフィ/吉岡実・田中稔・原井喜雄

セッティング/赤石光司・相馬寿・中村博文・佐藤学・八戸三大学学友会

サウンドPA/吉井直竹・芦原・米内晃

フォト&ヴィデオワーク/奥山隆俊・池田・安田・宮下清志・宮沢康幸・新谷宝美

宣材及び本書デザイン/佐々木邦吉

さらに、本書協賛広告の各位、前売券ほか取扱いの各位、テント劇場の用地と電源を提供してくれた八戸プラザホテル、テント設営をかって出てくれた中村建設、巻貝の砦へのチャーターバスと場所を提供してくれた青仁会青南病院、音響・映像の機材一式を配慮してくれたデンコードーとロクオン館、そして何よりも当日の観客各位、ほか多くの有形無形の御支援に深謝するものである。

◆幸運というよりないさまざまな往き交いと往き違いをひとふりの鞭として、内言にさえのぼらぬほてりともどかしを錐もむ独楽として、『非場所連弾』は日の目を見た。息の長い脚力へのパラサイティズム(寄生)と懐の深い胆力とのコンビビアリティ(共生)なしには、到底叶わぬものだったと言ってもいい。その意味では、本書は、鞭と独楽、脚力と胆力、19頁にふれたリダンスとリダンダンス、あるいは寄生する極小の分母と寄生される極大の分子との潮目の所産なのである。

(初出『非場所連弾』/発行所:TATA86出版局/1986年7月9日)