場所の非場所化——わたしたちのナウシカ

場所の非場所化——わたしたちのナウシカ

豊島重之(豊島舞踊研スタッフ・「ナウシカ」演出)

「風の谷」は来るべきユートピアでもなければ、失われたアルカディアでもない。前者のジャメビュ=未視体験でもなければ、後者のデジャビュ=既視体験でもない。そこは海と森とに挟撃された境界的な、それこそ縄文的な帯域であり、その意味では我が八戸の地勢に相似しているばかりか、海から吹きつのる清冽な風と森の吐きだす有毒な瘴気とが軋みあう第三項的な場所である以上、高度情報化・高度資本主義化に奔走する八戸の現在が重層する〝潮目〟なのだ。言いかえれば、海と森の異相が際立ち、その際立ちが耐え難くなった時に強引に抹消・隠蔽され(あくまで際立ちの、であって異相の、ではなく、異相は無視できる際立たぬ異相となるのだが)、さもなくば神聖化・超越化の機能を担わされ(これこそ排除・隠匿の最たるものだが)るような、すぐれてポリティカルな場所なのだ。

85年春、豊島和子からアニメ映画「風の谷のナウシカ」を〝こどもバレエ劇場〟にできないかと持ちかけられ、一見してみて、これは「ホメロスのオデュッセイ」と「賢治の銀河鉄道の夜」を下敷きにしたものだと思った。登場人物は凡てこの二作に籍りていることを逐一ここに析出させてみる紙数はないが、アニメ作者宮崎駿が森を腐海と命名していることから、海と反・海の二項措定は自明だし、オームと瘴気のバリアーを体表とする森の身体のニルヴァーナ性は賢治なくして考えられまい。このことは、アニメ映画「銀鉄」批判とともに85年夏の河北新報紙の拙文にもふれたし、同じ頃の大久保一恵独舞公演「セイレーン」の構想の契機にもなった。即ち、セイレーンとは反ナウシカであり、観客に見立てられたオデュッセウスとはユパ・アスベル・クシャーナに三分割され、それぞれ解読する観客・批判する観客・侵犯する観客を含意し、さらにナウシカとクシャーナの〝性のパララックス〟素描が既に開示されていたのである。

この程度でも私達の「ナウシカ」が、原作アニメの好意的評価からホメロスや賢治へと遡及・迂回し、新たな構想に蘇生・結実したものであると明言できるのだが、加えて今回のTATA86メインテーマたる〝非場所〟と〝地方〟というコンセプトに遭遇した時、尚一層大きく原作を凌駕することができたと思う。それは、オームの子の死を媒介に凡ての葛藤と錯綜が宙吊りと化し、風の大ババが森の太母に変じ、しかも「風の谷」なる場所が移動を始めるという序破急の急展開である。地域の移動は海と森の二項性を失効してしまう〝場所の非場所化〟であるばかりか、〝場所の地方性〟をも消息するものとなろう。吉井直竹の音楽と服部明子の振付は、このことを勁い説得力で示唆してやむまい。

(初出「非場所連弾」/1986.07.19)