世界演劇の異性をめぐって

世界演劇の異性をめぐって

——ITI世界会議イスタンブール報告——

豊島重之(演出家・精神科医)

イスタンブールにFAXが入った。世界演劇の現在について何事か日本に書き送れというものだ。この5月中旬から6月上旬までの三週間、私はITI(国際演劇協会)世界会議に招かれ、アタチュルク国立文化センター(通称AKM劇場)で13ヶ国の俳優人(スウェーデン・ベルギー・エストニア・アルメニア・ウクライナ・ユーゴスラヴィア・中央アフリカ・チュニジア・シリア・トルコ・キプロス・英・仏ら16名)にワークショップを指導し、世界会議最終日には米・仏・韓・チュニジア・トルコの演出家が率いる他の五チームととも競作上演、それが「ITIニューシアター・コンフェランス」の主要議題となるのである。同行した日本センターの戸張智雄氏は、これに参加する日本の演出家は初めてだと言われたが、実は数年前に古川あんずさんがITIワークショップを指導して好評だったとのが聞いている。今回の私の招待はその実績をうけてのことだ。そのあんずさんから持ちこまれた難問には何としても応えなくてはならない。

ITIが繰りだしたニューシアターとは、単に他者との遭遇ではなく多国籍的多言語的な遭遇であり、しかもそれを欧州とアジア・ギリシャとオリエント・石の壁の文化と紙の壁の文化が過去のみならず今も激しく切り結ぶこの海峡=界境の地に体現せよというものである。言いかえれば、東欧解放を押し進めたローマ法皇暗殺にKGBとCIAによって駆りだされたトルコ青年デロリストであったように、東欧ソ連の激震・ドイツ統一・湾岸戦争といった火砕流をまとも浴びる直接性の地の利において、オリエント急行の終点かつシルクロードの終点という、この二重の終点が織りなす無意識の多面体をいかに上演するかである。奇しくもこれは、各々の文化の独自性を保持・発揮しながら、その多数多様な渡りあいから新しいもうひとつの文化を創出する、いわばカオスと刺しちがえるハイブリディティ(異種交配)に挑む古川あんずたちの苦闘と雁行するところだ。ここに至って私は、ITIのニューシアターを世界演劇と翻訳してみることで、突破口を得られるかもしれない。

言うまでもなく、世界演劇とは世界の演劇を意味しない。たびたび世界ツアーをする日本演劇は勿論、その世界性を日本に披露する外国演劇もそれだけでは世界演劇とみなすことができない。かと言って、日本演劇と外国演劇以外のどこかに世界演劇なるものがあろうはずもない。それを未成の演劇としてしまえば、理念としてメタレベル化された消尽点かイメージの水平線のようにたえず先送りされて、絶望的な苦役を回避する表現者の楽観的な口実になりかねないからだ。むしろ私は、世界演劇はかつてもあったし、今すでに始まっていると考えたい。同時代感覚の文脈を払拭し、他者との豊かな遭遇を蹴散らし、集合的無意識の詩学から立ち去り、あまつさえ演劇の構造をかなぐり棄てさえすれば、日本であれカフカスであれブルキナファソであれ、世界演劇は可能なのだ。

それは世界の演劇が終わったところから始まる。第三回イスタンブール国際演劇祭(6ヶ国)第二四回ITI世界会議(70ヶ国)第四回ニューシアター・ワークショップ(30数カ国)という、さながら世界の演劇が一同に会した感のあるこの境域で、その二重の終点のありようを仔細に測量して歩きながら、まさに世界の演劇を終らせ、同時に世界演劇を起ちあがらせるにはうってつけの懸崖に私は今いるのだと実感した。勿論それは高度情報化の背理をもろにかぶってやまない日本の閉域中の閉域(半端な閉域ではなく)でも同様の契機が得られるはずだ。要は他者をいかに否認するか、多面体をいかに粉砕するかである。古川あんずのネムリ鰐は、爽やかなまでに対話的他者を喰い破り、無意識の多面体をきれいに裏返してみせた。ここにも私は世界演劇の契機を見いだす。あるいは及川広信率いるIAC(いわき・アート・セレブレーション)、西堂行人率いるHMP(ハイナー・ミュラー・プロジェクト)、海上宏美率いるオスト・オルガン、そして荒谷勝彦率いるTATA(タータ=国際カフカ・フェス)にも異性としての世界演劇を期待できるに違いない。

世界と演劇をもろともに内破することなくして世界演劇はありえない。ITI上演作で私が試みたのは、まさにそのことであった。出演者の一人、エストニアの俳優を日本に招いてそのヴァージョンを7月27日、いわき市美術館で上演し、そのヴァージョナビリティ(異性)を8月6日、川口市民会館でさらに試みることになる。勿論、ネムリ鰐のCTスキャナーも登場するはずである。(June, 1991)

(初出:1991年7月8〜9日のダンス・バター公演@パルコ劇場のパンフレットのための草稿)