北島敬三〈ザン〉の写真〈コク〉の写真

北島敬三〈ザン〉の写真〈コク〉の写真

豊島重之

ヒナイともヒガイとも呼ばれる地鶏=ヂドリの〈非〉は、〈地〉と〈トリ〉のどちらにあるのか。少なくとも〈トリ〉自身にはない。偽装であれ感染であれ、非は〈トリ〉に手を染める人々にある。ならば写真家にも無縁な話ではない。撮りに出かける写真家の資質の〈地〉、それとも撮られた写真の光学的な〈地〉。そうした問いに応えられる写真家はきわめて少ない。

写真家北島敬三さんが本年度の「伊奈信男賞」を受賞した。十二月四日、ニコンプラザ新宿で行われた授賞式に、私を含め、北から南から多くの友人が出席した。昨年度の受賞者が、今年のヴェネチア・ビエンナーレ日本館コミッショナーとして世界的に活躍した写真家港千尋さんであったことからも、この賞の重みをうかがうことができよう。ちなみに「木村伊兵衛賞」と同賞をともに受賞しているのは北島さんくらいである。

北島さんと私たちICANOF(イカノフ)との出会い。二〇〇一年の第1企画展を盛況裡(り)に終えた私たちは、翌〇二年に北島さんの作品に出会った。人物であれ風景であれ、これまで見たことのない写真だった。衝撃が愉楽に転ずるような出会い。本人に会うには勇気が要った。

第3企画展の主題を「風景にメス」と決めて、ようやく北島さんと対話できたのは〇三年三月。その全容は〇四年三月刊ICANOF写真集に収録。それ以来、毎年欠かさずICANOF展に参加されている。

写真が出来事であるのはどういう場合か。それを出来事と呼びうる契機は何か。端的に人と人との出会いの場。写真とはその一触即発の場面のことだ。写真自体はあくまでも平たい面なのだが、場面のほうは絶えず深まりを迫られる、切り立った残酷さの終わりなき磁場にも等しい。その残酷を突き抜けた〈コク〉の写真。そこに北島写真の第一の特色がある。

今回の受賞作は「USSR 1991」。冷戦構造が瓦解した直後の旧ソ連を撮影した連作。まず十数年もの間、世に問うことなく〈ネカセ〉ていたという事実に驚かされる。なぜ〈プーチニズムの猛威〉が吹き荒れる今なのか、そう問うこともできよう。しかし、まずはネカセの熟成=腐爛(ふらん)なしに〈酷〉の写真はありえまい。

それにもまして、ひときわ異様なのはフラッシュの過激な影。撮られた人々を蝋人形(ろうにんぎょう)めいた存在に化してしまう〈黒々とした縁取り〉が見る者をとらえて離さない。さながら〈ニッチ=へきがん=陥凹〉の写真とでも呼ぼうか。そこには歴史から抹殺された〈一日一日〉が、永遠の翌日の〈イチニッチ〉さえもが写し込まれているからである。

もとより北島写真は、作品という制度=システムの底をブチ抜いた〈残余〉の写真とも言える。永遠の残余、瞬間の残余、そして残酷の〈ザンヨ〉。来年のICANOF第8企画展での悦(よろこ)ばしき再会を、ともに待ち遠しく思う、ある冬の残り日。

(初出:「東奥日報」/2007年12月11日)