隣接に隣接する(I)

隣接に隣接する(I)──演劇─機械をめぐって──

豊島重之

(1)

──自分が話すのを最初に聴く者は自分であり、最後に聴く者も自分である。

──無人の森で倒れた木の音を人は聴くことができるか。

この二つのパッセージに“なぜ演劇─機械なのか”あるいは“演劇─機械とはどういう事態なのか”という問いを可能ならしめる最初の手がかりがある。

どういう場・表現であれ、人が演じ、それに人が立ち会うという構造、をれを吊り支えている“演劇の無意識”は不可避なのだという視点からは、こうした問いは生じない。方法的にしろ結果論にしろ、見せる演劇や見られる演劇の域内にある限り、それは不可避どころか自明性となって視界から姿を消し、表現衝動とい う名の構造化強迫をもたらす。

しかしひとたび、本当に“演劇の無意識”は不可避なのかと問いつめてみる者なら、構造から手もなく立ち去る前にどこまでもついてまわることになる構造化強迫を断ち切っておかなくてはならない。たとえば、演じ、見せ、かつ、見られるという能動性に、見るという受動性を、とりもなおさず、聴くという荒々しい受動性を対置してみること。つまり、見る演劇=聴く演劇である。それはまず、聴くことの可能性と“聴かないことの 不可能性”の不一致から出来する。恣意性と被為性が切り結ぶ臨界と言いかえてもよい。私はそこにマシニーク(機械状であること)の契機を見いだす。

(2)

もとより演劇─機械とは、舞台に機械を導入したものを意味しない。マン─マシーン・インタフェイスの如きハイテクを駆使したシステムであれ、レトロ感覚を刺激する種々のからくり仕掛けであれ、機械と人間の葛藤なり共生なり未来派風の物語なりがいかに劇的に展開されたとしても、それとは全くの別物だ。客席を包囲する劇場の四壁をフルに舞台化し、コンピュータ操作で壮大なスペクタクルを実現させたところで、人はそこにイメージの見本市や生態学的なパノラマを見いだすだけだろうし、第五の壁と称して舞台の床一面にハイヴィジョンをしきつめてみせたところで、せいぜいが神話的なロマニズムをかきたてるぐらいなのだ。人は全体を視ることなしに全体を観るのである以上、舞台上や劇場外の不可知の要素までもリアルタイム・デヴァイスでもって観客に情報化してみせることが、見ることや聴くことの遍在、出来事の外部性の問題、ひいては劇場都市論に結節するとはとても思えない。

日本で唯一、この演劇─機械にいち早く最大の関心を傾け、かつ実践しようとしたのは寺山修司だが、その彼にしてもルーセル的機械やカルージュ的機械を、フーコー風パノプティコンとジラール風 スケープゴートを交差させた物語中に巧みにコラージュしたに留まり、その印象たるやテアートル・マシニークとは程遠いものと言わざるを得ない。寺山ほどの器量をもってしても、欲望の権力性や愚直性を嗤い、演劇の制度性を風刺する限りでのメタシアターに留まってしまうのは、先行者としての孤塁の状況とか彼自身の反ロマニズム・反ヒューマニズムの姿勢が災いしたためというより、端的に不在をモメントにしていたからではあるまいか。前述したように、演劇─機械は 恣意性をモメントすることはあっても、不在において現前することはないのだ。さらにいえば、非の姿勢・被の成分はありえても、反の姿勢はどこにも見あたる まい。それにしても、いまだに寺山修司をこえる嗅覚が現れないのはどうしたことだろう。それを、無意識をもつ身体の鈍さ、その身体をもつ演劇の鈍さに帰趨させるわけにはいかない。機械はそうした鈍さに代わって、鈍さを救うべく召喚されたわけではないのだ。

(3)

かつて私はパフォーマンスに対して二つの戦略を立てた。パラフォーマンスとコンシューマンスである。言いかえれば、機械とは私にとって、生産のメタファではなく消費のメトニミーであり、動力のメタファではなく遅延のメトニミーなのだ。勿論、生産/消費のディコトミーが破産したあとで、分配/登記を含む消費の生産しかないという事態にあって初めて到来する消費の消費、それがコンシューマンスである。この冗語反復的な減衰化の事態は、明らかに演劇─機械の位相にある。

確かに遅延は言語を生み、無意識を編み、人を構造へと駆りたてる。話す自分と聞く自分という自同性の裂け目こそが幻聴の発生機であり、オーティズム(自閉)とオートマティズム(自動症)の場だと、すでに冒頭に含意しておいたではないか。しかしもう一歩踏み込んでみよう。この極小の遅延は他者の介入を待たない、いわば関係以前の無媒介な近さでもあったのではないか。言いかえれば距離として構造化されることのない一種異様な近さなのだ。(第二のパッセージに 示唆されているのもまた、他者との遭遇をもたない遠さの直接性であった。)そこでは自閉はただちに他開に転ずる。それは恐怖とは次元を異にする戦慄の事態というべきだろう。パラフォーマンスが演劇─機械の位相にある所以である。

(4)

翻って“演劇の無意識”にできることは何か。 何よりもそれは自己─他者関係であり、関係の死と恐怖のリアリティであり、主体化と脱主体化におけるアウラの強度という名の構造の強化なのだ。そうした場に析出してくる否定性や偶発性は、あくまで主体性や共同性に媒介された力動であり、どこまでも距離のセクシズムに帯電していくほかはない。

演劇 ─機械はこうした“演劇の無意識”に対してまっすぐに発せられているのであって、それ以外ではないということを何度でも強調しておきたい。なぜなら、自動記述や自動症のみならず他者なき他律性あるいは非関係といったオートマティズムは、安易に機械と無意識を婚姻させてきたからだ。機械を集合的無意識のアー キタイプとみなし、そこに主観をこえた客観性の数学的宇宙をつむぐミソロジストもいるくらいである。そうした精神の光学には自閉の光学を、客観性のドラマ には“観客性の演劇”を対置しておきたい。

距離のセクシズムと機械のセクシュアリティについては次稿を期す。

(1991.4「ハムレットマシーンは可能かII」初出)