ロクス・パラソルスあるいは/そしてロギクス・パラソルス

『ロクス・パラソルスあるいは/そしてロギクス・パラソルス』

北山研二

モレキュラー・シアター 『ロクス・パラソルス』

作・美術・演出/豊島重之 出演/大久保一恵ほか

90年7月29/31/日・8月1/2日/ ウォーク八戸・パラボラ

『ロクス・パラソルス』(モレキュラー・シアターのカフカ恋文三部作完結編、つまりフェリーツェへの手紙による『f/Fパラサイト』第一作、ミレナへの手紙による『シュロス/シュリフト』第二作そしてオットウラへの手紙による本作)は、フランツ・カフカとレーモン・ルーセルとの思いもよらぬスリリングな遭遇を、そしてこのうえなく刺激的で楽しい遭遇をかいま見せてくれた。かつてだれがこうした結合を着想しえたろうか。もともとカフカ(1883-1924)は、生前わずかな短編類しか発表せず、死後やっと実存主義系の作家や哲学者たちによって評価された。そのため、孤独、荒涼、憂欝、不条理という形容語が似合いそうな文脈を抜きにしてカフカが語られることは少なかった。映画・音楽・イーディッシュ演劇さらには語りの現代性の視点からの評価を始めたのは近年のことである。一方ルーセル(1877-1933)はといえば、ダダイスト・シュルレアリストたちから熱い眼差を送られはしたが、その時代にもてはやされた文学的主題や傾向には見向きもせず、民話・逸話・神話そしてヴェルヌやフラマリオンを愛好し、ひたすら言葉遊びが生み出す奇異なる形象群に魅せられて、人知れずこれをテクスト化した作家だった。それゆえ、そこに既成の文学的人間学的真実とか、心理学的社会学的研究とかを探してもむなしい。今日に至って、実存主義以後の作家や思想家たち(ロブ=グリエ、ビュトール、フーコー、ソレルス、リカルドゥー・・・)から、既成の文学的隠喩を欠いた運動体として脱色されたそのエクリチュールに注目され新しい文学の可能性として評価された作家なのである。

モレキュラー・シアターは、文学的には異次元に置かれていると思われたカフカとルーセルのテクスト群にいくつもの等号あるいは疑似等号、括弧、矢印、抹消点、返り点などを多元的重層的にしるしづけることによって、『ロクス・パラソルス』をカフカ=ルーセルあるいはカフカ≒ルーセルの場にしてしまう。そこではカフカがカフカでなくなり、ルーセルがルーセルでなくなる。たとえば、等号あるいは疑似等号について言うならば、死がそうである。死ぬことによって初めてカフカは手紙に「なる」ことができ、ルーセルは創作手法に「なる」ことができた。そもそも知られているように死によってカフカはカフカになり、ルーセルはルーセルとなったではないか。加えて言うならば、カフカは妹オットゥラへ恋文を書き続け、浴室[ガス室]と手紙と宿命的な死を結びつけるし、ルーセルは死と競争しながら休みなく書き、ついには浴室で自殺未遂することを挙げてもよい。死がカフカとルーセルを幾重にも結びつけているのである。あるいはたとえば、テクストの断片化がそうである。カフカの手紙はつねに寸断され果てしなくづらされながら反復されるテクストである。ルーセル的テクストはそもそも、統一的な物語を作らず、無限に逸脱する断片的テクストの集合である。舞台ではカフカ的断片とルーセル的断片が混入し合い重なり合う。背景を分割するピアノ線、区別のつかぬ女性の分身たち、分身たちの無表情と戦慄、ベッドとパラソル、反開きのドア、無数のボード、手押し車式織機と「織女たち」、大辞典とルーペ、便箋と赤インク、浴室と暗室(?)、パラソルと矢印、礼服の男たち、漏斗生物たち、処刑現場、高揚のうちに死んでしまうチェロ奏者、天使たちの高速綾取り、イーゼルとガラス、写真、歌姫(舞姫?)・・・はいずれかのテクストから出てきた形象群だろうが(ことによるとK[カフカ]、K[『ロクス・ソルス』のカントレル博士]に加えて、死と無数の推敲的断片を抱えるもうひとりのK[宮沢賢治]とのつながりもあるかもしれないが)、文脈を寸断されて起源に返されることなく差し出されているのである。あるいはたとえば、地口やアナグラムなどの言葉遊びがそうである。ロクス・パラソルス[唯一らしき場]は、『ロクス・ソルス』[唯一の場]のパロディーであるだけでなく、カフカのテクストでは置き去りにされ続ける美しいパラソルの巡る場でもある。ここでパラソルとは、人目を避けるという意味で手紙(カフカ)、形が似ているという意味で括弧(カフカとルーセル)、重ねられるという意味で二重化(カフカとルーセル)のシーニュをなすのである。そしてモレキュラー・シアターなじみの漏斗生物についていえば、腹話術師・寄生するもの・ほくろ・臼歯・突堤[『新アフリカの印象』のナイル川の両岸]・分子などに分裂し増殖していくのであるのだが、それは語moleを介してのことである。さらに分裂し増殖する例を挙げるならば、ガラス−詩句−虫−緑−差し錠[→反開きのドア]−死の方へという斬新的移行は、verre--vers--ver--vert--verrou--vers [la mort]というフランス語の地口が支えているという具合である。かくて舞台では近代演劇が培ってきたドラマツルギーは雲散霧消する。舞台はそれとは別な論理で進行していることは明かだろう。その他、反復性、互換性・・・はあきらかに等号あるいは疑似等号と言い換えることができる。解釈を中断させる括弧、シークエンスを逸脱させる矢印、テクストそのものに帰ることを妨げる抹消点、反復をしるす返り点などについてはもう例を挙げるまでもないだろう。ところで、多数のテクストのあちらこちらから舞台に出てきた人物たち・漏斗生物たち、無数の大小道具(オブジェ)、大量の水、数少ないが執拗な映像、変調されるかとぎれとぎれに出されては反れていく無数の声等々は、もはやルーセルのものかカフカのものか判然としない。そこはすでにしてカフカとルーセルを突き合わせて、身元調査したり、所有関係を数え上げて新解釈を提示するというような閉じた場ではなくなっているのだ。そこは多数のカフカと多数のルーセル(そしてそれらから分枝した多くの断片)が分子状化[モレキュラー]化し、新たに多様に結合しあって、新しい意味を形成するかと思うと、解体し、四散する開かれた場(ロクス・パラソルス)となっているのではあるまいか。少なくとも、観客は無数の記憶、想像力、感情、欲望に襲われたかと思うと、次に瞬間にはすべてが白紙に還元されてしまう。

『ロクス・パラソルス』は、正面の舞台と観客席下の舞台とで展開する。観客席の足元はガラス張りで、水を張った下の舞台を覗き見ることができる。舞台は二分化されているだけではない、二重化されているのである、いや相乗効果によって多層化されているというべきだろう。観客はすでにして、見ているだけのものではなく、前作『シュロス/シュリフト』以上に舞台から複数の目で見られ、自身も複数の目で見なければならない。舞台はあちらにあるだけでなく、こちらにあり、しかも一望できない。声は役者の喉からだけでなく、どこからともなくやって来る。観客は場所を取り去られるだけではない。アイデンティティーさえ失う。まるで舞台に取り込まれてしまうかのようである。「織女たち」の王女、あのじっとこちらを見る王女のごとく、あるいは現実世界からたえず虚構に抜け出すカフカの手紙のごとく、虚構と現実の境界線を踏み越えてしまう。そこではそして、正面舞台左上には、カウントダウン式の発光ダイオードのデジタル時計が六個あり、一個がゼロになると舞台が換わる。それゆえ、役者(観客)の肉体に潜む伸縮自由な内的時間はメカニカルな時間に転化される。いわば近代の役者が前提とした肉体的アウラ感覚、つまり演劇的に訓練されコード化された表象的身体感覚は消滅し、どの役者も一種の互換関係に置かれる。つまり、劇全体を支配し、物語を作る主役は見いだせない。実際、価値の序列関係に置かれていないカフカ=ルーセルの断片的テクスト群のように、多数の役者たち(三人の役者とはデュシャンのいうように、二元的関係性を越えた多数の役者である)は相互に入れ換わるのである。彼らは、一個人の役者に割り当てられる一貫した社会的心理的相貌なり人間的喜怒哀楽なりを持たない。何かしら別種の相貌を部分的に持つ。あるいは、役者と大小道具(オブジェ)群との関係もそうである。大小道具(オブジェ)群は役者の表象的身体の一部とはならず、役者から切り離され、それ自体の存在性を互いに主張するからである。役者にも小道具にも等しく(メカニカルに)テクストの断片は通過するのである。それゆえ、役者も小道具もブラウン運動をするかのように行き交い、立ち止まり、そして行き交う。しかし、テクストに突き動かされているふうではなく、一種の自動性のゆえにででもあるかのように。さて、時計のカウントダウン・ゼロはまた、死と生(蘇生)の契機をなす。カウントダウン・ゼロの瞬間、舞台は一瞬凍りつく。そして新たなカウント・ダウンが始まると、生(蘇生)が開始される。この転換は優れてルーセル的である。ロクス・ソルスに運び込まれる死体は蘇生するためなのである。そもそもカフカもルーセルも死を契機にして蘇生したのではないか。六個のカウント・ダウンは六回の死と生を反復する。しかし、それは多様な死と生の反復であり、そのたびに多様なカフカ=ルーセルが新たな意味を形成し崩壊させる。それは、ロギクス・パラソルス[多数の論理]である。確かに『ロギクス・パラソルス』は新しい空間ー時間を創出した。しかし、それはここでしか成立しない空間ー時間なのだろうか。

(初出『ダンスと批評』〈冬号〉一九九一年一月一〇日発行、第五号)

(再録「Art Conference」Vol.2/1996)