八戸モレキュラー沖縄公演に寄せて

八戸モレキュラー沖縄公演に寄せて

矢野静明

道を歩く足の動きは、ある場所へ向かっている場合、前に進むために交互に差し出されなければならない。いわば目的のために一つの明確な機能として働いている。同じ身体行為ではあるが、踊ることに同じような機能と目的が存在しているだろうか。

ロシア・ナロードニキの思想家ゲルツェンは、子供の目的は大人になることではなく、その場その時を遊ぶことであり、子供であること自体なのだと語った。そして、もし先に進む事だけが目的ならば、人生の生の目的は「死ぬこと」でしかないと書いている。

確かに、もし生が死を最終目的とするなら、最初から生などある必要はない。同じように、ダンスは向こう岸への跳躍が最後の意味でも目的でもない。舞台上のダンスはその場その時にただ一度だけ生起し、その場で必ず消滅して行く。

ダンス公演「イスミアン・ラプソディ」は、舞台を前に座り見ている者に向かって、亀裂と断層を呼び起こすだろう。メイエルホリド、ジュネ、デリダが残した三つのテキスト、あるいはダンサーが持ち運び、また群がるいくつかの道具が舞台を構成する。

舞台はなぜそのように作り上げられるのか。ダンサーはなぜ壁をつたい、なぞり、時に跳躍し、足を蹴(け)り上げるのか。それはある目的地に向かうようにではなく、そこにそうある事を覚醒(かくせい)させるために、踊り続けられる。

ある明確な意図、目的に向かって舞台上の出来事を理解し解釈しようとする観客を裏切り、ダンサーの動きと、そして両耳に入ってくる声は、お互いに無関係であるかのごとく並行し続け、それぞれの次元を生み出す。けれどもそれは、本当に無関係に並行しているだけなのか。

ダンサーの動きと声である言葉は、眼と耳という二つの感覚器官に向かって集中的な覚醒を観客に要請するが、事実としては、その二つをただ一つの身体が引き受けているのである。一つの身体に備わった眼と耳とが、舞台を同時に引き受け体験し摂取する。この亀裂と断層の体験と摂取こそが「生」ではないのか。

子供が大人への成長を目的とせず、その場その時を遊ぶ存在であるとは、成長という目的によって接合せず、断層そのものを生きるということ以外ではない。亀裂と断層の体験が起きる時、われわれの生は否応(いやおう)なく緊張させられるが、またそれは解き放たれた遊びの場の発生であり、そして踊りの発生の時である。直接的なまでの生の様態が、そこに演劇として開示されようとしている。(画家、神奈川県在住)

(初出:「東奥日報」/2007年10月9日)