ゴッホの不穏と平穏

ゴッホの不穏と平穏

「八戸芸術大学」リポート

豊島重之

私の住む街には芸術系の大学がない。それは、ICANOF(イカノフ)企画展にすぐれた芸術家を招いて市民との交流の場を設けても、次代に引き継がれないことを示唆する。外からの肉声が私たちの未来とどう響き合うのか。その感受力の地層の形成が、イカノフの日常活動「八戸芸術大学市民公開セミナー」の願いである。

数年前、フランス五都市公演の傍ら、南仏アルルの跳ね橋とサン・レミの療養院跡を訪れた。画家フィンセント・ファン・ゴッホ(ビンセント・バン・ゴッホ)に痛切な希望と絶望をもたらし、それと引き換えに豊穣(ほうじょう)なまでの絵画的達成が得られた土地。サン・レミで描かれた「花咲くアーモンドの枝」の前に立った時の、ただならぬ静謐(せいひつ)感がずっと気がかりだったからだ。その半年後の遺作「からすの飛ぶ麦畑」の張り詰めた不穏さとは異なる「アーモンド」のつかの間の平穏さをどう受けとめるべきか。

その脈絡を解き明かしたのが画家矢野静明氏の著書「絵画以前の問いから—ファン・ゴッホ」(書肆山田刊)である。

えんぶりの一斉摺(す)りでにぎわう二月十七日、矢野氏と造形家伊藤二子師(八戸市)をゲストに迎えて、第二十二回八戸芸大・市民公開講座「ファン・ゴッホの絵画と生涯」が八戸市美術館で開催された。両氏の作品も特別に展示され、展示とトーク含めて百人をこえる市民が参集したことになる。

矢野氏は、弟テオへの手紙から「人生の半面には苦悩の正しい存在理由がある」という兄フィンセントの言葉に注目する。苦悩の正しい存在理由をゴッホが受容したとき、「アーモンド」に生命が宿りだす。世界への働きかけをやめた、抜けがら同然のゴッホを、絵画そのものが照らし始めるのだ。そこに伊藤二子氏の言明も畳み込まれる。「抜けがらを怖(おそ)れず、崩壊をはらみつつ、私の筆触もまた崩壊とスレスレのきわどい場所にしかないのですから」

聴講者からの発言も加味しよう。牧師の家に生まれた兄弟に身近な聖書の文脈では、アーモンドは冬の苛酷(かこく)さが去って春の目覚めの到来を象徴する。まさにえんぶりの一斉摺りさながら。弟は生まれたばかりの嬰児(えいじ)に兄の名を付ける。兄はその子に生まれたばかりの絵画を贈る。人々はいまだ冬の眠りの中にあるが、ひとり目覚めて、この世界を見守っている—それが「花咲くアーモンドの枝」なのだ。

(初出:「東奥日報」/2007年3月6日)