ロックメルヘン「桜の園」を観て

ロックメルヘン「桜の園」を観て

小寺隆韶(八戸北高教諭)

三月三十一日午後五時から八時三十分まで八戸市民会館ホールは異様だった。

まず入ると、ホール客席の三分の一近くを埋めて、巨大な象[*1]が前足を折った姿勢でくずおれている。そして入口近くには、客席に囲まれて高い舞台があり、鉄骨の櫓がそれに続き、長い長い梯子[*2]が二階にかけられているのだ。

舞台は食事の最中、十九世紀末のロシアの衣装を引きずって、没落のけだるさが漂う。ふんだんに吐き散らされていく、饒舌の洪水。蒼い光に浮いてロックバンドが吼えて、ぴーんと胸郭に叩き込まれる二十曲にもおよぶ劇中歌[*3]が私の中に潜む抒情を乾あがらせる。

この脚本を書き下ろし、強引に組み上げてしまった豊島重之のエネルギーに圧倒されていたら、耳元で友人の声がした。「八戸における前衛演劇の記念碑ですね、やっぱり」。

このレオ王国と称するサーカスの若者たちは、昨年の一月にも「日本舌切雀考」と題して、別役実の「ふしぎのくにのアリス」からロックメルヘンの舞台を創っている。今回の「桜の園」は、その続編というよりは裏返し。鏡の彼方に入るのではなく、その鏡の乱反射に崩落して行く姿[*4]に斬り込もうとしているかに見える。

だからといって、チェホフの「桜の園」から完全に離脱しているわけではない。その筋立てと人物の一部を借りているだけでなく、脚本に書き込まれた豊島重之の情念の世界は、ほとんど重なりあっているといってよいほどに忠実なのである。

いつか本人も話していた。

「同じロシアの作家で親交のあったドストエフスキーやトルストイと、チェホフの世界は決定的な違いがある。前二者には思想や感情の奔流がある。人間と神とのせり合いに、激しくぶつかって行く。しかしチェホフにはそれがない。むずかしさがない、淡白な、なにげない[*5]人生が行き過ぎるだけだー」

男の論理というよりは、女の性のような優しみがある[*6]。そしてその、いつもなにげなく終わって行く恐しさは深い淵となって迫るというのだ。

チェホフの「桜の園」と深くかかわっている部分として印象的なのは、後半に入って間もなく、地鳴りのような茫洋たる音[*7]が会場を包み込んでからだ。

チェホフ劇には舞台に出ない、父(角昌俊好演)の目ざめと登場人物の錯綜した反応。場面が鋭く転換して行く。チェホフ劇では、桜の園の農奴の小倅ロパーヒンが、没落して行く生家を救うための献策を受け入れられぬまま、桜の園の競りに立ち会い、とうとう自分が買う破目になったことを告白するクライマックスに相似している場面である。

そしてその緊迫は、チェホフの運びのように舞踏会や洗練された手品師(内海末雄)の楽しさでつなぎながら、老僕フィールス(豊島重之)ひとり登場する幕切れへとつっ走る。

フィールスは言う。

「みんなどこかに行ってしまった。とうとうこのおいぼれ爺と、シャルロッタ、気違い婆になってしまったんだな。舌切雀のいない爺と婆じゃ、物語も事件も、芝居も虚構もあったもんじゃない。いいさ、みんなどっかに行っちまったって、わしとお前でまた待ってみるさ、この桜の園で・・・」

全ては夢だ、というのだろう。生き過ぎてしまった、まるで生きている覚えもないままに、と言うのである。なんという痛切な提言なのだろう。

なにげなく生きて、いつも全てが終わっているというすさまじいチェホフの認識は、ここでピッタリと豊島重之と重なり合ったのだと思う。

舞台は、初めからことばの脈絡を拒絶したかに見える。しかし本当は、ことばというあやかしの衣を脱ぎ捨てる苦しさに慄えていたのではあるまいか。乱れ飛ぶギャグ[*8]の連続が、そんな印象をさえ私に運び込むのだ。

そのたびに、私の秩序が揺れる。揺れ続けては衝きあげられ、破壊の淵にまで追いつめられる。舞台と共鳴して揺れる私は、ふと、これが現代の持つ傾斜なのだと錯覚する。そして、これと同じ傾き[*9]で崩解し行く自分を予測してしまうのだ。

ロックメルヘン「桜の園」は、こうして私を追いつめる。観客を追いつめる。演じた者をさえ追いたてる。劇中にくりかえされる「昨夕(ゆうべ)には戻れない」ではなく、昨夕から脱け出せないでいる自分の認識に、トントンと胸を叩き続けているのだ。

不満もいくつかあった。

とは言っても、盲女アーニャ(名生雅子)の清冽さは舞台を引きしめていたし、狂女シャルロッタを演じた田中敏美子の真摯な挑み方と、心を吹き通る歌の素晴らしさには酔った。また、幕をつないではめ込まれた豊島舞踊研究所の踊りの楽しさは忘れられない。交錯する光の中での踊り子の白い仮面が浮き出ると、ピリリとした不安が流れ出していたからだ。

ともあれ、豊島重之という異才の誕生は鮮やかであった。顕微鏡を通して、昨夕(ゆうべ)と今朝(けさ)を対話させている発想を希有と見るからであり[*10]、特に、日本的抒情をどうにもそぎ落せずにいながら、カラリと乾いたものに憧れるそのやさしさが、これからどのように咲き出すのか。惧(おそ)れと共に見つめたいと思っている。

公演当事者註

[*1] 4メートル高の銀色ビニール製エレファントを、数日がかりで接ぎ合せて制作したもの。開演時に風船状に膨らませておき、終幕に向けて徐々に凋んでいく仕掛けであった。むろんチェーホフの同作には登場するはずもない代物だが、当事者としては1972~73年における「モスクワへ=東京へ」の虚妄を「巨象」に見立てたかったのだと思う。

[*2] その後取り壊された八戸市民会館は、二階ギャラリーまで3メートルはあり、公演当日には種々のスローガンを記した垂れ幕が張りめぐらされていた。その一画、長い梯子のてっぺんに(「桜の園」には登場しない)舞台を終始見守っていた「父」が、終幕近くにいたって自ら絞首台に赴く。いいかえれば「全望する視点」というより「もう一度見させられる視点」であるこの梯子は、もともと絞首台でもあったということが気づかされる。

[*3] この二十曲の作詞作曲およびヴォーカル・ギターを豊島重之が担当した。その何曲かは友人のロックバンドが助太刀してくれた。豊島はウタウのではなくガナルだけなので、声嗄れして二十曲はもたなかったから。

[*4] こういう指摘が1973年にあったということは、八戸とか東京とか西日本を問わず、きっとあったにちがいないし、現在の演劇批評の書法を再考する意味で、少なくとも資料的な価値はあると思われる。

[*5] 評者の小寺氏に私が当時強調していたことは、淡白=なにげない、に付け加えて「ノンサンス=非意味」であった。「ノンサンス=アナーキー」ということは、おそらく2010年の現在でもなお伝わりにくいニュアンスではなかろうか。

[*6] ここが評者の限界である。しかし1973年の時点で、この物言いを厳密にフェミニズム批判できるかというと、そうはたやすくはなかった、ということだけはいえる。

[*7] いうまでもなく「桜の園」における桜の木に斧が入る音だが、この公演では巨象のドウと倒れる音でもあり、革命と戦争の世紀=映像と記憶の世紀が絶命する音でさえあった。しかしそのことまで評者に要請することはできまい。

[*8] ギャグの一例「円高の幸せのどこがえーんだか」。このセリフを吐いて客席の爆笑を買った姉ワーリャ役の鈴木芳雄は、じつは豊島演出の右腕として美術・衣裳製作を担当していた。そして1983~86年「アテルイ」の美術・衣裳を担当したあと、モレキュラー「f/Fパラサイト」海外公演が始まるとともに、ワーリャのギャグそのままにその生を閉じていった。

[*9] 豊島重之が作詞作曲したなかでも「青空が傾いている」の印象深いリフが、この公演の秘かな主題でもあった。チェホフ以上に坂口安吾からのインスパイア、それを評者は見抜いていたからではなかろうか。

[*10] 豊島の脚本では、アーニャは盲目の娘として登場し、そうであるがゆえに梯子の上の父に最初に気づき、また顕微鏡のなかの「ゆうべとけさ」を取り違える。およそ評者が冒頭で叙述したように、この舞台は食卓に終始するが、それが朝食なのか夕食なのか最後まで分からずじまいである。

(初出:「デーリー東北」/昭和48年4月13日(金))