豊島和子と豊島重之・・・ダンスバレエ・リセとモレキュラーシアターの源流

豊島和子と豊島重之・・・ダンスバレエ・リセとモレキュラーシアターの源流

及川廣信(舞踊哲学・「アルトー館」主宰)

(1)「内的」なダンス=「皮膚の境界線上」のアリア

すべては豊島和子さんから始まった。

彼女の「内的」な独自な踊りが源流であった。

それは、内的と言ってもモダンダンスの心理的情緒でも、舞踏の内臓的なものでもなく、メソッドとしてのものでもなく、それこそ精神分析のキーワード「対象 a」につながる、彼女自身が持つ、皮膚の境界線上にある「内面の写し絵的」踊りの手法であった。たとえば、往年のイギリスの女流作家ヴァージニア・ウルフのように。

ところが、イギリスの「怒れる若者」ではないが、『ヴァージニア・ウルフなんか怖くない!』と言わんばかりに、弟の重之氏が登場した。彼は姉の和子さんのダンスに演劇の枠を嵌め、そのことによってダンスと演劇の枠を拡げ、その上に精神分析のキー概念を埋め込んだのである。それが東京公演からヨーロッパ公演へと評判を呼び、やがては写真や美術などアート全般への広がりをみせて今日に至っている。

(2)写真現像から<モノ自体>の現象学へ

そこで、この一文は「豊島重之研究」から始めるのが妥当かと思われる。

豊島重之氏の場合は、学生時代の写真の現像に当たっての経験が、その後の彼のアート活動に影響を及ぼしているようだ。暗室の中での現像の作業現場において、無の中から事物の映像が現われてくる。

カントの言う「知覚と意識の範囲外の<物自体>から突然表出する事物」を目前にして、日常の下層に覗きみた意識現象の様々。それが「事物がいかに意識の前に立ち表われてくるか」を対象とする、現象学という哲学に彼を向かわせたのか。この現象学は、カント、ヘーゲルを経てフッサールによって確立されるのだが。

しかし、彼の場合は観念だけでは満足できず、その実践活動の場としてアートへの道に進むことになる。

(3)リアルの現実感から<モノ自体>のレエール=現実的なものへ

ただ、カントの「知覚と悟性と理性では捉えられない<物自体>」は、ヘーゲルの精神現象学では、どのようになっていくか。「精神はそれだけで現実に存在するわけがなく」、意識の裏側に纏い付いている目に見えないものが、精神の動きを「正・反・合」の弁証法に作動させることになる。

そして、求めていた根源的なものは、向こう側にはなく、精神の働く意識そのものに、言語を通じて構造化された意識の「構造」自体にあった、ということになる。やがて、「目に見えないもの」または「意識下にあるもの」がフロイトによって<無意識>の領域として発掘される。

その後、フランスのコジェーヴやイポリットによるヘーゲルの新解釈がなされ、その影響下にバタイユやラカンの思想が生まれた。ラカンの精神分析においては、日常の<現実=リアル>という意味が逆転され、<無意識>の領域こそが<現実=レエール>となる。

カントの記述した、誰も触れることのできない<物自体>が、ここで振り出しに戻って、我々の現実となったわけである。

だが、豊島重之氏はこの現象学の歴史的発展の最終段階において、どのようなスタンスを保っているのかは、私としては判定できていない。

(4)目的=結論ではなく経過=プロセス自体の実践へ

豊島重之氏の場合は、意味とか価値とかという概念よりも、前記の現象学の歴史転回のような論理の反転、逆行の、意識の<からくり>や、実験的な場の設定の彼の特異性をこそ見るべきである。

たとえば、パフォーマンスの、目的に向かっての経過=プロセスをこそ、逆に目的にする「performativity=パフォーマティヴィティ」の離れ技。これはイギリスのオースティンの「ことばがそれを読む人の行為をうながす」という行為遂行的=パフォーマティヴを受けついでいるとは言え、豊島重之氏の独自性はある。なぜなら、ヘーゲルの弁証法を(その絶えざる否定性の運動を絶えざる肯定性の運動へと)新解釈したものが彼の「パフォーマティヴィティ」なのだから。

(5)行為・知覚のアフォード=能産性から体表・地表のダンスへ

ちょうど心理学/環境認知論の立場で、ギブソンが視覚と運動性との関わりから「affordance=アフォーダンス」という説を主張し、それをタレルが照明の技術によって空間の中に実現してみせ、さらに人間がいかに光と色彩を感じとるかを特殊な装置を作って観客にそれを感じさせたのと類似している。

アフォーダンス理論は、我々を<モノ自体>との硬直した相対関係から解放し、地表や体表とのしなやかでインタラクティヴな行為や知覚をアフォード=備給・支持・創出してくれる。

豊島重之氏は、行為そのものを言語学的に構造化し、さらに行為の指向性と目標を建てる意識そのものを精神科学的に分析し、具体的にそれを演劇化しており、また観客を取り込んだセッティングを作って、そのための実験的な場としているのである。

(6)リカレント=再帰的な思考・実践に基づく最先端のアートへ

さらに補足、追加しておきたいのは、現在の世界の思潮を先導しているギデンス、ハーヴェイ、カステルらの社会学が唱える「再帰性」についてである。再帰性とは、これまでの近代から現近代へと、モダニティからポスト・モダニティへと進行する一方向の「線的な歴史」的思考判断を逆転させる、まさしくモダンもポスト・モダンも、構造主義も後期構造主義も「共時的」に見ようとする再帰的思考である。

そこに歴史の読み直しと、視点を変えた解釈によって見捨てられていたものを探し出して、新たな文化を創ろうとする意向がある。また政治と経済が先行してきたこれまでの歴史を、文化が政治と経済を先導するように変えようと言う意図もある。

豊島重之氏のバタイユ・カフカ・ヴィトカッツイなど1920年代の作家に対するこだわり。また近代以前の日本の「伝統」をも取り込んで、東北の一角から文化の「脱構築」を狙う動きは、真に「再帰的」な行動なのである。

(7)皮膚なき<モノ自体>の「孤高のダンス」へ

ここまで豊島重之氏の展開を辿ってきたが、ここで最初に戻って、原初であった豊島和子さんには「再帰」ということがないのだろうか、とふと考える。彼女は太陽のように永遠に反復するだけなのだろうか。

それとも、いつか、だれかが、彼女のもとに再帰するのだろうか。

私には、内側に表出できぬものを抱え込んだまま立ちつづける彼女の姿が彷彿とする。彼女には観念とか、概念とか理屈という回りくどいものは関係ないのだ。

<彼女は、ただ彼女だけを知ろうとしている>。

(2006年6月22日)

(初出:「PANTANAL 2006」)