《ガタリの消息 —— Sondage à Félix Guattari 》

《ガタリの消息 —— Sondage à Félix Guattari 》

豊島重之

アルトーの顔、ヴィトカツィの顔、そしてカフカの顔。

奇しくも同時代のこの三つの顔をさし貫くゾンデ=消息子。

デリダでもシュルツでもベンヤミンでもないとしたら、

それはガタリである。

たとえば生成変化・リゾーム・機械状無意識のガタリ。たとえば顔面性/顏貌性批判としてイェルムスレウ由来の「シュプスタンス」[*1]を転用するガタリ。

シュプスタンスとは記号表現におけるモノ・実質・実詞のこと、それも現に微細に群衆的に重奏している作動成分のこと。単に閉ざされた図に対する、開かれた地(ジ)であるに留まらず、その図が膠着させられた形相であるぶんだけ、随処に亀裂と滑落をはらんで揺動する、不可視の地(ジ)の記号的実質にあたるものだ。

この一文の書き出しが、すでにして「シュプスタンティフ=名詞止めを多用する実詞の用法」ではないか。それは、顔の「物語=表情と/のマチエール」ではなく、顔の言語運用そのものであり、顔のタピスリー=条理空間ではなく、顔のフェルト=平滑空間の「抽象機械状=マシーニック・アプストレ」[*2]と呼ぶほかないものである。

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ここで、肖像画をめぐってアルトーの口をついて出たシュブジェクティル=基底材[*3]を想起しないわけにはいかない。むろんヴィトカツィが火のように拘泥しつつ、斧のように放棄してみせたチスタ・フォルマ=純粋形式[*4]もただちに浮上してくる。そしてカフカの判決・命題・死刑宣告=ウアタイル[*5]。ウアは始原・真正・根底、タイルは部材・分割・要素。いわば「ウア-タイル=原-可分性/判-断力」。とすれば、ガタリの消息子もあながち的はずれではあるまい。顔のシュプスタンス、顔の実詞とは内なき外、外なき内のことなのだから。

ガタリが私のもとに訪れたのは、唐突である以上に符合的、いや整合的でさえあった。モレキュラーなる劇団名の由来はもとより、D/G=ドゥルーズ/ガタリ『カフカ——マイナー文学のために』に多くを負う舞台『f/Fパラサイト』東京初演[*6]の二ヶ月後のことだったのだから。

実はこの舞台はアッという間にできた。手と口を演劇の手口とすること、手紙を手と口にタイル化・フォルマ化してしまうこと、いわば「身体なき器官」の演劇である。そこにカフカの「ウアタイルと父への手紙」が、プロジェクティル=投射体を織り成す。「身体なき器官」の手と口は、アッという間に「器官なき身体」に裏返ったらしい。

私の父の死[*7]がこの作業を早めたというより、その死体が私の中に起立してやまなかったからであろう。シュプスタンス/シュブジェクティルは早くもここに消息している。そしてアッという間にガタリは、私のこうした「判-断力」の臨在に立ち会うことになったのである。

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むろん同じ精神科医としても話は尽きなかった。ガタリは私の住む地方独特の憑依性精神変調[*8]の話やアートセラピーの現場に眼光を鋭くさせていた。制度分析ならぬ、制度「論的」分析[*9]に徹していたガタリは、アートセラピーに懐疑的であったし、私の勤務する施設=病院それ自体をけっして是認しなかったからである。

もっぱらゾンデ=消息子を、個体とその家族、ひいては共同体の一単位の「内面」に差し向けるのが旧来の精神分析だとすれば、近代=国民=国家の臍帯を依然として引きずる権力システムはもとより、医療・教育・交通・物流・経済システムを始めとする制度の「内面」を、精神分析するだけでは充分とはいえない。制度分析は、たとえば「霊柩車の起源」であるとか、「こどもの誕生」であるとか、すなわち、かつて〈こども〉はいつの時代も〈こども〉であったわけではなく、近代のある日、学校制度と徴兵制度と、労働の商業化から産業化へのプロセスとが交差した、ある日、〈こども〉は〈こども〉と呼ばれるようになる、といったような物語分析に終始しがちである。

ガタリのいう制度「論的」分析とは、そうしたものではない。旧来の精神分析が無批判に繰り返してきたのは、「内面」のなかに「内在の次元と超越の次元」を補完構造と見立てて、本来は何物でもなく何物ともなりうる「内面」を、精神分析的「主体」として膠着化することに等しい。いっとき噴出した自己責任論や自己決定権も、メディア=権力による大衆操作にほかならず、それに対して私はいつも「非-自己 責任/自己-非決定」から思考を「再-開」することにしている。

ガタリもまた、すべての施設がどれほど権力にさし貫かれていようとも、それを単に廃絶すればよいというものではなく、たとえば精神科施設を、内在の次元にも超越の次元にも固定化しないための「アンスティテュシオネル=制度論的」な実詞の用法を、ラ・ボルドーで実践していた。だから当時の私の病院では栄養師や給仕職員はもとより、清掃業者・仕入れ担当者・洗濯業者の出入りの数々、それを医師や看護師が週に何回、担当するかという「ダイアグラム=(私のタームなら)シュプスタンティフ」をしきりに訊いていた。

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ガタリとの対話から私が意を強くしたのは、セラポイティックという診療概念から「オペラシオネルという作動概念」への転轍であった。私の演出による演劇『パラサイト』[*10]を見て、ガタリはその語を口にしたのだが、精神科医療の現場への援用はあらゆる意味で難しい。徹頭徹尾、当人の自己治癒力を抽きだすことにかける姿勢、それがオペラシオネルの含意であり、しかも自己治癒力そのものにこそ、ミクロポリティックな「ソシウス=社会体」を見いだすはめになるからである。

苦闘は続いている。

訃報をきく数ヶ月前、ガタリと東京で再会し、宇野邦一氏・花村誠一氏とともに[*11]酌み交わすことができた。「絶対演劇」を消息子とした新作『B/B肖像画商会』[*12]はほぼ完成していた。ガタリから遠く離れて創りあげたはずのものなので、真っ先に見せたい相手もガタリだったはずだ。

それは訃報の直後、ワルシャワで上演された。そこにもうひとつの死体が起立するのを見たという確信が、私にはまだない。

(初出:青土社「イマーゴ」1992年12月号 /それに若干の加筆を試みたもの)

[*]筆者による(初出にはない2009年の)補註:

[1]       「substance」。初出では後述のシュブジェクティルと一対をなすように「シュブスタンス」と表記された。ここでは元々のフランス語の発音に戻して「シュプスタンス」としてある。英語のサブと同様、下層・劣性・伏在・基底ほか、さまざまな意味合いをはらんでいる。ちなみに「シュプスタンティフ」は、私が辞書から見つけて勝手に挿入したものであることを断っておく。

[2]       「machinique abstrait」。フェリックス・ガタリの著書『分子革命』や『機械状無意識——スキゾ分析』などに頻出する、単に無意識は機械状であるばかりか抽象機械状だという、ガタリ独特のキーワード。タピスリーとフェルト/キルトのほうは、ジル・ドゥルーズとの共著『千のプラトー』のなかでも、あまりにも有名な「戦争機械」の章からの引用である。

[3]       「subjectile」。この一語は、当時=92年、みすず書房から刊行されたばかりのポール・テヴナン編/松浦寿輝訳『アルトー/デリダ ——デッサンと肖像』に登場する、いわば骨盤的なタームである。出てすぐ買って一読二読、感触を得るまでに悪戦苦闘した記憶がある。アルトー研究の及川廣信氏と何度も対論して、大づかみながら感触を得た、まさにそのときガタリの追悼文を依頼されたのは、単なる偶然だろうか。

[4]       「czysta forma」。ポーランドの前衛芸術家、スタニスワフ・イグナツィ・ヴィトキェーヴィチによるデッサン・肖像画・写真作品を収めた画集を、私はワルシャワで入手することになるのだが、その発端は、またしても及川廣信氏による90〜91年「アート・コンフェランス」だった。

[5]       「Urteil」。言うまでもなくフランツ・カフカの短篇小説『判決=宣告』の原題。このタイルが「シュブジェクティル」のティルに通脈していたのだ。息子は父に「おまえはパラサイトだ、ゆえに死刑の判決を下す」と宣告され、そのとおりに息子は家を走り出て橋から投身するという、ナチズムの予兆を先取りしたような筋書きであった。無論、私には別の解読があって、それは拙稿『中度論』を併読されたい。

[6]       「f/F  parasite」。1986年11月、故・太田省吾氏率いる、当時、氷川台にあった転形劇場の「T2 スタジオ」で初演。テクストはカフカ『フェリーツェへの手紙』からの11の断章と、演出の豊島による自作「第12の手紙」。初めてモレキュラーシアターを名のり、「f=フランツ」を大久保一恵が、「F=フェリーツェ」を高沢利栄ほかが主演したもの。翌87年より海外公演に招待される。その87年1月、ガタリが訪八した。

[7]       偽書『東日流外三郡誌』で知られる十三湊で生まれ、中世の安東水軍の末裔でもある書家、号を豊島鐘城と称した父は、1986年3月、小雪「パラ」つく朝に逝った。末子である私に「硯で墨を擂(す)りつづけることだ」と言い残して。書をなすかなさぬか、その書が悦びをもたらすか否か、は問題ではないと。私には、そう聴こえた。

[8]       「possession psychosis/possessed disorder」。巫女=イタコやノロの祖霊憑きを始め、キツネ憑き・イズナ憑きなど、この群島の北端・南端のみならず、それぞれの「culture-bind」に即して全国に遍在する。私の住み暮らすエリアに特異な「馬憑き」について、ガタリは初めて聞いたと応じ、しかし、それが何世紀にもわたって騎馬民族が跋扈(ばっこ)したはずのヨーロッパ・中央アジアにない(きわめて少ない)のは妙なことだ、と漏らしていた。

[9]       「transcendental」。カント哲学における「超越的」ではなく、「超越論的」という事態を想起すべきであろう。精神分析的主体を存立させる超越的な次元を、そのさらに外部から問うことが可能なのかどうか。ガタリの「施設論的」という用法は、精神科病院を廃絶すれば済むものではなく、具体的に/実詞的に「メタレヴェル」の括弧をはずし、オブジェクトレヴェルとの絶えざる交渉を重ね、後述するように診療現場を「diagrammic」にしていく。

[10]    「parasite:versionable」。1987年1月、フェリックス・ガタリと国際交流基金から派遣された通訳の女性ほか十数名を招いて、現ダンスバレエ・リセのスタジオで上演された豊島演出による舞台。カフカの手紙が手書きされた角材による四隅の内部に、二台のオープンリール・テープレコーダーが連結され、角材の上を漏斗=ジョーゴ状身体が渉猟するという演劇であった。

[11]    「subjectivité」。92年の池袋セゾン・カルチュアセンターで行われたガタリのレクチュアは、まさしく「シュブジェクティル=基底材」と一字ちがいの、「新しきシュブジェクティヴィテ=主体性」をめぐってであった。

[12]    「Façade Firm」。1996年にアデレード・フェスティバルに招待上演されたモレキュラーの同作は、89年初演時には『B-talkie-Bits』、つまりヴィトカツィのテクストに基づく「B級映画の細片による舞台」であり、92年の絶対演劇フェスティバルでは『B/B 肖像画商会』に改編されていた。『f/F』から『S/S』へ、そして『B/B』を介して『F/F』へ。このあたりの消息を知る者は少ない。