比嘉豊光の写真=伴侶の秘蹟

比嘉豊光の写真=伴侶の秘蹟

豊島重之(ICANOFキュレーター)

(1)

今まで一度も思い及ばなかった一つの問いが、絶命寸前の男にふと湧き起こる。

「なぜ自分以外の誰も、ここに、この門を訪れようとはしなかったのか」と。

5年前なら、いや、昨日なら「語りたくなかった/語ることができなかった」ことかも知れない。

5年後には、いや、明日には「語りたくても、もはや語り得ない」ことなのかも知れない。

何を。誰も尋こうとはしなかった六十数年前の出来事を。

誰もが「国民国家の国語」で訊ねるため、みな、もどかしくも「そのコトバ」で応えざるを得なかったからである。

おのずと伝わるのは、落丁だらけの書物、それもせいぜい表紙・扉・奥付くらいではなかっただろうか。

圧倒的な米軍上陸に際して、「運命共同体」とは名ばかり、ただ本土決戦を一日延ばしにするためだけの「捨て石」に何が起きたのか。軍事機密化=絶滅収容所化された「離島」の日々とは、どういうものであったのか。「皇民化」以前の離島に吹き継がれた風と光りの日々は、どのようにして奪われていったのか。

「島クトゥバで語る戦世=イクサユ」。

「島クトゥバ」でなければ「語り」得ない「戦世」。

比嘉豊光の島クトゥバが、初めて、おじい・おばあ達の肉声に、六十数年の沈黙に耳を傾けた。

無論、故・比嘉康雄や故・岡本恵徳、高嶺剛や仲里効ほか多くの試みを忘れるものではない。

おじい・おばあ達は島クトゥバなら、いつでも、10年前でも語り得たのかと言えば、そうではあるまい。

比嘉は待った。おじい・おばあ達が口を開いてくれるまで何年でも待った。

「島クトゥバで聴こう」とする者がいなければ、「島クトゥバで語る」ことは在り得ないから。

(2)

では、カメラは、その「語りの場」に介在する異物=カメラとは何だろうか。

まさに比嘉のカメラは「語りの場」そのものであり、同時に、今しも生じつつある「もう一つの戦場」である。比喩でも誇張でもなく、文字通りの戦場。

おじい・おばあ達は、やり場のない憤怒と身を引きちぎる悔しさと底知れぬ悲嘆を、比嘉のカメラに浴びせるのだ。あたかも吐血するように。それを比嘉とカメラは平らかに受けとめる。

平(タイラ)かに平(ヒララ)かに平(ナダラ)かに、とりもなおさず、「全的=トタール」に、である。

「戦世=イクサユ」とは、六十数年前の出来事のみを指しているのではない。

琉球処分や同化政策の時代にまで遡らずとも、「沖縄戦/集団自決」以後の米軍占領下の「戦世」、さらには復帰/反復帰という「戦世」、そして冷戦崩壊以後/9.11以後に加速するネオリベラリズムの現在という名の「戦世」・・・。

恬淡とした島クトゥバの語りが、「きれぎれの戦世」をあぶりだすことによって、逆説的なことに「いくつもの戦世」の全貌をみるみる凌駕してしまう。

恬淡? むしろ憤怒や悲嘆を通り越して、語ることが当の話者にとっても思いがけない歓びにも似たアフェクトに転じて、すなわち、語りのエフェクトと語られた凄惨さのはざまに、噛み殺してきた時間が否応なく割り込んできて、そう言ってよければ、座りの悪い一滴の「カダリュード」こそが、失語的現在という戦世の「雷管=プライマー」を引き抜いてしまうのだ。

(3)

そうした重層的な場に、比嘉と比嘉のカメラは居合わせる。

そのこと自体、ほとんど秘蹟としか言いようがない。

これらの写真は、語るまいと心に決めた語りを(八戸弁=エミシ語で)「カダリ」始めた、語りの場の「無声の近傍」なのかも知れない。

その意味では、比嘉豊光は、語りの狩人=カダリュードなのだ。

そこには「チルダイ=かだるさ」という沖縄語も密かに伏流している。

その上、プレリュード=前奏やインタリュード=間奏に対して、cada-lude=終奏の含みもあるだろう。

しかし、何も終わらない。終わり始めるだけだ。

世界は毎夜、終わりつつあるが、「戦世」は毎朝、ネクタイを締め直して出勤する。

駅前のゼブラゾーンに「カダリュード」の旋律が響いても、近傍のアフェクトに気づく者はいない。ひとり比嘉豊光を除いては。

それは、あなたのための門であり、あなたのための戦世であり、あなたに向けて今しも語りだされる島クトゥバであったのだから。「あなた」とは誰のことなのか。もはや問うまでもない。

---

06年11月25日、前島アートセンター屋上でのICANOF沖縄展トークショウ

比嘉さんは「北の八戸から、この南の沖縄まで20数名も来てくれた、そこには確かな意志を感じる。とくにダンスに北の意志を。しかし北の写真/写真の北はどこにあったのか。誰か納得のいく言葉を発してほしい。」と、泊りの浦の湿気を含んだぬるい屋上の夜気を切り裂いた。

ダンスの若手がおずおずと口を開いた。「八戸では墓を一箇所に集めた暗くて怖い墓地のイメージしかないが、沖縄では民家のすぐ隣に広い墓庭があちこちに散在していて、死がとても身近な、開かれたものに感じました。」思わず私は言葉を継いだ。「それこそ〈ダンスは写真である〉ということじゃないか」と。

「皆さんがたった今、この目で見たばかりのダンスは決して写真には写りません。そのダンスは単に見た人の記憶へと消滅したのではなく、沖縄の墓庭のような〈開かれた死〉に埋蔵されたのです。」——開かれた死、それを私は写真と名付けている。(編者)

採録者註:編者=豊島重之氏

(初出「ISTHMUS/ICANOF2007」/2007.09.12)