ワタクシタチは一羽のヒワである

ワタクシタチは一羽のヒワである

豊島重之

今、6月22日の舞台公演に向けて多様なプランに取り組んでいる。

これはと思うテクストがあってキャストとスタッフが揃ってさえいれば、舞台芸術を始動させることができそうなものだが、私達の場合、演劇とダンス、映像と身体、声と音響、目に見える領分と見えない領分をどう配合させていけばいいか、これがなかなか難しい。

だから、稽古の現場では誰もが光のことを、それもできるだけ弱い光のことを何度も問い返す。

それが声なのか音なのか、映像なのか身体なのか見分けがつかないくらい弱い光。そこから光が生じているのか、それとも消え去ろうとしているのか、一人一人がそれを体感するためのワークショップが繰り返される。

テーマや情熱があればできるというものではない。むしろ、テーマや情熱が尽きたところから私達の現場は始まる。

ある日、宮沢賢治の年譜を眺めていた一人がふと口を開く。賢治は三陸大津波の年に生まれ、やはり三陸大津波の年に死んでいると。たちまち稽古場に、賢治の生きた暗黒の一九二〇年代の足音が、私達の生きている今の時代と重なり合ってよみがえってきた。『眼にて云う』。私達の小公演のタイトルもそうして決まった。

多様なプランは、舞台の内部のみならずその外部にも配されている。会場の天聖寺ホールとロビー全体を使った大規模な写真展と、詩人の吉田文憲教授による「賢治/出現罪」と題された講演会。

この両翼のはばたきに比べたら、私達の舞台はいかにも頼りなげな小鳥にすぎない。

およそ舞台上の身体は、写真の中の映像の深さや、語り口にこめられた眼差しの勁(つよ)さに射(い)すくめられてしまうものだからである。

戦慄をついばんで空低く飛ぶほかない小鳥のフォルム。そういう演劇こそが、真の意味で「総合学習の場」たりうるのではなかろうか。

時代は賢治を全方位的なテーマとジャンル、情熱と実践の人とみなしてきた。しかし、その詩や童話のどれか一篇でもめくってみれば分かることだが、賢治ほどテーマや情熱を厳しく排した人はいず、ただ青くしんしんとした底冷えの領分で、鉱物的なユーモアと幻覚的な光を「せわしく/活版印刷機のように、いや、食べるように、食べる代わりに、息を継ぐように」書き継いでいった人はいない。

そういう賢治の強烈な光を対極におけば、おのずと私達の作業仮説も輪郭が定まってくる気がする。

(初出」「デーリー東北」紙/2002年6月)