四角いベケット

四角いベケット

モレキュラーシアターのベケット劇

豊島重之

(1)カタストロフィ・ディストロフィ・アポストロフィ

アイリッシュのボノは歌う。イングリッシュのレノンが歌う「イマジン」の時代は去ったと。P=平和を夢みたりP=問題を論じるだけの側に立て籠るのではなく、今やアフリカの内戦や貧困に具体的にR=呼応して実質的にR=解決する側に回る時だと。この時この瞬間にもアフリカの子供たちはdystrophy=飢餓やAIDS=エイズで毎日八千人ずつ死んでいる。これはあのNYの同時多発テロが一日に二回以上起きている数に相当すると。世界的なロックスターU2のボノだからこそ各国首脳に直接会えて ODA(途上国援助)再検証を訴えることができる、そのことに違和感を抱く人もいよう。だが少なくとも彼が歌に込めた「co-exist=共-在」に私は raise=レイズ/励起される。このグローバル化/ネオリベラル化の猛威とも言うべきcatastrophe=カタストロフィが加速する中で、共に在ることはどうすれば可能なのかと。今日死につつある「ディストロフィ=無力な生」と明日死ぬことを知らない無力な生とが共に在り続けることは。

「共に」とは、同時・同所を異時・異所へと、無力なままに振戦=ヴィ・ブラートさせることだ。かけがえもなく近接した「死後の生=シュル・ヴィ」と、絶望的なまでに見分けがたい「遠隔の生=テレ・ヴィ」とを「co-R-io-L-is=コリオリの見かけの力」任せに旋回させること。私はその旋回の唱法を、ギリシア悲劇成立前の祭祀劇における khoros=コロス/舞唱隊が相聞(そうもん)歌さながら交互に繰り返すstrophe=左方旋回とantistrophe=右方旋回の応答に見出す。最後は決まって、ストロフィとアンティストロフィの群唱する移動が同時にarise=アライズ/来起するカタストロフィ=大団円。私にとって「懐かしい顔(オハイオの項で後述)」の一人でもある故・高橋康也氏訳では大詰め。その裏地に前述した破局・災厄のコノテーションがあったのは言うまでもない。

アジア・アフリカ・アラブ・南アメリカの「AA」のみならず、内戦や貧困を輸出し続けることでどうにか体面を保っているアングロ・アメリカの「AA」に囲い込まれたsubaltern=口を封じられた移民・難民・下層階級にとっての「co-exit=出口の共-起」。ここで「S」がellipsis=省略されてellipse=楕円軌道を描いていくことに留意しておこう。「S」の脱落は単に主体・所有格・複数形の蒸発を意味しない。同時に、それは何処から到来したのか誰に差し向けられているのか知る由もない、つまりは何処からでも到来しうる、あなたの許へも着信しうる「apostrophe=唐突な呼びかけ/頓呼法」を示唆するからだ。眠れ眠れと囁くような言説や掌篇にいきなりフスターバチ=起きろというallophone=異音が混信するにも等しい頓呼法。こうしたアポストロフィの楕円軌道を駆使した作家こそ、ボノと同じアイリッシュのサミュエル・ベケットその人である。

(2)CO-EXITは同時に四方向にCO-EXISTする

二〇〇六年がベケット生誕百年だということに、とりたてて意味はない。事実、私たちモレキュラーシアターは二〇〇五年に生誕九九年と称して「ベケット東京サミット」を国際交流基金フォーラムで開催し、のみならずベケットにおける演劇と生政治学、とりわけ収容所のanomaly=アノマリーとしてのベケットに照準を絞ったコロック=討議が収録された『写真集パンタナル』(表参道ナディッフ・丸善丸の内本店で発売中)を出版している。作品の地勢にどう数を埋め込むかという特異な数の奏法に限れば、ベケットの右に出る者はいまい。八四年にグローヴ・プレスから刊行された小品集にベケット自身が冠したタイトル『DISJECTA(-membra)=散乱した断片』からも察せられる通り、いわば恣意的な、(memberには四肢・文節・数式の辺や項の異義もあることから)中間項の散逸=ディスジェクションこそがベケットの流儀なのだ。二〇〇七年に生誕百一年と称して、二〇〇八年に没後十九年と称して、何事かが成されようと/What Where/拒む理由は何処にもない。

とは言え、世田谷パブリックシアター企画制作「ベケットを読む」というリーディング上演二本を柱としたプロジェクト(会場シアタートラム)は特筆に値する。ベケット後期の散文『また終わるために』は、二ヶ国語で書くpalimpsestの作家ならではの仏語版・英語版が七六年に相次いで出版された。どの一語も、焼却された仏語のその地点に烙印された英語はその居心地に戦(おのの)かずにはおれず、稀に幸いにも重ね書きされ得た二語もまた、吹き荒れる寄る辺なさに戦(そよ)ぐばかりのパリンプセスト。太田省吾演出は、その中から二篇だけ、英語版からの故・高橋康也訳「老いた大地よ」と仏語版からの宇野邦一訳「ある夜」だけを厳しく選び、それぞれ二人の俳優・観世榮夫と鈴木理江子に割り振る。この「四人のco-exist」の精度は深い。しかも死者に扮した生者/生者に扮した死者のための花道つき能舞台さながら、ロープで張り巡らされた「出口つきクワッド」。冒頭のけつまづくフォルムを交差次元へと射影させたトポロジカルな終曲に至って、老女とその影/横臥する男とその映し身を「四滴のco-exit」に一変させる。これほど透徹した太田省吾によるベケット劇を、ドゥブル=分身やドッペルゲンガー=二重身といったタームでは捉えたことにはなるまい。

(3)RRのベケットとLLのベケット

私たちモレキュラーはベケット後期の戯曲二本のリーディングに挑戦した。八一年、オハイオ州立大学「国際ベケット・コロック」初演の『Ohio Impromptu=オハイオ即興劇』と八二年、アヴィニヨン演劇祭「ハヴェルのための夜」初演の『Catastrophe=カタストロフィ』。いずれも故・高橋康也訳に基づく。ちなみに八一年はモレキュラーが東京初公演にトライした傍ら、世界で初めてAIDS=後天性免疫不全症候群の名称と症例が北米から発信されたことで記憶に新しい。ベケットにとって八一年と言えば、戯曲『Rockaby=ロッカバイ』がNYなどで初演され、その前年に英語版・仏語版の順に出版された散文『Company/Compagnie=伴侶』と交差的な対構造/キアズマを成す散文『Mal Vue Mal Dit/Ill Seen Ill Said=見ちがい言いちがい』が仏語版・英語版の逆順に出版された年。前期の小説に比べても、もはや小説らしき結構を留めぬどころか、その抹消された痕跡の細部をピンで縫いつづめたかのような二作。しかも『オハイオ』と『カタストロフィ』の直後には、テレ・ヴィジョン作品『Quad=クワッド』と『Nacht und Traume=夜と夢』が南ドイツ放送で八二・八三年に初放映されている。これらのことを抜きにしては、なぜモレキュラーがこの二作なのか、見落とされてしまうだろう。

まず『ロッカバイ』が前期の『Krapp’s Last Tape=クラップ最後のテープ(RL)』ロンドン初演の濃縮された焼き直しであり、キャストの性ばかりか演劇の性までも転換してみせたvariant=異稿であることに異存はあるまい。終始「W」がロッキングチェアにrestrict=拘束されているのも然り、V=声をドゥブル化したW=女性だけをとっても『クラップ』からの変奏は明らかだ。五八年『RL』では、老いた男は眼前に置かれたテープレコーダーをやおら操作して、かつて録音してあった自分の声/声が語る物語を聴く。それは揺れる小舟/揺れる恋をめぐる物語であり、それさえも巻き戻されては聴き直されるロッキングの物語であった。しかも過去の自分の声を今の自分が聴くという、絶えず過去化を余儀なくされる現在を、絶えず現在化を迫る過去性の強度に転倒してみせる上演でもあった。

それに対して、老いた女のロッキングチェアは下手=audience leftに限定され、上手のどこにもテープレコーダーは見当たらない。しかし彼女が「More」という発語とともに椅子をロックし始めると、 audience rightの暗がりに「her recorded voice=録音された自分の声/声が語る物語/しかも終わりつつある物語」が聴こえてくる。それが厳密に四度、繰り返されるのを忘れないでいよう。椅子をrockすることでR=声の物語をL=聴くことができ、lockすることで「R」も「L」も中断されるが、そのため却って自らのleft=置き去り・残余・放置という「LL=illocation/場所からも見放された病んだ場所性」に撃ちのめされることになるからだ。後期の『ロッカバイ』を前期の『RL』に折り重ねてみるなら、そこに「RR/LL」というアルゴリズムが浮上する。

(4)口述/筆記のシアトリカリティ

『オハイオ即興劇』の書き出しはこうだ。 ---L=Listener(聞き手)/R=Reader(読み手)/二人の外貌はこの上なく似ている(alike in appearance)。---そして矩形のテーブルの上手=audience rightの角隅を挟んで「L」が正面向き左に、「R」が横向き右に、終始二人とも顔を伏せたまま。要するに「R」の字形を裏面から透かして見た「Я状」の、牛耕式運筆法にも似た配置、もっと簡潔に図示すれば「L」の字形をトポロジカルに反転させた「┐状」の配置と言える。「R」が末尾近い本の頁を左手でめくり、「Little is left to tell=語るべきことはもうほとんど残っていない(LL/LL)」と読み始めるや否や、「L」の左手のノックによって制止され、遡って同じ箇所を再読しなくてはならない。ノックと読みの繰り返しに挿入される「間」の散見から、ノックがなければ物語を読み続けていいらしい。knockとrockがnoとright/yesのアナロジーであるのは『ロッカバイ』を参照するまでもない。それにしても「懐かしき顔とその使者」とは誰か。この「終わりつつある物語」とは何か。そもそもこの「L」と「R」の対とは何を指しているのか。既にもう、その解はほぼ出揃っている。

『カタストロフィ』の書き出しにもまた「終わりつつある物語」はあらかじめ告知されていた。 ---D=Director  演出家/A=His female assistant  演出助手、女性/P=Protagonist  主人公/L=Luke, in charge of the lighting, offstage 照明係、本名ルーク、声のみ/R=Rehearsal  稽古風景。ある劇の最終場面の仕上げの最中である(final touches to the last scene)。---話す主体と聴く主体との、物語ることとそれを上演することとの入れ子構造と捉えられがちな『オハイオ』と同様に、この『カタストロフィ』もまた、上演では窺がうことのできない空模様が露わとなるリハーサル自体をそのまま上演するという、言い換えればリハーサルという虚構をいささか露悪的に上演素材と化す、クラインの壺めいた複層構造だと見なすのは、ある意味たやすい。早すぎたメタシアター/ミニマルなフォーマリズム演劇/上演のメタ・ナラティヴ。しかしそれでは、ベケットの企らみの大部分を見逃してしまうだろう。

この二作を並立させることで何があぶり出されるのか。第一に、一見して対称性と見なされる事態には、いつも絶対的な非対称性が隠蔽されており、実は後者が前者の事態を吊り支えているということ。『オハイオ』のRとLが物語上は石に変じて一体化したかに思わせつつ、上演されるのは正対した二人のlong observation=長い観察、とりもなおさずwrong reservation=過った滞留であったことからも明白だろう。第二に、口述=dictationには四つの主体/身体によるlaw=法の地層の権力論的な褶曲、いわばraw replicant=出来損ないの(ヒリヒリした)複製/written ruins=書かれた廃墟があるということ。それを次に示そう。

仮に舞台上でディクテートする人を「読む人=R/語る人=LL」とすれば、そこにはディクテートさせる人=口述通りかどうか「聴く人=L」、即ち「再び聴く=rehear/再審問する」主体も臨席している。その二人と同一人物であるかどうかを問わず、実は舞台以前に「R」にディクテートした三人目「RR」がいるはずであり、彼こそ演劇が上演される場「再審問の法廷=rehearsal」をしつらえた張本人なのだ。冒頭の外貌=appearanceに埋め込まれた内耳=earの出頭=app- ear-ance。そう言ってよければ盲者、もしくは亡者である。それならその書き取り=dictateをした「聴いて書く人=LR」も、舞台袖に、いやむしろ舞台上にいて何の不思議もない。しばしばこの四人目は舞台袖に身を潜めるprompter=蔭ゼリフ・後ろ見と呼ばれるが、そのprompt=迅速・敏捷からimpromptu=即興劇が履歴しているのは周知の通りだ。声を封じることで声の物語をリハースできる、主体を沈黙へと強いる「書く身体/書字=身体」なしに「口述」はあり得ない。

(5)演劇は死んだ、演劇せよ

『オハイオ』では潜在的な次元にあった「D・ A・P=DictAPhone/口述録音器」が、『カタストロフィ』から逆照射されることによって、L・Rの聴く・書く・語ることの生政治学を喚起する。 DとAのagony=言い合いに終始するかに見える劇中で、主人公Pは読みも語りも禁じられ、その上、一字だって書きはしない。「More」の一語だけなら四度だけ発するのを赦されている『ロッカバイ』とは異なり、rockやlockの可能な椅子も持ち合わせず、RとLの往還さえ与えられてはいない。ひたすら「D=dictator/口述筆記を命ずる者=独裁者」の言いなりに、そのmember=手足となって筆記・復唱するA=antagonist/敵役の為すがままにP=protagonistは為されるがまま。そうだろうか。「pro-」と「anti-」の接頭辞を省いたagony=受苦はどちらの側にあるのだろうか。

確かに前半はPにある。けれどもDが客席の darknessに姿をくらまし、声だけと化して再度リハースを促して以後は、Aを貫いてDにもたらされる。もとより前半からDはなぜか直接Pに触れる手足をもぎ取られた、エイズ同然のD=deficiency/不全の口であったことを想起しよう。首だけにスポットを絞り込まれたPはラストで客席の「DD」をにらみ返す。これを単にD支配によるP隷属の転倒だと考えることはできない。口も動きも奪われたPの鋭い眼差しは、観客=Aという「もの言わぬ権力」の一人である己れの不能に切り返されたものだからである。では「秘匿されたagony」はどこにあるのか。それこそ斬首の光景を出廷させた light=光/照明係に求められる。そう、一人だけルークという本名をもつ声の主=lordである。

『カタストロフィ』と並行して書かれ、翌八三年に放映されたテレ・ヴィジョン作品『夜と夢』は、右耳を見せて画像の左下に座すdreamerと左耳を見せて右上に座すhis dreamt selfによる、いかにも鏡像的なドラマであるとともに、それに左右されることなく「R=読む声」を欠いた「L=光/薄暮の残照」の物語でもあったと言うことができる。確かに右側の夢の画像にはdark beyondから誰のものとも知り得ない左手や右手が現れて、それとなく聖性の表象を奏でてくれる。しかしそれ以上に私たちを震撼させるのは、左側の夢見る人に訪れる/「OTO=オト」ズレる、それも二度だけ低く流れるシューベルトのLied=歌曲のlast 7 bars=終章7小節ではないだろうか。「O」で始まり「NachtとTraumeのT」を二度反復して「O」で終わる。もはや聴く行為や主体が問題なのではなく「OTO=耳」という器官そのものが物質化され全面化したかのようだ。『夜と夢』は、聴覚の表象から解離された「演劇の耳骨」であり、酷薄なまでに変奏された『O-hi-O』に他ならない。

『クラップ』に登場したテープレコーダーは『ロッカバイ』で消息を絶ったかに見えたが、すぐさま『オハイオ』にディクタフォンとして復活し、それもテレ・ヴィジョン『夜と夢』では姿を消す。しかも前述した『写真集パンタナル』誌上で鵜飼哲氏は、鏡像の狭間に明滅する薄暮の残照を「反–光」と呼んでいる。かつて「想像力は死んだ、想像せよ」とベケットは言った。ならば私たちは「演劇は死んだ、演劇せよ」と息を呑むことだ。そうして「死後の生/遠隔の生」のダイアグラムをまずは現働化してみることだ。

(6)失語・失明・失書のエクリチュール

「ベケットを読む」の初日、『老いた大地よ/ある夜』上演を終えた太田省吾レクチュアには、多くの聴衆にとって耳慣れないキーワードが響いていた。一つはde-personalization=離人症。もう一つは自明性の喪失。ベケットと演劇、なかんづく後期の演劇にアクチュアルな投網(とあみ)を掛けるとしたら、こうした精神病理学的なタームもいまだ、ある種の有効性を担っているのではないか。少なくとも私にはそう思えた。二日目にはコーディネーターも兼ねたフランス文学思想の宇野邦一氏が、 de-vocalization/de-phony=離声症なる造語をベケット理解のゾンデの一つに挙げたのも、太田氏の提起を受けてのことである。

離人症は、人離れ/退きこもり=withdrawalのことでは無論ない。自分の皮膚に触っても触った手応えがなく、これが自分に帰属する己れの皮膚だという気がしない。いつも通い慣れた道を歩いていても「この」自分が歩いているという実感が得られない。それに加えて街じゅうの人々がプログラム通りに振るまい、わざとらしく演技しているようで、妙に周りがよそよそしい。見るもの触れるもの、そのことごとくが、どこかペラペラの写真みたいで、立体感・遠近感・現実感を脱色させたとしか思えなくなる。---臨床現場にあって現在ますます急増しつつあるのは、こういう「自明性の底が抜けた」も同然の愁訴なのだ。

離人体験は、いわゆる統合失調症の端緒であり、しばしばその初期症状と見分けがたい一方で、他方では、決して自明性の崩壊/統合失調症には進展することのない、いわばアンシャン・レジームたる神経症圏に限定された、ごくフツーの身体表現にすぎない。普通が不通として通るsomatoform disorder=身体表現性障害。人が人たらんと、己れが己れたらんと、表現が表現たらんとすれば、そのトートロジーは必ずや「離人」という回路を内包せざるを得ない。人称性の強度が稀薄化して、身体性/場所性の底が抜ける。としたら、ベケットによって解きほぐされた「微光のフィーブル=繊維」が今こそ参照に足るのではないか。

この離人体験もまたRとLの subjection=隷属下にある、と述べたら耳を疑うかも知れず、もう充分聞き飽きたとobjection=苦情を洩らす人もいよう。空間把握や直観思考に長けた右脳が左視野を含む左半身を統御し、言語把握や論理思考に長けた左脳が右視野を含む右半身を統御することはよく知られている。左脳の前頭連合野のobjection=故障による運動性失語=aphasiaでは、言葉の意味は理解できても話すことができず、場合によっては失読=alexia/失書=agraphiaに陥いる。左脳の側頭連合野のdysfunction=不随で言葉の意味が理解できないために起こる感覚性失語との違いは歴然としている。さらに右脳のdisintegration=不全では空間失認=agnosiaや失行=apraxiaや表情の読み取り不能からくる無感情=apathiaのため、本来充全なはずの会話能力も劣化してしまう。こうした入射角からも離人感を検証していかなくてはならない。

もう一つ、デジャ・ヴュ=既視体験とジャメ・ヴュ=未視体験。前者は初めて訪れた場所なのに以前「ここ」に来たことがあるという身体知覚、後者はふだん見慣れた光景が初めて出くわした場所に思えて「この/ここ」という浮力に囚われてしまう身体知覚を指す。両者とも視覚上の錯覚ではない。同様に離人症も視覚の誤認では毛頭なく、身体性/場所性の深部知覚の変容、即ち「tautological=同語反復的な触覚=tactility」に反照する存在覚の破綻という事態なのだ。『夜と夢』の「OTO」はここに響いている。肝腎なのは、耳の左右差が右脳と左脳の上述したキアズマ=交錯を排して、右耳で聴取したものは右脳に、左耳で聴取したものは左脳に直達するということ。「四滴のco-exit」はここにも見出される。

かつてフロイトは失語/錯語の神経解剖学的探究から、シャルコーのhysteria講義に触発されて神経症とその精神分析を発明した。現在、ヒステリアも神経症も登録抹消の上、conversion disorder=転換性障害とdissociative disorder=解離性障害に大別され、離人症は後者に再配置された。だが、フロイトの失語/錯語する身体への着想の確かさは、『オハイオ』末尾の「expressionless=表情/表現を欠く」存在の裸体に結実している。時に無防備な表情を晒していた身体は、今やどんな表情の薄氷すら粛々と解凍装置にかけられるまでに、生政治学的な徴候にくまなく浸されているということだろうか。

(7)プロジェクション・ディスジェクション・パラジェクション

私たちモレキュラーは、トラム上演の三週間後、沖縄県那覇市の前島アートセンターでの新作に臨んだ。田島千征・斉藤尚子・武部聡美ら六名による『CORIOLIS=コリオリ』は、蛍光管四本を配したクワッドにdiagonal=対角の亀裂をうがち、その「」状のdi-agonyの内縁と外縁に「R=書く身体」と「L=書かれた文字」を旋回させる。フランス五都市公演の前作『OS- IRIS/OSCILLIS(オシリス/オシリス)』のセルフ・リファレンシャルでもあるかのように。しかし田島らは決して、ここが沖縄であることを坐視しない。六名とも頭部を米軍基地の横流しから入手した英字新聞で何度も梱包し続ける。新聞紙が破けて千切れようと頭部が裂けて捲れようと。そこには微光の繊維化に徹するタスク・ダンスの戦意が見てとれる。

苫米地真弓は、コンクリート打ち放しの地べたに寝かせて並置された十四個のAゼロサイズ箱型写真を踊り場と見なして飛び石づたいに跛行しつつ、「写真面=足裏の接地面/己れの拠って立つ場所性」そのものをバーナーで焼却し続ける。故ジャック・デリダへの投函しそこねた私信『FOTEU LA CENDRE=フォトゥ・ラ・サンドル(写真/ここになき、灰)』。果たして苫米地のひかがみや土踏まずが、「abjection=おぞましくも焼け焦げて灰燼」と果てた「イマージュなきイマージュ/イマージュのイマージュ」の焦土をどのように「リヒア/リハース=再審問」していったのだろうか。

その返信がたちまち翌晩、苫米地自身によってアクチュアライズされる。題して『八分八八秒』。前島ギャラリーの白い壁面にフィックスの白光プロジェクション。客席に手持ちのプロジェクショナーがいて、そのフレームに投光枠を合わせようとすればするほど微妙にブレてしまう。どうしても二重フレームが僅かにフレ=振れ/触れてしまうのだ。直ちにそれが私たちに告れるのは、「ergon=作品/労働」に対する「para-ergon=額縁・外縁/罷業」のフィギュールであり、前記(2)に言及されたディスジェクションの活断層でなくて何だろうか。

告れるとは「触れることなく触れる」ことであり、であればこそ触れるとは「告れることなく告れる」こと以外ではない。絶えず出自を廃棄しつつ自明を失明に転じてやまぬ、その営為自体から ejection=放逐されつつejection=噴出するdisjection=振戦/蠕動。さらにそこにinjection=注入されるメトロノームの恣意的な漏刻。欄外から苫米地は二重フレームの外縁を自らのジェストで蚕蝕しつつ、そのscore=刻み目/記譜をメトロノームの自己操作に依拠する。昨夜、写真という名の記録/記憶に無残なscars=傷跡を負わせた当人こそが、今度は二重フレームに自らを焼き込ませる、傷=刻みそのものに自らを割り込ませる他にすべがないからだ。それを苫米地は「書字である身体/書くことの失明」をもってparajection=誤射・異射したと言えよう。

『オハイオ』では書かれてはいても読まれることのなかった「四十ページの四つ目のパラグラフ」が、この『八分八八秒』に裏書きされている。それ自体palindrome=回文めいた、「O」と「O」に挟撃される「hi=火・罷・灰・廃」。モレキュラーがトラムで試みた口述録音マシーンのダイアグラム。「失明と未明の共-起」が発明される。きっとジャン・ジュネの次の一文がその契機となる。——<美には傷以外の起源はない>。

(初出:「舞台芸術」11号 企画・編集=京都造形芸術大学舞台芸術研究センター/2007.03)