粉川哲夫「カフカと情報化社会」評

粉川哲夫「カフカと情報化社会」評

豊島重之(モレキュラー・シアター演出家)

(1)

粉川哲夫の前著に「都市の使い方」というのがある。その伝では本書を「カフカの使い方」と別称してもよさそうだ。カフカを「読む」でも「聴く」でも「語る」でもなく「使う」。テクストのみならず食生活や性生活、情報のことごとくを「使う」。一口に言って、カフカをモノ扱いすること。テクストを紙扱いすること。なんという不遜そして浮薄。カフカとテクストから秘部を聴きとり、その世界を丹念に紡ぐ者には、「使う」という単刀直入感が鼻もちならないばかりか、カフカ固有の歴史性とテクストの無意識を顧みない、つまり野方図でなく、カフカの恋文に慄然として以来のカフカフィルたる私でさえ「使う」という言葉使いにはつい慎重になる。慄然と偏愛が知らぬままにカフカをアウラ状の他者に変え、メタレベル化してしまうからなのか。それとも「使う」というだけで、きまってそこに使う主体が誘起され、実は直ちにそれが「使われる」操作の場へと展出するからなのか。

操作の場とは関係の場ではない。使う/使われる、主体/他者といったインタラクティヴな場と混同してはならない。「使う」とは主体がそのまま場であり、誘起がそのまま展出であるような一方的な事態をさしている。だから私を慎重にさせるのは主体化であるよりは、これら超主体化と間主体化を含むあらゆる脱主体化のほうである。「使う」には「使われる」という対語はないのだ。どこまでも「使い」続けるしかなく、どこまで行っても「使い」きるということがない。そのようなものとして粉川は、都市に継いでカフカを素描したと思うし、さなきだに私はそのように本書を「使い」たい。

(2)

確かにカフカには謎があり、神秘がある。しかしそれはカフカのものであって私達のものではない。彼の上歯と下歯の間に今も固く噛まれているものであって、私達自身の謎や神秘といささかも交錯しないし、対置させることで此岸の謎や神秘を解こうとしてはならない。私達には何もできないのだ。「使う」ということ以外には。世界があるという謎、それが世界であるという神秘。それこそ高度情報化社会の詐術である。八戸の縄文であれヨーロッパ中世であれ、いつだって高度情報化社会の真っ只中であった。その詐術の域内でカフカを捉えたり囚われたりしているにすぎない。しばしば私達を襲う域外感と詐術に対する転位に他ならない。このことをカフカはよく知っていた。転位では詐術を強化するだけだということを。

そこでカフカはどうしたか。「使う」ことを始めたのである。詐術に対して詐術を使うこと。権力に対して反権力を、では断じてない。それは無自覚な模倣であり、主体化という名の脱主体化への道だ。そうではなく自覚的な模倣、前方への反復。本書が「変身」や「判決」といった作品からではなく「フェリーツェへの手紙」から始まっているのは、何もクロニクル上のことだけではあるまい。往信しか現存しないこの恋文において、実は私達は返信も読ませられている。たえずカフカはこれについてこう書いてくれとフェリーツェに書き送る。これはいいがあれが落ちている、こうは書かれているがああも書けるのではないか。こんなやりとりはやめよう、全部燃やしてくれ。しまいには名前だけでいい、Fとだけ書いて投函してくれと書きまくる。極言すると全く同じ内容の交信がえんえんと続くのだ。モノローグと見まごうダイアローグ。ダイアローグの態を借りたモノローグ。しかし決してそのいずれでもない畳語。パラローグとしか呼びようのない反復。これがカフカの詐術であり、粉川が注目する情報操作の場なのだ。そしてそれは世界の、世界という詐術と完璧に同致している。ただ一点を除いて。

(3)

情報化社会における主体なき差異化と反復は、実は主体化と脱主体化を阻害するよりは不断に創造するようしむける多元操作の場である。多元とは一元の忘却に他ならない。カフカはこの詐術にそれと知りつつ同行する。それどころか自罰的なまでに反復する。その上で創造だけは忘却する。あくまで主体化と脱主体化ともども回避する点では他罰的でさえある。言いかえれば世界にひたりと身を匿すことにおいて、世界が詐術であることをふわりと露出してしまうのだ。詐術に対して詐術を、忘却に対して忘却を、反復に対して反復を「使う」カフカ。

「使う」ことにおいてモノ寸前、紙寸前、モノと紙の雑種寸前のカフカが出現する。そこではカフカはとびきりポップでとびきり〝パフォーマティウ〟だ。その意味では本書は真の「カフカ入門書」と言ってもよい。他方、いくら「する」ことをしても「した」ことにならず、かといって「しない」ことの困難を思い尽くした者には、本書は「カフカ出門書」として立ち現れるかもしれない。入門と出門はあるが、門そのものはない。「使う」ことにおいて主体と世界もろとも門は蒸発してしまうのだ。

カフカのカの字も知らない入門者と、既にカフカをモノか紙にしか思えなくなった出門者の、両極にある読者にのみ本書は有効だという気がする。

(初出:不明/豊島氏から採録者への私信に含まれていたプリントアウトによる/おそらく1990)