アプフォルメ発刊に寄せて(1)

「アプフォルメ」発刊に寄せて(1)

豊島重之

ここに同じ名の二枚の肖像写真がある。

同じ名はヤドヴィガ。二枚の写真は自殺したフィアンセと「祈りに恍惚となる」妻。ヴィトカツィにとって、自分がそうであったように、名は二度反復されなくてはならず、三度目がないためには、ドラッグによる恍惚も自殺も辞すわけにはいかなかったのかもしれない。最期をみとったのは愛人チェスラヴァだが、それはちょうど、シャルロットにみとられたルーセルやドーラにみとられたカフカを想起させる。写真家の父に多くを負った分だけ呪ったであろうヴィトカツィは、確かに同時代のカフカと共振していたことになる。でもそれは、家族・民族・共同体の斤力を浴びて難産しつつあった精神分析的「自我」の対他性でもなければ、写真・映画・交通・都市のテクノロジー革命と失共同体から出現してきた「群衆」の時代の「個的実存」の生きがたさによるのでもない。私がヴィトカツィの写真とパステル画におけるセルフ・ポートレートに魅かれるのは、「ヤドヴィガ的なるもの」にほかならない。

ヴィトカツィへの関心は、私の場合、カフカからやってきた。カフカの初のポーランド訳の仲介者となったシュルツへの関心からゴンブローヴィッチそしてヴィトカツィに至る経緯は、勿論、工藤幸雄氏の諸稿なしにはありえない。工藤教授には九〇年十二月「カンタータ・フェス」に来八・レクチュアして頂いた。その直後、プラハのECC設立総会に招かれ、ワルシャワにも赴いたが、密かな念願だったザコパネにはついに足を延ばすことは叶わなかった。一つには、ワルシャワで「アカデミア・ルフ」との魅惑的な出会いに時をすごしてしまったこと、もう一つには、ザコパネの手前のクラクフで折しも行われていたタデウシュ・カントルの通夜をなんとなく通り抜けたくなかったため、さらには、ゴンブローヴィッチの「コスモス」におけるザコパネの描写が余りに強烈で、どう転んでも実際のザコパネからは幻滅しか得られぬ気がしていたこと、それ以上に、ザコパネ抜きには考えられないヴィトカツィについて、まだ決定的な感触を掴みかねていたからだったように思う。八九年三月に「国際カフカ・コロック」を構想・実現した時は、カフカのプラハにモレキュラーの八戸を対置(パラ・サイト)させようという感触は少なくとも強烈にあった。だから、私にとっては、九〇年十二月以来、少しずつ「ヴィトカツィのザコパネ」への迂回路を辿りはじめた、と言える。まさしくそれが、九二年三月の「絶対演劇コロック」であった。

(初出「ヴィト研通信#2「アプフォルメ」」/1992)