モレキュラー近況《島守探訪ノート》

モレキュラー近況《島守探訪ノート》

豊島重之(モレキュラーシアター芸術監督・ダンスバレエリセ主宰)

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2011年10月23日、八戸市公会堂でリセ55周年記念=創設者豊島和子追悼公演『ギンリョウのたびだち』が開催された。思潮社から詩集『難波田(なんばた)』を刊行したばかりの詩人谷合吉重(よししげ)さんによる10月19日付け東奥日報紙掲載稿『事後性の愉楽』と、都内でルーツミュージック芸術祭を実践しているアート集団「バスキングジャパン」代表戸田昌征(まさゆき)さんによる翌20日付けデーリー東北紙掲載稿『詩魂の血脈〈ひかり〉に』で期待されたとおり、アントナン・アルトーの身体技法哲学の第一人者としても名高い、八戸出身のダンスアーティスト及川廣信(ひろのぶ)さんと、イアニス・クセナキス創設の「Les Ateliers UPIC(現CIX)」で研鑽(けんさん)を積んだ、作曲の根本忍(しのぶ)さん、および国際現代音楽コンクールで数々の受賞歴をもつ、古楽器セルパン演奏の第一人者たる橋本晋哉(しんや)さんのお三方による招待作品『shiranuka + シララオイカ sirar.oika 2011』は、〈ダンスと音楽のパラタクシス=併置〉による衝撃のステージであった。その舞台写真3点だけからでも、当日のライヴにおける清冽(せいれつ)な音波=光波の「波打つレイアー=層雲」を感受できるかもしれない。

及川廣信ダンス『shiranuka ——豊島和子に』©DANSE BALLET LYCÉE

根本忍作曲『セルパンとライヴエレクトロニクスのための

「シララオイカ sirar.oika 」2011』©DANSE BALLET LYCÉE

橋本晋哉演奏『セルパンとライヴエレクトロニクスのための「シララオイカ sirar.oika 」2011』

©DANSE BALLET LYCÉE

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それに加えて、2011年1月「座・高円寺」でのモレキュラーシアター公演『のりしろ nori-shiro』出演の軸となった大久保一恵(かずえ)・田島千征(ちゆき)・四戸由香(よしか)・中野渡萌(もえ)ら、リセ教師やリセ出身者による追悼作品『人称と所在 locus solus(略称LS)』『Left Long Left(置き去りに、かくも長き)』『種子の方舟』も好評であった。ここでは『LS』の1点と『LLL』の3点のみ先行掲載しておきたい。田島とともに出演した佐々木麻友(まゆ)・西塚由佳(ゆか)・秋山容子(ようこ)の表情の深まりに注目してほしいからである。『LLL』の別のショットが掲載されたリセのweb:dblycee.jp と見較べてみれば歴然としていようが、とくに秋山の体動と表情の切れ味は、近年のモレキュラー全作出演という伏流水がようやく噴出し始めた兆(きざ)しだと思う。

終演に引き続き、八戸グランドホテルで「八戸リセ・十和田リセ・二戸リセ父母の会」主催による「豊島和子お別れパーティ + 55周年公演打上げの祝宴」が開催され、170名もの御参席の方々による遺影への献花から始まった。恒例のリセエンヌたちによる賑やかなダンスタイムや、高卒・上京によるリセ修了者4名へのプレゼント贈呈式や、都内のダンス最前線で活躍中のリセ出身者3名の紹介も。亡き師追悼のソロ『Saudade —あの場所へ—』を踊ってくれた「ソウル国際ダンスコンペティション2011」第三位受賞の四戸由香(よしか)は、今年1月のモレキュラー『のりしろ』高円寺公演にも出演し、次いで10月の横浜赤レンガ倉庫での笠井叡(あきら)ダンス公演『虚舟 うつろぶね』にも出演したばかり。京都造形芸大舞台芸術学科を卒後、都内に活動の場を移した佐々木麻友(まゆ)は、何度も八戸に通い、追悼作品『LLL』をみごとに踊り込んでくれた。そしてもう一人、ダンスユニット「colonch」や「プロジェクト大山」の長谷川風立子(さつこ)は、本番のステージ袖でリセエンヌたちの出入りを見守ってくれていた。

ちなみにパーティでの私の「謝辞」が、リセのweb:dblycee.jp に掲載されており、その「謝辞」のなかで私は、鵜飼哲さん訳の、亡きジャック・デリダの別辞「salut サリュー/道中、御無事で!」を援用させていただいた。デリダの文脈では「来たるべき民主主義(言い換えれば、新たなインターナショナル)」の前途多難に対して発せられていたのだが、「謝辞」の文脈では、亡き姉を含むすべての前途多難なこどもたち、来たるべき「おさなご」に向けて発せられたことを言い添えておきたい。

『人称と所在(ロクスソルス)』 中野渡萌を中央に田中幸乃(手前・左)・平船果凛(手前・右)ほか3名

©DANSE BALLET LYCÉE

『Left Long Left(置き去りに、かくも長き)』 秋山容子(左)・西塚由佳(右)©DANSE BALLET LYCÉE

『Left Long Left』 佐々木麻友(左)・秋山容子(右)©DANSE BALLET LYCÉE

『Left Long Left』 左から佐々木麻友・秋山容子・西塚由佳・田島千征©DANSE BALLET LYCÉE

四戸由香による豊島和子追悼の自作ソロ『Saudade —あの場所へ—』©DANSE BALLET LYCÉE

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翌24日付けデーリー東北紙と、25日付け東奥日報紙による事後記事とともに、前日22日付け東奥日報紙『追悼写文集〜ギンリョウのたびだち』紹介記事も併載しておこう。モレキュラー創設者でもあった豊島和子のダンスを風土との切実な照応に洞察する及川氏の論考は、本書『写文集』の構成と、じつは無縁ではないからである。露口啓二さん『自然史』における北海道の写真作品を巻頭に、根本忍さん『ある始まりの海嘯(かいしょう)』における下北半島東通村白糠(しらぬかは、豊島和子の生地)の写真作品、佐藤恵さん『ピカイア』における岩手・早池峰(はやちね)山系を源流とする八戸・新井田(にいだ)川下流域の写真作品、そして及川廣信さん『〈風・土・水〉の底にあるもの』における外が浜(現・陸奥湾)に面した、しかも豊島和子が幼少期を過ごした陸奥横浜町の写真作品が陸続するからである。

北海道以北と東北・奥州以南を架橋(かきょう)する「外が浜」こそ、さながらヨーロッパとアラブ・アフリカを繋ぐ「地中海」にも匹敵(ひってき)する、東アジア交易ネットワークの要衝(ようしょう)だと見抜いていた一人が、11世紀末に奥州・平泉を開府した藤原清衡(きよひら)である。西の征討(せいとう)軍との苛酷な長期戦はもとより、骨肉(こつにく)相争う内乱の惨劇(さんげき)を辛うじて生き延びた前半生。敢えてその焦土(しょうど)の真上に、仏国土としての平泉遷都=「久遠(くおん)の鐘」に一身を捧げた後半生。晩年の清衡による1126年『中尊寺落慶供養願文(くようがんもん)』を、序章に触れた戸田昌征さんより勧められて一読したが、そのスケール感溢れる構想には誰もが驚かざるを得まい。

留意すべきは、清衡には、古くはアテルイ・モレ・安倍氏・清原氏ら東北・奥羽エミシの血脈を引き継ぐ「東夷(とうい)の遠酋(おんしゅう)」としての自覚が根強くあったことだろう。古来より知られた糠部(ぬかのぶ)=八戸牧(まき)産の軍馬や、馬具や武器としても貴重な鉄、さらには金・塩の産地でもあった「東夷の圏域」から都への献上を迫る、西の権勢に抗して=「西方浄土イディオロギー」に抗して、徹底した面従腹背(めんじゅうふくはい)の態を崩さず=「現世浄土・界内浄刹(かいだいじょうさつ[註])」の想を崩さず、しかしその一方で、着々と平泉から外が浜、ひいては道南へと至る奥州縦貫「奥大道(おくだいどう)」を敷設(ふせつ)し、そのうえ山門勢力たる加賀白山(はくさん)や大津日吉(ひえ)の神人(「じにん」と称する広域商人)たちとの強力な絆により、平泉関山(かんざん)から奥羽・出羽の山越えや最上(もがみ)・雄物(おもの)の川越え、さらに能登・北越から博多・寧波(ニンポー・当時は南宋の国際都市)へと至る日本海・東シナ海交易ルートをも確立していた。

[註]極論すれば、出羽三山の「即身仏(そくしんぶつ)=ミイラ信仰」同然の、王朝の「西方浄土イディオロギー」とは真っ向(こう)から対立する山岳修験(しゅげん)思想である。事実、中尊寺金色堂の地下納骨堂には、清衡・基衡・秀衡三代のミイラとともに、頼朝征討(せいとう)により北へ逃亡・誅殺(ちゅうさつ)された四代泰衡の首と蓮(はす)の種子が収められ、その蓮の花が八百年の時を超えて開花したと聞く。

島守の龍興山登頂の一行

知られざるヒガシ。西国(さいごく)ヤマト・東国(とうごく)アヅマとも異なる、恐るべきヒンガシ。絶えざるニシの外圧に抗する、不屈(ふくつ)のヒナシ。江戸後期の「歩き筋」たる菅江真澄(すがえますみ)ならば「ひなのひとふし」と名付けたであろう、鄙(ひな)のひとさし。敢えて漢字を当てれば、相手の急所を突く「一刺し」、冥途(めいど)の舞を「一差し」、閃光(せんこう)を切り裂くほどの「一翳(ひとさ)し」でもあろうか。ここに至って及川さん執筆の豊島和子ダンス論が、この「一注(ひとさ)し」であったのだと、ようやく気づかされることになる。

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翌24日、及川さんと橋本さんは朝の新幹線で帰京された。帰京と帰札まで少し余裕のある鵜飼哲さんと露口啓二さんを、いわゆる八戸の隠れ里「島守=シマモリ(現・八戸市南郷区)」に車二台で御案内することができた。根本忍さんと鷹田章伍が運転を引き受けてくれた。二時間ほどしか余裕がないため、「追悼写文集」収録のアフタートークにも出てくる龍興山(りゅうこうさん)登頂を試みることにした。龍興山への改称は明治の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)によるもので、江戸期それ以前から虚空蔵様(こくぞうさま)として、先祖伝来、脈々とこの盆地の眺望を見守ってきたに違いない。

山頂から見下ろすと、蛇行(だこう)する新井田川に抱かれるようにして、数えるほどの小集落と耕地が身を寄せ合っている。しかも周囲を深い山林や小高い丘陵にぐるり取り囲まれている。よほど深入りしてしまった山菜採りが道に迷って、でもなければこの隠れ里に気づく者はいまい。かつては雑穀中心であった耕地は、むろん今は名実(めいじつ)ともに一番人気の蕎麦(そば)や、売れ筋の野菜・花卉(かき)栽培がメインを占めているようだ。

島守の龍興山登頂の一行

それにしても、川の中州(なかす)の絶妙な配色と地勢のレイアウト、その蛇行のなんと美しいことか。まるで橋本晋哉さんの体に巻き付いた古楽器セルパンのS状結腸のごとき形状と、吸息と呼息で高音と低音を自在(じざい)に奏でる美しい音色(ねいろ)にもう一度、立ち会っている気がしてくる。「呪われたるもの」こそが「死者を悼(いた)む」ことができる、それがセルパン=地を這う蛇/天を舞う龍なのだ。だとすれば菩提(ぼだい)寺の光龍寺に永眠する豊島和子が、セルパン=龍のひと吠(ほ)えに誘われて、ひとさし舞うべく龍興山を踊り場に選んだとしても不思議ではない。

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龍興山の三文字を掲げた山頂の社殿周辺は平坦(へいたん)な岩場ではなく、堅い土質の随処にひしゃげた樹根がゴツゴツと露出している。社殿を一巡(いちじゅん)するには、気軽に歩き進むどころではなく、この樹根からあの樹根へ、さらに次の樹根の露頭部を目指して、いわば跳び石づたいに踏み外しを覚悟のうえ、誰もが険峻(けんしゅん)な峰から峰へ跳び越える回峰修験(かいほうしゅげん)の行者(ぎょうじゃ)となるほかはない。そうか、この虚空蔵さんは、そして眼下の隠れ里は、もともと早池峰修験の「カスミの飛び地」であったのか、そう思ったのは私だけではあるまい。

早くも鵜飼さんと露口さんは、虚空蔵=龍興山にふさわしい木彫のみごとな「立体透(す)かし彫り」に気づいて、熱心に見惚(みほ)れながら、その裏側の手の込んだ技巧にも注目していた。華麗な牡丹の花を口にくわえて猛り狂う唐獅子の形相。あるいは、渦巻く雲間からヌッと舞い降りてきた龍は雨乞いの表徴(ひょうちょう)だ。その図体(ずうたい)をくねらせて一滴の渦を抱きかかえているが、その渦のなかに封印された木製の玉が、山頂の風をうけてコロコロと揺れ動くのが分かる。龍の玉は豊穣(ほうじょう)をもたらす水の一滴であり、巨大な「壷中(こちゅう)の天」なのだろう。木彫は獅子や龍だけではない。十二支の動物たちの異風(いふう)が朽(く)ちた堂回りに散見される。奉納者は木彫師自身、三戸郡島守村在 川畑留吉(彫師号 吉正)とあった。「きっしょう」とでも称したのだろうか。おそらく完成は戦後の昭和期だろうが、確かな時期までは分からない。

風雨に晒(さら)された木の堂壁一面に消えかかった落書き。社殿正面には、数百年もの白苔に背を覆われた丑寅(うしとら)一対(いっつい)の狛犬(こまいぬ)も一同の目を惹(ひ)く。ところが、この社殿にあまりにも不似合いなツルリとした石彫の平重盛像に至っては、一同、首を傾(かし)げることしきり。案内板には、重盛は清盛の嫡男(ちゃくなん)であったが、権勢を揮(ふる)う父に諫言(かんげん)して怒りを買い、この地へと流刑(るけい)されたとある。平家の落人(おちうど)伝説は全国各地に遍在するけれども、源氏の義経伝説にはこと欠かない八戸・北三陸一帯にあって、これはまた一段と「まことしやかな」作り話であり、山岳密教修験の「カスミ」を秘匿(ひとく)するためだけの理由では説明がつかない。

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だが、少し想像を逞(たくま)しくしてみると、清盛と秀衡(ひでひら)、維盛(これもり)と義経という一対を配することで、逆に見えてくる筋書きもなくはない。この四人を密かに順接する重盛の影の薄さと、逆接する父と子の再帰の濃さという筋書きが。

前九年・後三年の役(えき)をくぐり抜けた初代清衡(きよひら)が、相手としたのは京の都の実権を握っていた白河上皇(のちの白河院)だったが、三代秀衡(ひでひら)にとっては、保元・平治の乱に勝利して後白河上皇(のちの後白河院)を抱き込み、権力を一手に掌握(しょうあく)した平清盛であった。清盛はさかんに秀衡に提携を持ちかけ、二代基衡(もとひら)以来の屈強(くっきょう)な平泉武士団の派遣を要請したが、秀衡にそれに応じた気配はない。趨勢(すうせい)は矢継ぎ早に急転する。僧俊寛や後白河院による清盛暗殺謀議、いわゆる鹿ヶ谷(ししがたに)山荘事件発覚後の1179年、清盛の軍事クーデタにより平家独裁の世になったかにみえた。しかしその翌年から、源頼政や頼朝・義経・義仲らが各地で挙兵し、重盛の長子(清盛の孫にあたる)平維盛率いる源氏征討軍は各地で惨敗、とりわけ義経が維盛を敗った「一の谷の合戦」はよく知られていよう。那智の滝へと逃散(ちょうさん)した息子維盛の入水(じゅすい)死を、父重盛は耳にする機をすでに逸(いっ)していたのかもしれない。

さらに1185年の平家滅亡に乗じた義経の蜂起と敗走、平泉亡命がそれに拍車をかける。秀衡が受け入れたのは義経だけではない。後白河院の落胤(らくいん)で「平泉姫宮」と呼ばれた皇女は、源頼朝率いる鎌倉勢力を一掃(いっそう)する秀衡の北方政権構想の隠し球となった。「平泉を地獄絵にしたくなかったら、義経の首を差し出せ」という、頼朝の度重なる命令に屈することのなかった父・秀衡の反骨(はんこつ)と、その息子・四代泰衡(やすひら)の悲運。そこに重盛と維盛の帰趨(きすう)を重ね合わせることもできよう。

のちの秀吉の「唐入り」にも似た、頼朝の「奥入り」の軍勢が迫る1189年、泰衡は父の遺言に逆らって、ある意味では初代清衡の戦略に立ち返って、匿(かくま)っていた義経を急襲、自害に追い込んだうえで居館に火を放つ。あくまで頼朝に義経の首を差し出すことを拒んだのである。しかも泰衡はその責めを自ら負うて「加羅御所」など自らの居館にも火を放ち、さらに周到(しゅうとう)にも、頼朝に叛意(はんい)を呈した亡父の建立(こんりゅう)による「無量光院」のみを炎上させて、中尊寺・毛越寺など「平泉仏国土」を後世に残そうとしたのである。まもなく武装解除した平泉に侵攻した頼朝軍は、僧侶たちの読経(どきょう)のポリフォニーに迎え入れられて唖然(あぜん)としたであろう。徹底した虐殺を辞さぬ平泉壊滅の企図(きと)は骨抜きにされたと言ってもよい。さすがの頼朝もこれ以上、秀衡・泰衡の父子の屍(しかばね)を鞭打つことはできなかった。むろん中尊寺・毛越寺など現世浄土は、国家守護=征夷武神(せいいぶじん)の「鎌倉八幡宮」に衣替えさせられたのではあったけれども。

(5th・Nov. 2011:豊島重之)